翌くる三十日の午前中には自分は再び綾部の客となつた。大本の人々は自分の来着を待ち構へて居て呉れ、就中出口先生は広前まで飛び出て迎へられた。
『ようお出でやす、昨日からお待ちして居ました』
取り敢ず先生の居間の六畳に通る。爰には飯森機関中佐だの、京都の福中機関中佐だのが来合せて居て、忽ち座談に花が咲いたが、その中出口先生は大変お腹が痛み出して、たうとう次の六畳に蒲団を敷かせて横になられて了つた。福島久子さんだの、其他の婦女連が、かはるがはる来て頻にお腹を揉んだが容易に治まる模様がなかつた。少し大本の内部に住んで居た人なら先生の発作的病気の意義がよく判る。一と月の中に何度かは先生の身体に必ず異状が起きて、頭が痛んだり、腹が痛んだり、手や足が倦くなつたり、その都度、女、子供、役員等が所謂『お蔭を貰ふ』のである。世間並の言葉に之を言ひ表はせば、先生の身体を揉んだり、撫つたり、捻つたり、引張つたり、いろいろして介抱する事なのである。不用意に之を見れば、先生は余程病身のやうであるが、実はさうではない。稀に見る所の健体で、荒仕事をしても、野山を跋渉しても、徹夜をしても、大概の人は敵はない。それで居て屢次苦しまるるのは偏に霊の作用に外ならぬのである。人体が神の容器に作られて居るといふことを、特に先生の身体のやうに露骨に明瞭に実証するものはない。善霊にしろ、悪霊にしろ、先生の身体には直にそれが感応すること影の形に伴なふが如く、響の音に応ずるが如くである。極度に感じ易い身体、憑り易い身体に出来て居るのである。その為めに世界に起る細大の事物は、未然に先生にだけは判る。が、同時に其犠牲も実に大きい。常にそれが発作的病状となりて現れて来る。尤も其癒るのも迅い。今の今まで鉢巻でもしてウンウン唸つて居たと思ふと、次ぎの瞬間には忘れたやうにケロリとしてお池で船を漕いで居たりする。艮の金神さまの口吻そのまま全く『綾部の大化物』に相違ない、
但しこんな事は、後で判つたことで、其時の自分は先生の腹痛は矢張りただの腹痛であると思ひ、格別気にもとめず、二三の人を相手に酒を飲んだり昼飯を食べたりして談笑をつづけた。二三時間経つと、他の人には皆座を立つて了ひ、自分一人が残された。すると先生は尚ほ揉みつづけて居た手をやめさせて、ムツクと蒲団の上に起き上つた。
『モウよしよし、幾ら揉んでも癒りません』
その言葉の終つたか終らぬ中に
『ドシーン!』
先生の身体はゴム球の様に、約四尺程空中に跳び上つた。自分の目撃したのではこれが先生の空中飛躍のレコードである。
『浅野はんがお見えの時から腹が痛うて痛うて協はなんだ。待ち切つて居たので霊が喜んだのですやろ。しかし他人が居るので、無理やり今まで抑へて居ましたが、これでモウさつぱりしました』
成程起き出して了つてケロケロとして莨を喫んで居らるる様子は、何処を風が吹いて居るといふ風である。幾分慣て来たので自分は格別驚きもしなかつたが、しかし随分変つて居るナとは思つた。
澄子刀自のお世話で当時の所謂『新建ち』の六畳二間を自分の室に宛てて貰ひ、爰で自由にお筆先の研究をさせて貰ふことになつた、其処は西の石のお宮の傍の建物で、今では食堂に改造されて了つて居るが、室としては夏は暑く、冬は寒く、入口には漬物樽が沢山並んで居り、尽夜の別なく鼠と蛇とが横行し、そして一方にはお宮があるので随分窮屈を感ぜしむるといふ、修行には誹へ向きの所であつた。
兎も角も机に向つては見たが、さて一寸仕事が手につかず茫乎して居ると、飯森さんが来て、今夜は久し振りで晩飯を共にしようといふので、自分を並松の同君の寓居に連れ出した。行つて見ると狭い二階家ではあるが、和知の清流に臨んで涼風まともに室を洗ひ、対岸の松林の夕暮の色の裡にかすめる景色は誠にえも言はれぬ。
『こりや善い場所を占めたものだ。綾部も斯うなると莫迦にならない』
『景色丈けが御馳走で厶います。まア今晩は御ゆつくりなすつて戴きます』と飯森さんの奥様は酒を勧める。さうする中に福中さんがやつて来る。同氏は飯森さんに先立ちて大本の信仰に入り、そして飯森さんに綾部を紹介した人である。酒は中々いける。話は海軍の事から大本の事に、横須賀から綾部に、それからそれへと移り行きて、いつ果つべしとも見えない。
『よい加減に切りあげんと可かんぞ、大本では自分を待つて居るだらう』と心の底に思ひつつ十時過ぎになつて了つた。漸く暇を告ぐると、
『まア今晩は拙宅へお泊りなさいまし、福中さんも御一緒に』と奥さんからも勧められ、たうとう言はるるままに二階に床を展べて貰つて、川水の音を聴きながら快よき眠に入つて了つた。
しかし其翌る朝は、何となく気が急いて、斯うしては居られぬやうに感ぜられ、朝飯も食はず、急いで大本へ帰つて行つた。