『何か一ツ傑作を出したいものだ』明けても暮れても。寝ても起きても、閑暇さへあれば、此事許り考へて居た自分は、自然の勢ひとして孤独を好み、上野の森、谷中の墓地、足に任せて単独散歩をするのが癖であつた。
時は三月の末、春尚浅く、肌にはいささか冷気を覚ゆる快晴の夕暮であつた。自分は例によりて、独りブラリと大学の寄宿舎を立ち出で、足の向ふがまに──不忍池畔に出た。今とは違つて其頃はまだケバケバしい電灯の光が人の頭脳を刺戟せす、池畔を散歩する人の影も少く、蓮の枯葉に寂しみを湛へ、何処となく自己の感情と融合調和するなつかしみを覚えた。
グルリと池畔を一周した自分は何となく飽き足らぬ心地がして、更に二た回りし、三回りする中に、従来未だ嘗て経験せざる微妙不思議の状態に引入れられて行つた。恍惚といはうか、失神と云はうか、無何有の郷に遊ぶと云はうか、足は地を踏んでしかも脚底に土なきが如く、眼は四周の光景を眺めて而も眼裡に物なきが如く、その癖心の中は冴えに冴え来りて情思脈々泉の如く湧き出で、それが一貫した秩序と辞句とを為して頭脳の奥に印刷されて行く。
池畔を幾度回つたか知らぬが、この間に纏つた一篇の作物が出来上つて居た。
不図自己に返つた頃には四辺には散歩する人の影もいよいよ稀れに。上野の森は暗い影を池水に投げ、肌にはヒシヒシと夜気の冷かさを感じた。自分は急歩寄宿舎に帰つたが、記憶の消えぬ中と、其晩直に原稿を展べて、散歩中に頭脳に刻まれた文句を書出したが、思ひの外に分量が多く、翌晩も亦其翌晩も、たしか四五晩も掛つて筆を走らした。言はば筆を執りつつある自分は一種の写字生の如きもので、散歩中に出来上つて居るものを思出しては書き、考へ出しては続けるだけで、従来紙に対して推敲するのとは全然遣方を異にした。
書き上げた時は、覚えずほツとした。標題を『吹雪』と命けて、さて読み返して見たが、綺麗な擬古文体で作り上げられた五十頁ばかりの短篇小説で、自分の従来の作品とは余程趣が違つて居た。所所自分でも甘いと感服する箇所もあつた。友人の一人に見せたら、其友達も非常に感心して、或所に至ると頻に涙を流して読耽つた。
乃で初めて世に出して見る勇気が出て、『帝国文学』に投稿した。戸沢姑射氏がその頃同誌の編輯委員であつたが、甘いといふので直に誌上に掲た。大町桂月君などは之を読んで文芸倶楽部の評論壇で頻に褒たものだ。兎に角当時の大学部内で可成の評判物であつた。
自分は今更幼稚なる青年時代の文学功名譚などを持出して人々に誇る所思は毛頭ない。ただ爰に之を物語るのは、自分が初めて触れたインスピレーシヨンのいかにも奥妙不可思議で、其状態を描くことは出来ても、理智的に其理由を説明することの不可能なることを初めて悟つたからである。感興とか、インスピレーシヨンとか、医学者や、心理学者のやうに名称を付して、それで満足が出来るなら甚だ容易であるが、それでも何等の解釈にも説明にもならない。吾々は常にそのインスピレーシヨンは何に由りて起るか、今一歩も二歩も奥の方へ進んで、其根源を探り度いのだ。所が従来その説明が出来て居ない。要するに『不思議なものだ』と感ずる丈で、是非なくも泣寝入りするべく余儀なくされた。決してそれで心の満足が得られたのでない。他に致し方が無かつたまでだ。
自分が尚一つ不思議に思つたのは、一旦インスピレーシヨンによりて筆を執つたが最後、其文句が自分の記憶に歴々と印象されて、五年経つても十年過ぎても牢乎として消え去らないことだ。約二十五年前に書いた『吹雪』の一字一句などは、今でも残らず記憶して居る。五十枚でも百枚でも、二百枚でも殆ど忘れるといふことが出来ない。言はば心の帳面に書き留められて居るやうなものだ。
この事は一方に非常に便利であつたと同時に、他方に於ては多大の不便が伴つた。一篇を書く毎にそれが心の帳面に永久に殖えるばかり、消ゆるといふことが無い。心は段々其負担を訴へ出した。自分が両三年後に全く創作を断念し、一時翻訳に遁れたのは、一は文学者の生活といふものに愛想をつかした為めでもあるが、一は此苦痛から脱出せんが為めでもあつた。
兎に角自分には、大正五年大本の研究に入るまで、此一種のインスピレーシヨンの癖が残り、そしてそれが従来の学説の何物を以てするも解釈すべからざる不可解の謎であつた。此謎が解け、同時にこの執筆の苦痛から脱出することが出来たのは、全く大本の修業の賜であつた。難有いことには、現在の自分は筆を執つても講壇に立つても、其瞬間の出来なり放題、済んだ後ではケロリと全部その内容を忘れて終つて、何等の記憶も後に残らない。気楽なこと夥だしい。