霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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二 母の生いたち

インフォメーション
題名:2 母の生いたち 著者:出口澄子
ページ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B124900c04
001 母が、002石臼(いしうす)をまわされて、003(こな)をひかれましたのは、004私の生まれます前から始められていたのであります。
005 あるときは、006おりょうさんを背に、007私をふところに入れて(こな)ひきをされましたそうで、008私は、009母のまわされる石臼(いしうす)のたえまなく動く音をどんなに心地よく聞いていたことでしょう。010不思議にもその時の記憶がかすかに虹のように美しく残っています。
011 母はこの世を創られた神が()きじきかかられ、012大本の(おしえ)を開かれたのでありますが、013この石臼(いしうす)ということにつきましても、014深いご神意があるのです。015しかしそれを話します先に私の母、016大本教祖の生家(せいか)のこと、017生いたちのころに、018さかのぼります。
019 教祖さまのお生まれは、020福知山の紺屋町(こやまち)で、021ただいまは中川(なかがわ)という医者の人が住んでいるところと言われていますが、022母が寝物語りにきかしてくれた話では、023いまの中川という人の家の隣りも、024もう一軒先きの隣りも、025母のうちの屋敷でその先の両隣りには、026貸家があり、027いまの屋敷にくらべて、028たいそう大きなものであったのです。
029 母のお祖父(じい)さんの(だい)は、030郷泊(さとやど)もされ、031苗字(みょうじ)帯刀御免のお(かみ)大工で、032いつも二本差しで仕事に行かれていたものだそうで、033母のお母さんが、034福知山に嫁にこられた時代は、035母の家も、036まだまだ裕福なころでありました。037(くら)の中にはいっても、038あまりたくさんの道具で、039真ッ直ぐに歩けなかったということで、040土用干(どようぼ)しをされても、041干しきれないものを、042屋根の上まで持ち上げて、043干されていたそうです。
044 それが神様のお取り上げになる時節がきまして、045どういうことで貧乏をされましたのか、046ほどなく道具類も何もかも売り払わねばならぬということになり、047教祖さまのご生誕されましたころには、048大分(だいぶん)と家計も苦しくなっていられましたようです。
049 教祖さまご生誕の天保八年という年は、050有名な天保の大飢饉でありまして、051貧家(ひんか)の人は米の洗い汁をもらいにゆくという難儀な年で、052小判をくわえて死んでおるものが、053ほんとうにあったという話をわたしは教祖さまに抱かれながらたびたび聞かされました。
054 教祖さまは三人きょうだいでありまして、055兄さんは清兵衛(せいべえ)056教祖さまはなか057妹さんはりよといいました。
058 祖母になる人に、059後妻で、060おたけという方がありました。061その方はずいぶんとむずかしい人でありましたそうですが、062教祖さまのお母さんは「このむずかしい、063やかましい(しゅうと)さんの、064そばにきたということは、065神様が自分の力試(ちからだめ)しをして下さるのである。066このお祖母(ばあ)さんを、067鬼にするのも、068仏にするのも自分の心ひとつである」と言って、069一度も不服に思われることなく、070真心をつくして(しゅうと)につかえられたので、071たいへん(しゅうと)さんの心を動かし、072別人のように心が変わられて、073祖母(ばあ)さんには、074この嫁でなくては、075()も日も明けぬというようになってしまわれたと言うことも伝えられています。
076 そのように教祖さまのお母さんのおそよという方は、077一つの悟りのようなものを自らもっていられましたようで、078どんな(むずか)しい人でも、079こちらから誠をもって接し、080真心をつくしたなれば、081知らずしらずのうちに、082きっとよくなってもらえるので、083これほど誠をつくしているのに、084なお向こうの方から無理をもちかけてくると思うのは、085()だこちらの誠心(まごころ)が足らぬので、086それは一つには自分の前生(ぜんせい)からの罪である、087ということをいっておられたということであります。
088 そういうわけで、089(しゅうと)と嫁の中も(むつ)まじくゆきましたが、090くらしむきはおいおいと逼塞(ひっそく)になりかけてきまして、091貸家を売り、092つぎには屋敷も小さく分譲(わけ)られるようになりました。
093 そうこうするうちに、094祖父祖母も亡くなられ、095教祖さまのお生まれになったころは、096お父さんの五郎三郎(ごろうさぶろう)さんは、097甘酒売りをなされ、098お母さんは他家(たけ)糸紡(いとつむ)ぎをされるというような有様でありましたが、099お父さんは教祖さまが五ツか、100六ツの時に亡くなられ、101その後はお母さん一人で細々(ほそぼそ)と暮しをたてられました。
102 それがため教祖さまは、103同じ福知山の米久(よねきゅう)呉服店へ子守り奉公をされることになりました。
104 乱雑なことのお嫌いな、105つつしみ深いご気性(きしょう)と、106陰日向(かげひなた)のない骨身(ほねみ)をおしまれない働きぶりは、107主人の感動するところとなりました。
108 また、109半期ごとに主人からおくられたお仕着せの衣地(きぬじ)も、110給金(きゅうきん)も、111そのままお母さんにわたされ、112三度々々(さんどさんど)の食膳にめずらしいものがあると、113一走(ひとはし)りしてお母さんに届けられるなど、114孝養をつくされましたので、115福知山(ふくちやま)三孝女(さんこうじょ)として藩主の表彰もあったそうです。
