連日九十何度かの炎暑を犯してのお筆先研究は、たうとう自分をして一身の去就を決するに至らしめた。自分が一家を提げて綾部に移住したのは、それから約四箇月を経た大正五年の十二月のことであつたが、この四箇月はただ後始末をつけるに要した日子で、大本と始終せんとする胸底の覚悟は、八月の中旬を以て動かすべからざる程度に、堅く堅く出来上つて居た。即ち初めて大本の存在を知つてから、約八箇月にして信仰の門に辿りついた訳だ。割合に短日月ではあるが、しかし考へて見れば其間に、出口先生の横須賀出張を願つたり、飯森福島二氏の御世話になつたり、自分でも二度も綾部へ出て来て見たり、可なりの手数を要して居る。若しそれ眼には見えないが、神様の蔭ながらの御指導は何れ程であつたか、殆んど測り知ることは出来ない。一問起る毎に必ず解決を与へられ、一疑生ずる毎に常に体験を恵まれたる、その洪恩大寵は、思へば勿体ない限りである。自分が格別歪まず迷はず、殆んど傍目もふらずにその教に進み入ることの出来たのは、決して天分の優れた為めでも、努力の大なるが為めでも何でもない。ただ出来るやうにさせられたから出来たまでである。それですら半歳以上の日子を要した所を考ふれば、それほどの便宜と手がかりを授けられない人々の、容易に思ひ切つた態度に出る能はざるは全く無理もない話だと思ふ。要するに各人皆其事情が違ひ、内容が違ひ、径路が違ふのであるから、軽々しく他を批評する事は出来ない。お筆先の中に間断なく身魂の因縁といふことが説かれ、『因縁の身魂を引寄せて御用に使ふ』といふ事が随所に示されて居るが、ドウもそれは動かすべからざる真理に相違ない。因縁の身魂は大本に来ぬ時から其準備をされて居り、いよいよ関係がついたとすると、不可抗の力で背後から押れるやうに丹波の山奥へ連れて来られて了ふ。之に反して因縁のない身魂は、何所からともなく故障が湧いて来て、よしや内々その意は動いて居ても、段々綾部と離れて来る。全く以て人力などの如何ともし難きものがある。泣いたり笑つたりしても到底追ひつかない。人間はある程度迄アキラメが肝要だ。
大体に於て自分は一と夏をお筆先と首引をして暮したのであるが、しかしこの間に多少は記して置かねばならぬ事がないでもない。お筆先を想ひ出せば自然に先づ教祖を想ひ出す。教祖には滞在中殆ど毎日お目にかかつたと思ふが、せいぜい三十分か四十分で切りあげるのを常とした。教祖は何時見ても嫣然で、控へ目で、丁寧で、謙遜で、そして何所ともなう犯し難く狎れ難き所があつた。これが何人に対しても、又何れの場合に於ても毫しもムラが無かつたのは、いかに其修養が深刻であつたかを推測するに十分であつた。到底これは短い一生や二生の修養で出来るものではない。『出口直は生れかはり死にかはり、苦労した身魂である』とお筆先の中にも示されてある通り、幾千幾万の星霜に亘りての苦労苦心の凝結がこの人を作り上げ、尚その上現世に於ける大洗煉を経て、神とも人とも区別がつかぬまでに立派に磨き上げられたのであつた。夜光の珠は時に光を放たずには置かぬ。自分の滞在中にも一再ならすそれがあつた。
ある日教祖は例の御神前の間で筆先を書いて居られたが、卒爾に老役人の一人を呼ばれた。
『何ぞ御用で厶りますか』
『今大きな、いやらしい狸が一疋こちらへ出て来ましたがなア、叱つてやると吃驚して眼をまはして廊下に倒れて了ひました。御苦労ぢやが一同で形付てお呉んなはれ』
役員は吃驚して教祖の前をすべり出で、廊下へ来て見ると、成程其処に気絶して倒れて居るものがあることはあつた。しかしそれは狸ではなくて、唯の人間であつた。
段々査べて見ると此人は近在の農夫で、この日大本へ出て来てお広前で鎮魂をして貰つたのであつた。すると此人には狸の霊魂が憑いて居て、盛に呶鳴り散らした。鎮魂を終つてから教祖さんにお目にかかる所思で、其人はヒヨロヒヨロ廊下伝ひに奥の方へやつて来た。するとまだ十分狸の憑霊が鎮まつて居なかつたものと見え、再び発動状態となるはなつたが、狸先生忽ち教祖さんの神威に打たれ、びツくりして眼を眩して廊下へ倒れて了つた。憑霊が眼を眩したので其憑いて居る人間の肉体も同時に眼を眩して了つた。教祖さんの霊眼は迅くも狸の霊の気絶したのを認められたので、天眼通力も斯うなると全く恐ろしくなる。眼光紙背に徹するどころの騒ぎでない。衣裳と皮膚と肉とを通過して、其の霊性を見ぬいて了ふ。これが真に『化の皮を剥く』のであらう。