自分は全力を挙げて大本神諭中の過去の予言を拾つて見た。そして明治二十五年から大正五年迄約二十四年の間に、神諭の予言と世界の事実とが、一から十、十から百迄ぴツたり合一して居るのを確認した時、少からぬ驚きを以て叫んだ。『大本神諭の予言はこりゃ確実だ。大本神諭に限りて時期その他を明示してない点が、ニセ神のニセ予言でない、最も有力なる証拠であらねばならぬ。神人両界の大改造の全責任を負担して立たれて居る神様が、何の物好きに自縄自縛的時期、方法、順序等の予告をされる筈があらう。これしきの漠然たる予言警告でも、神様は避け得る丈は避けられたかつたに相違ない。これでも幾分か御経綸の邪魔にはなる。只いかにせん天下の人心は腐敗堕落の極に達して目前の利益に汲々として居る。大体の期限を切つて警告を与へ、或る程度威嚇でも加へねば、到底眼をさます人類ではない。それで万止むを得ず、この警告的予言となつたに相違ない。よし、それならば自分も此神様の御主旨を奉戴して、及ばず乍ら警告を天下に伝へねばなるまい。それで千万人中に一人の覚醍を作り得ば本望である……』
予言漁りの結果は大体こんなことになつた。
大本神諭の予言を漁つて居る真最中から、其中の随所に漏らされて居る、神諭一流の教訓が段々厳しく自分の頭に響いて来た。最初は必ずしも善良な意味にばかりは響かない。これは無理だ、こんな事があるものかなどといふ反抗心が、チヨイチヨイ首を擡げる。兎角学問をしたものの常として、穏なしく黙つて服従が出来ない。事毎に疑問を挿み、不服を唱へ、批評を試みる癖がある。例へば、『学や智慧を棄てて了うて、生れ赤児の心に立返らんと見当が取れん……』とあると、戯談ではない。学問や智慧を悪口する神は、随分偏狭な野蛮神だなどと思ふ。『外国は獣物の世強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ』などに成ると、欧米を以て世界の先進国と崇め、万事の理想標準は爰にありと教へられて居る身には、自分の顔に唾液を吐かれたよりも腹が立つ。其外現代の常識、現代の学問、現代の是非善悪の標準とは、天地の相違がある所の神諭の教訓は、一々異様に感じ、癪にさはる事ばかりである。当時若し自分に現実の世界の奥に神霊の世界があることが判つて居らず、幽界が根本で現界は末葉であることの真理がのみこめて居なかつたなら、兎ても神諭の前に頭を低げて承認するといふ所には進み得なかつたらうと思ふ。兎も角もそれが曲りなりにも出来たのは横須賀に於ける鎮魂帰神の修業が主なる原因を為して居た。あの修業のお蔭で、つくづく神の摂理の巧妙を極めて居ることが判り、神の力の玄妙不可思議なることを実地に見せつけられて居たので、ムラムラと反抗心が萠す度毎に、退いて反省し、回顧して見る丈けの準備が出来て居た。顕微鏡や望遠鏡は学界の誇りである。しかし天眼通力と比べて什うか? 高等数学は推理力の極点に近い。しかし一天狗の霊力に比べて優勝の地歩を占め得るか? 西洋医学は形而下学中の粋を集めたものだ。しかし御神徳の前に向ふを張ることが出来るか? 何れも駄目だといふことの実証実蹟が自分の前に既に提供されて居た。
『外国は獣の世』にしてもピンと頭に響き方が、従前とはまるで違つて居た。これは決して抽象的譬諭的の空言浮辞ではなく、事実ありのままの写生であゐといふことがつくづく判つて居た。霊魂の実在と神と人との関係が判らぬ間は、兎角其眼光が事物の表面を上滑りする。紫の袈裟だの、金ピカの大礼服だの、爵位官等だの、外交的辞令だの、紅だの白粉だのが有難くて、全然之に囚はれて了ふ。そして其裡面に潜んで居る所の狐狸、天狗その他の魔性のものの作用が些つとも見えぬ。それをありありと見せてくれるものは、天地の間にただ一箇の照魔鏡があるばかりだ。いふ迄もなくそれは鎮魂帰神の神法である。天下の有象無象が恐ろしがつて、難癖をつけたがる筈である。しかるに自分にはこの照魔鏡の使用が許され、比較的短日月の中に神諭の教訓をそのまま無条件で受け入れることが出来たのは、何といふ難有いことであつたらう。
『外国は獣類の世、強い者勝ちの悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人に化されて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ眼が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ』──全くそれに相違ないと思つた。
『人民は世が開けて余り結構になると、元の昔の活神の苦労を忘れて、勝手気儘に成りて、誠の神の思ひを知つた人民は漸々に無くなりて、利己主義の行方ばかり致して、此世を強い者勝ちの畜生原にして了うて、神の居る所もない様に致したから、モウこの儘にして置いては、世界がつぶれて餓鬼と鬼との世に成るから、立替を致さな成らんことに、世が回りて来たのであるぞよ。四足の守護神が覇張りて、上へあがりて、日本の神国を汚して了うて、この世は真暗闇であるぞよ』──これも全くその通りと思つた。