霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(三)

インフォメーション
題名:(三) 著者:浅野和三郎
ページ:11
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142400c05
『何か一ツ傑作を出したいものだ』明けても暮れても。寝ても起きても、閑暇(ひま)さへあれば、此事許り考へて居た自分は、自然の勢ひとして孤独を好み、上野の森、谷中(やなか)の墓地、足に任せて単独散歩をするのが癖であつた。
 時は三月の末、春(なほ)浅く、肌にはいささか冷気を覚ゆる快晴の夕暮であつた。自分は例によりて、独りブラリと大学の寄宿舎を立ち出で、足の向ふがまに──不忍(しのばず)池畔(ちはん)に出た。今とは違つて其頃はまだケバケバしい電灯の光が人の頭脳(あたま)を刺戟せす、池畔(ちはん)を散歩する人の影も(すくな)く、(はす)の枯葉に(さび)しみを(たた)へ、何処(どこ)となく自己の感情と融合調和するなつかしみを覚えた。
 グルリと池畔(ちはん)を一周した自分は何となく飽き足らぬ心地がして、更に()た回りし、()回りする(うち)に、従来(いま)(かつ)て経験せざる微妙不思議の状態に引入れられて行つた。恍惚といはうか、失神と云はうか、無何有(むかう)(きやう)に遊ぶと云はうか、足は地を踏んでしかも脚底(きやくてい)に土なきが如く、眼は四周(あたり)の光景を眺めて(しか)眼裡(がんり)に物なきが如く、その(くせ)心の中は冴えに冴え(きた)りて情思(じやうし)脈々(いづみ)の如く湧き出で、それが一貫した秩序と辞句とを為して頭脳の奥に印刷されて行く。
 池畔を幾度回つたか知らぬが、この間に(まとま)つた一篇の作物(さくぶつ)が出来(あが)つて居た。
 不図(ふと)自己(おのれ)に返つた頃には四辺(あたり)には散歩する人の影もいよいよ()れに。上野の森は暗い影を池水(ちすゐ)に投げ、肌にはヒシヒシと夜気(やき)(ひやや)かさを感じた。自分は急歩寄宿舎に帰つたが、記憶の消えぬ(うち)と、其晩(ただち)に原稿を()べて、散歩中に頭脳(あたま)に刻まれた文句を書出したが、思ひの外に分量が多く、翌晩も(また)其翌晩も、たしか四五晩も(かか)つて筆を走らした。言はば筆を執りつつある自分は一種の写字生(しやじせい)の如きもので、散歩中に出来上つて居るものを思出しては書き、考へ出しては続けるだけで、従来紙に対して推敲するのとは全然遣方(やりかた)(こと)にした。
 書き上げた時は、覚えずほツとした。標題を『吹雪(ふぶき)』と()けて、さて読み返して見たが、綺麗な擬古(ぎこ)文体で作り上げられた五十頁ばかりの短篇小説で、自分の従来の作品とは余程(おもむき)が違つて居た。所所(ところどころ)自分でも(うま)いと感服する箇所(ところ)もあつた。友人の一人に見せたら、其友達も非常に感心して、或所に至ると(しきり)に涙を流して読耽(よみふけ)つた。
 (そこ)で初めて世に出して見る勇気が出て、『帝国文学』に投稿した。戸沢(とざは)姑射(こや)氏がその頃同誌の編輯委員であつたが、(うま)いといふので(ただち)に誌上に(かかげ)た。大町(おほまち)桂月(けいげつ)君などは之を読んで文芸倶楽部の評論壇で(しきり)(ほめ)たものだ。兎に角当時の大学部内で可成の評判物であつた。
 自分は今更幼稚なる青年時代の文学功名(ものがたり)などを持出して人々に誇る所思(つもり)は毛頭ない。ただ(ここ)に之を物語るのは、自分が初めて触れたインスピレーシヨンのいかにも奥妙不可思議で、其状態を描くことは出来ても、理智的に其理由を説明することの不可能なることを初めて悟つたからである。感興(かんきよう)とか、インスピレーシヨンとか、医学者や、心理学者のやうに名称を付して、それで満足が出来るなら甚だ容易であるが、それでも何等の解釈にも説明にもならない。吾々は常にそのインスピレーシヨンは何に()りて(おこ)るか、今一歩も二歩も奥の方へ進んで、其根源を探り度いのだ。所が従来その説明が出来て居ない。要するに『不思議なものだ』と感ずる丈で、是非なくも泣寝入りするべく余儀なくされた。決してそれで心の満足が得られたのでない。(ほか)に致し方が無かつたまでだ。
 自分が(なほ)一つ不思議に思つたのは、一旦インスピレーシヨンによりて筆を執つたが最後、其文句が自分の記憶に歴々(ありあり)と印象されて、五年経つても十年過ぎても牢乎(らうこ)として消え去らないことだ。約二十五年(ぜん)に書いた『吹雪』の一字一句などは、今でも残らず記憶して居る。五十枚でも百枚でも、二百枚でも殆ど忘れるといふことが出来ない。言はば心の帳面に書き留められて居るやうなものだ。
 この事は一方に非常に便利であつたと同時に、他方に於ては多大の不便が伴つた。一篇を書く(ごと)にそれが心の帳面に永久に殖えるばかり、消ゆるといふことが無い。心は段々(その)負担を訴へ出した。自分が両三年後に全く創作を断念し、一時翻訳に遁れたのは、一は文学者の生活といふものに愛想をつかした為めでもあるが、一は此苦痛から脱出せんが為めでもあつた。
 兎に角自分には、大正五年大本の研究に入るまで、此一種のインスピレーシヨンの癖が残り、そしてそれが従来の学説の何物を以てするも解釈すべからざる不可解の謎であつた。此謎が解け、同時にこの執筆の苦痛から脱出することが出来たのは、全く大本の修業の(たまもの)であつた。難有いことには、現在の自分は筆を執つても講壇に立つても、其瞬間の出来なり放題、済んだ後ではケロリと全部その内容を忘れて終つて、何等の記憶も後に残らない。気楽なこと(おびた)だしい。
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