覚悟も決まる、家邸も買ひ取る、そろそろ綾部を引上げて東に帰らうとして居る所へ、自分を尋ねて来たのが戸沢姑射氏であつた。自分の友達の多くは、大本の信仰に対して不賛成の意を表したが、姑射氏の態度は初めから聊か違つて居た。『君が善いと思ふなら、やれるまでやつて見るがよからう。世間の毀誉褒貶などは頓着するに足らない。悪いものなら行詰り、善いものなら道が開ける。それを見た上でなければ、第三者から何とも言はれぬ。初めから可否の批判など出来はせぬ』といふのが姑射氏の意見の大要であつた。自分は当時尤もな見解だと思ひ、又今でもさう思つて居る。
折角綾部へ来た序に、自分は成るべく大本の真相を姑射氏に知らせるべく努め、教祖にも逢はせ、出口先生にも紹介し、鎮魂もやつてやり、お筆先も読んできかせた。しかし機縁熟せぬ間は、何をやつても駄目であることを、その時もつくづく感じた。大正五年の姑射氏には大本信仰の鍵が与へられて居なかつた。自分も残念であり、姑射氏も恐らく残念であつたらうが、こればかりは如何ともする事が出来なかつた。
流石に出口先生の洞察力は恐れ入つたものであつた。自分が姑射氏を推薦して、
『私の友達の中では戸沢が一番早く大本の信仰に入ると思ひます』といふと、出口先生は一寸考へ
『判る時が来れば判る方どすが、まだ大分時が懸ります』ときつぱり言はれた。
早く信仰に入るも入らぬも其人の宿命──大本の所謂身魂の因縁であるから致し方がない。従つて人間は常に広い度量で、他の境遇に同情し、決して自己の標準を以て他人を律するやうの事があつてはならぬと思ふ。
姑射氏は綾部に一泊しただけで、任地熊本に帰らねばならぬといふ。すると出口先生が大阪まで出る用事があるから、自分にも同行せぬかとの勧誘、たうとう三人で大阪に出掛けて行つた。
信者の谷前氏の宅に落着くと、恰も村野さんが高砂の八重ちゃんを連れて来合せて居たので、早速それを鎮魂して姑射氏に其猛烈な発動ぶりを見せた。外にも二三婦人の信者を鎮魂して言葉を切らせたりしたが、先途を急ぐ姑射氏は、終に十分立ち入りて研究する遑なしに袂を分つた。
自分は出口先生に伴はれて皇道大本の大阪支部に行きて、生れて初めて大本の講演をやつて見たり、又住吉公園の村野さんを訪問したり、二三日を大阪に費したが、八月二十二日の晩に梅田から汽車に乗つて帰宅の途についた。
汽車の中で一寸不思議な事が起つた。自分は二等室の一隅に座を占め、持参の籐籠の上に足を延ばして眠りに就いた。何時間か熟睡した時、俄に眼を覚ましてベンチの上に起きあがつた。急行車は今しも全速力で闇の中を疾走して居る。
『ああよく眠つた。今何の辺かしら』
などと独語つつ不図気がついて見ると、下に置いてあつた筈の籐籠がない。
先刻横になつた時、自分は時計、蟇口其他の邪魔になる物を皆籠の中に入れて置いた。それも勿論盗られては有難くないが、しかし金銭よりも時計よりも、何よりも盗られて困るものが其籠に入れてあつた。外でもない、出口先生から借り受けた裏の神諭の原本数冊であつた。
『こりや大変だ、早速車掌を呼んで警察に電報を打たせよう』
自分の乗つて居る車には乗客が十余人、他れもよく寝込んで居るものばかり、仕方がないから次の客車へ行つて見ると幸に客車係が起きて居た。早速それを連れて来て籐籠の紛失したことを告げた。
『金銭や時計は出んでも仕方がないが、あの中に三冊ばかり写本がある。あれ丈は是非失つてはならぬのだが……』
客車係は注意深い眼つきをして自分の説明をきいて居たが、
『一寸此方へ来て見ていただきます』
言つてズンズン後部の方に案内する。自分は其後について行つたが、一つ一つ客車を通り越し、やがて三つ目の二等車に入つて行つた。客車係は網棚の一箇所を指し、
『あれが貴下のではありませんか』
見ると自分の籐籠が網棚にのせてあつた。爰の乗客も揃も揃つて皆熟睡者ばかり、一人も目をさまして居るものはなかつた。
客車係は自ら籠を卸して蓋を明けて査べて呉れたが、時計も、蟇口も、裏の神諭も一品も失せずにあつた。
こんな風で事件は何の事なく、極めて簡単に解決されて了つたが、ただその前後の事情に至りては今日までもいささか不思議に思はれてならぬ。第一自分が真夜中に眼をさましたのが不思議といへば不思議である。それから客車係が自分を三つも先きの客車に連れて行つたのが甚だ不思議、其所に自分の籠がそつくり置いてあつたので尚更不思議、其時自分が籠をさげて黙つて自席に戻つて再び寝てしまつたなども聊か変つて居た。直に之を神さまのお蔭と有難がるのは迷信臭いかも知れぬが、しかしただ偶然の出来事とのみも言はれぬやうだ。
翌朝自分は二十五日目で横須賀中里の自宅へ戻つた。