何人も大本神諭を繙く者の最初に眼につくのは其予言的方面であるやうだが、自分なども矢張りその選に漏れず、頻に予言ばかり漁つたものだ。所が在る在る、日清、日露、欧洲大戦、之に引きづく世界的大動乱、地震、雷、洪水、火の雨の襲来、饑饉、疫病、綾部が都、日本の世界統一、三十年で世の切替──並べた日には際限が無い。実際大本神諭には、これ等の予言的分子が随所に充ち充ちて、そして全体に陰翳を投げ、気の弱いものをして神経衰弱を起さしめようとする。生命が欲しくて、欲が深くて、生の快楽にのみあこがれ、ひたすら死の来るを呪ふ徒輩が、大本神諭に向つて血眼になつて反抗の声を挙ぐるのは蓋し無理もない。
しかし乍ら大本神諭の何処を什麼捜したとて、誰が見ても判るやうに明示されて居る予言はただの一箇も無い。前にもいふた通り、予言に関しても大本神諭は矢張り謎式に出来て居る。例へば霞を隔てて物を見るが如く、判つたやうで実は判らない。事件が現実に起つて了つてから神諭を見ると、成る程爰にチヤンと予言されてあつたなど初めて気がつくが、未来に属する事は、いかなる形式で、何時来るかといふ事は到底判らなく出来て居る。詰り鰻屋の前へ連れて行つて、ただ其香だけ嗅がされるやうなのが大本神諭の予言である。予言は予言でも其実体ではない。此点が何人も大に苦しみ迷ふ点で、軽率な人間になると、深くは神慮のある所を察しても見ず、直に之に向つて苦情や文句を申込みたがる。例へば神慮に反した自由行動は取りたいが、神罰だけは御免蒙りたい連中は『大本神諭はイヤに威嚇的で人類の恐怖心をそそるのは不都合だ』などといひ、予言を投機の道具にでも使はうと思ふ連中は『大本神諭はさつぱり時日が不明だから価値がない』などといふの類で、各自勝手な熱を吐く。
さらば大本神諭の予言は軽く観て置いて可かといふに、さうも行かなく出来て居る。一年二年と経つ中に、神諭の中に暗示されて居たことがドシドシ事実と成る。香の後から本物の蒲焼がツキ付けられる。しかも遅いやうで案外迅い。百年後とか、千年後とかの問題ではなく、五年十年をも待たずに出て来るから油断は出来ない。近い一例を引けば、現在の危険思想の瀰漫と世界各地の動乱状態でもさうだ。大本神諭にはこの状態が欧洲戦争の終熄に引きつづいて来るやうに、極めて軽う示されてあるが、あの正義人道の権化、世界平和の神のやうな顔をしたウヰルソン氏が、巴里に乗り込んで国際連盟を呼号した時分には、大本神諭の予言が凡眼には甚だ影が薄く、たよりないやうに思はれた。人間は案外慢心己惚が強いもので、其様な時に吾々が大本神諭を引つ張り出して、いかに警告を与へて見ても、誰も相手にして呉れない。悧巧ぶり、学者ぶり、策士ぶり、人材ぶる人ほど一層鼻の端でフフンと冷かしたがる。現に昨大正八年の春などの大本攻撃と言つたら何といふ醜態であつたらう。官憲は官憲で、罪人でもしらべる筆法で天地の大道、神界の秘密を探偵せんとし、全国の新聞といふ新聞は奇術師の手品の種でもあばく所思で、思ふ存分低能振りを発揮したではないか。ところが昨年から今年にかけての世界の現状、就中お膝元の極東の天地は什麼だ。たうとう大本神諭に書いてある通りに殆ど成つて了ひ、尚その色彩が一日増しに濃厚の度を加へつつある。斯うなつては流石に内省力のあるものは皆少しづつ考へて来た。愚昧なる大本攻撃の飛沫、余波は尚残つて居るものの、人心の奥の方には一道の光明が既に已にキラキラ閃光を発して来た。時は間断なく進展する、一分一秒の休みもない。大正九年もやがて暮れ、大正十年は眼の前に控へて居る。『人の心』を無視したる組織や制度の改造などの、何の役にも立たぬことは、そろそろ何人にも感ぜられて来た。いよいよ人間の小細工は駄目、魂を入れかへて、富も、名も、位も、生命も皆すててかかるより外に、吾人の前途には何もないと悟る時期──ああその時期が近づきつつあるではないかと、苟くも血のめぐりのある人は、誰でもひそかに心の底の底に感じて来たやうだ。全く以て油断の出来ぬのは大本神諭の、あのぼんやりした、雲をつかむやうな予言である。嘘かと思へば実、実かと思へば嘘、虚々実々擒縦自在、ドウも人間の智慧では些と太刀打ちが六ケ敷い。
話が少々脱線した。大正五年の夏まで戻る。