116 年期(ねんき)三年の米久(よねきゅう)の奉公が終わると、117川北(かわきた)衣川(きぬがわ)清太夫(せいだゆう)118それから泉屋(いずみや)清兵衛(せいべえ)という饅頭屋(まんじゅうや)などに、119つづいて奉公されました。
120 どこにゆかれましても、121評判のよかったのは勿論でありますが、122奉公ばかりしておっては、123いつまでも一人のお母さんに安心してもらえぬので、124十五の年からは糸引(いとひ)きを稽古されました。125糸紡(いとつむ)ぎも大へんお上手で、126あの、127おきびしいご気性(きしょう)そのままの立派な糸をひかれて、128仕事も他の人の二倍はされていたそうです。129その賃金はお母さんに(みつ)がれ、130一人の母をいたわる上にもいたわられました。
131 この教祖さまの子供のころからの親孝行なことや、132常々からの行ないを、133感心してじっと見ていたのが、134綾部の出口家のお祖母(ばあ)さんでありました。135いつも綾部から福知山にきては「わしの子になりてくれい」と言われ、136教祖さまがなにかの使いで綾部にゆかれますと、137「どうぞ、138わしの子になりてくれい」とたのまれたそうです。139出口のお祖母(ばあ)さんは“ゆり”という方で、140教祖さまのお母さまの妹になりまして、141綾部の上町(かんまち)の別の出口で惣右衛門(そううえもん)といううちから出られたのでありますが、142ある日、143教祖さまが糸引きをされているところへ、144わざわざ会いにきて「もしもわしの死ぬようなことがありたら、145どうぞおまえは綾部にきて出口の後をついでくれよ」とよくよくたのんで言い置きをされたのであります。
146 出口のお祖母(ばあ)さんは、147出口家にもらわれるまでに許婚(いいなずけ)がありました。148それは志賀というところのいとことの間にきまっていましたが、149なにか(わけ)がありましたのでしょう。150出口家に嫁入りされて、151四十(しじゅう)くらいのとき、152後家(ごけ)になりました。153同じころ志賀のいとこもやもめになりまして、154いつとなく相思(そうし)の仲となっていました。
155 これを知った喜平(きへい)という人が、156ある日、157祖母(ばあ)さんのところへ来て「このごろ人の噂に聞いたのやが、158まだお前も若うはあるし、159丁度よいことである。160早速に、161志賀にゆかれい、162(あと)(かぶ)うちのものと相談して添わしてやるから」というので、163祖母(ばあ)さんは、164親切に自分を思うてのことと信じて、165一も二もなく志賀のいとこのところへゆかれました。166喜平ともう一人常七(つねしち)という人は、167川糸(かわいと)の出口小平(こへい)の家から分かれたのですが、168出口家とは同じ株内(かぶうち)になっておりました。169この三人はお祖母(ばあ)さんを出して、170出口家の財産を分ける悪企(わるだく)みをしたのです。
171 ところが、172近所の人が大勢で迎えにきて、173ようやく喜平たちが出口家の財産を取ろうとしていることに気づかれ、174大へん腹をたてられ夜通し歩いて、175福知山にゆき、176教祖さまに出口の家の後を継いでくれいと言い置きをされ、177そしてその晩に、178井戸にはまって国替えをされたのであります。
179 それで教祖さまは出口の家を継がれることになりましたが、180教祖さまより先に、181辻村(つじむら)藤兵衛(とうべえ)という人の仲立(なかだち)で、182岡の堺の四方(しかた)治兵衛(じへえ)という家の五男の豊助(とよすけ)さんという人が、183養子として来初(きぞ)めをしたのであります。184この方が入り婿して政五郎(まさごろう)と改名されたのですが、185当時、186父は石原村(いさむら)で大工の年期中で、187来初(きぞ)めがすむと、188もとの親方につとめに帰り、189いっとき出口の家は戸閉(とじ)めとなりました。
190 それでは、191ご先祖さまに、192すまぬというので、193教祖さま十八の年に綾部に移られることになりました。
194 綾部に来てみれば、195親類はあっても、196薄情な者ばかりで、197教祖さまが若いのと、198出口家の様子に暗いのをよいことにして、199出口の通帳を持ち出して、200勝手にするなど、201またお祖母(ばあ)さんに金を貸していたというては田畑を自分の名に登記してしまい、202また(くら)の中に預けておいた物を返してくれいというて道具をもち運ぶやら、203教祖さまの初めての綾部生活は、204日々(にちにち)をいやな思いで過ごされねばなりませんでした。
205 六カ月ほどは一人で留守をされていましたが、206(せい)れんなお気持ちの教祖さまにとって、207あまり気持ちの(さみ)しくなる事ばかりが続いて、208こらえきれぬので福知山に帰ってしまわれました。
209 その晩、210福知山で(やす)まれていると、211出口のお祖母(ばあ)さんが、212大へん(こわ)い顏をして、213夢に出られ──出口の家の屋根に(あが)りて、214(かわら)をめくっては、215教祖さまに、216ぽん、217ぽん、218ぽん、219と投げつけられる──ので、220あまりの恐ろしさに眼がさめてみると、221大へんな熱が出ていて、222それから四十日も高い熱のまま病床につかれることになり、223一時は仮死の状態に入られました。224再び気がつかれまして、225それからは病気もおいおいとよくなり、226全快された二十歳の年に綾部に帰られたのであります。
227 お父さんの年期もあき、228綾部で結婚生活に入られたのであります。229そのころの出口の家は、230大正八年ころの出口の家の住居(すまい)と寸分違わないものであったとのことです。
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