霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(八)

インフォメーション
題名:(八) 著者:浅野和三郎
ページ:212
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142400c59
 連日九十何度かこれは華氏だと思われる。戦前は摂氏と華氏が併用されていた。華氏90度は摂氏およそ32度。の炎暑を犯してのお筆先研究は、たうとう自分をして一身の去就を決するに至らしめた。自分が一家を(ひつさ)げて綾部に移住したのは、それから約四箇月を経た大正五年の十二月のことであつたが、この四箇月はただ後始末をつけるに要した日子(につし)で、大本と始終せんとする胸底(きようてい)の覚悟は、八月の中旬を以て動かすべからざる程度に、堅く堅く出来(あが)つて居た。即ち初めて大本の存在を知つてから、約八箇月にして信仰の門に辿りついた訳だ。割合に短日月(たんじつげつ)ではあるが、しかし考へて見れば其(あひだ)に、出口先生の横須賀出張を願つたり、飯森福島二氏の御世話になつたり、自分でも二度も綾部へ出て来て見たり、可なりの手数(てかず)を要して居る。若しそれ眼には見えないが、神様の蔭ながらの御指導は()れ程であつたか、(ほと)んど測り知ることは出来ない。一問(いちもん)起る(ごと)に必ず解決を与へられ、一疑(いちぎ)生ずる毎に常に体験を恵まれたる、その洪恩(こうおん)大寵(だいちよう)は、思へば勿体ない限りである。自分が格別(ゆが)まず迷はず、殆んど傍目(わきめ)もふらずにその(をしへ)に進み()ることの出来たのは、決して天分(てんぶん)の優れた為めでも、努力の(だい)なるが為めでも何でもない。ただ出来るやうにさせられたから出来たまでである。それですら半歳以上の日子(につし)を要した所を考ふれば、それほどの便宜と手がかりを授けられない人々の、容易に思ひ切つた態度に(いづ)(あた)はざるは全く無理もない話だと思ふ。要するに各人皆其事情が違ひ、内容が違ひ、径路(けいろ)が違ふのであるから、軽々しく他を批評する事は出来ない。お筆先の(うち)に間断なく身魂(みたま)の因縁といふことが説かれ、『因縁の身魂を引寄せて御用に使ふ』といふ事が随所に示されて居るが、ドウもそれは動かすべからざる真理に相違ない。因縁の身魂は大本に()ぬ時から其準備(したく)をされて居り、いよいよ関係がついたとすると、不可抗の力で背後から押れるやうに丹波の山奥へ連れて来られて了ふ。之に反して因縁のない身魂は、何所からともなく故障が湧いて来て、よしや内々その意は動いて居ても、段々綾部と離れて来る。全く以て人力などの如何(いかん)ともし難きものがある。泣いたり笑つたりしても到底追ひつかない。人間はある程度迄アキラメが肝要だ。
 大体に於て自分は()と夏をお筆先と首引(くびひき)をして(くら)したのであるが、しかしこの間に多少は記して置かねばならぬ事がないでもない。お筆先を想ひ出せば自然に先づ教祖を想ひ出す。教祖には滞在中(ほとん)ど毎日お目にかかつたと思ふが、せいぜい三十分か四十分で切りあげるのを常とした。教祖は何時見ても嫣然(にこやか)で、控へ目で、丁寧で、謙遜で、そして何所(どこ)ともなう犯し難く()れ難き所があつた。これが何人(なんびと)に対しても、又(いづ)れの場合に於ても(すこ)しもムラが無かつたのは、いかに其修養が深刻であつたかを推測するに十分であつた。到底これは短い一生(いつしやう)二生(にしやう)の修養で出来るものではない。『出口直は(うま)れかはり死にかはり、苦労した身魂である』とお筆先の中にも示されてある通り、幾千幾万の星霜に亘りての苦労苦心の凝結(かたまり)がこの人を作り上げ、(なほ)その上現世(げんせ)に於ける大洗煉(だいせんれん)を経て、神とも人とも区別がつかぬまでに立派に磨き上げられたのであつた。夜光の(たま)は時に光を放たずには置かぬ。自分の滞在中にも一再ならすそれがあつた。
 ある日教祖は例の御神前の()で筆先を書いて居られたが、卒爾(にはか)に老役人の一人を呼ばれた。
『何ぞ御用で厶りますか』
『今大きな、いやらしい(たぬき)一疋(いつぴき)こちらへ出て来ましたがなア、(しか)つてやると吃驚(びつくり)して眼をまはして廊下に倒れて了ひました。御苦労ぢやが一同(みんな)形付(かたつけ)てお()んなはれ』
 役員は吃驚(びつくり)して教祖の前をすべり()で、廊下へ来て見ると、成程其処(そこ)に気絶して倒れて居るものがあることはあつた。しかしそれは狸ではなくて、(ただ)の人間であつた。
 段々(しら)べて見ると此人は近在の農夫で、この日大本へ出て来てお広前で鎮魂をして貰つたのであつた。すると此人には狸の霊魂が()いて居て、(さかん)に呶鳴り散らした。鎮魂を(をは)つてから教祖さんにお目にかかる所思(つもり)で、其人はヒヨロヒヨロ廊下伝ひに奥の方へやつて来た。するとまだ十分狸の憑霊が鎮まつて居なかつたものと見え、再び発動状態となるはなつたが、狸先生(たちま)ち教祖さんの神威に打たれ、びツくりして眼を(まは)して廊下へ倒れて了つた。憑霊が眼を(まは)したので其()いて居る人間の肉体も同時に眼を(まは)して了つた。教祖さんの霊眼は(はや)くも狸の霊の気絶したのを認められたので、天眼通力も()うなると全く恐ろしくなる。眼光紙背(しはい)に徹するどころの騒ぎでない。衣裳と皮膚と肉とを通過して、其の霊性を見ぬいて了ふ。これが(しん)に『(ばけ)の皮を()く』のであらう。
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