霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(四)

インフォメーション
題名:(四) 著者:浅野和三郎
ページ:14
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142400c06
 ()る一部の読者には、(いささ)か迷惑かも知れぬが、自分は爰で暫く筆を止めて、インスピレーシヨンに就きての大本式霊的解説を試みたいと思ふ。其形熊性質から言へば、インスピレーシヨンには随分種々雑多のものがある。或る詩人は夜でなければ感興が少しも湧かぬと言ひ、又或る文士は朝が一番善いといふ。ウアーズウアースの如きは戸外の逍遥を選び、李白(りはく)の如きは一杯飲まねばとても(うま)い詩は出来ないといふ。
 兎に角詩人でも小説家でも、(いやし)くも其作物(さくぶつ)に全生命を捧げる程の熱心と執着(しふぢやく)と誠意とのあつた人なら、必す、何かしら一つの独特の別天地があつたやうだ。決して()はの空では、見るべき小説も、朽ちざる詩歌も出来はせなかつたやうだ。
 此事実は大概の人が知つて居る。又随分巧妙に這間(しやかん)の消息を描いたものも(すくな)くはない。只其説明に至りては未だ(かつ)て出来て居ない。例へば植物学者がいかに植物の種類組織形態性質等を研究調査しても結局微妙神秘なる個所は(すこ)しも分らず、最後には只天然とか自然とか言うて逃げるより外に仕方がないと同一だ。要するに科学で到達し得る範囲は、『自然力』の入口迄、又文芸で企及し得るの方面は、其現象体験の描写に過ぎない。奥深い解説は今日まで、まるで手が付けられずに居た。
 所が、皇道大本では従来長年月に亘りて見限られて居た此問題に対して断乎たる態度を以て解説を与へんとしたのであるから、天下の物議と反対と嘲笑冷罵とを(あび)せられたのは当然の次第である従来の学者其他が兜を脱いで降参するか、せぬか、立つか倒れるかの大問題である。
 皇道大本で主張する要点の中で二三の重要なるものを挙げると、一つは個性を有する霊魂の客観的実在を認めることである。霊魂といふものが肉眼で見たり、肉耳(にくじ)で聴いたり、又物量を(はか)衡器(はかり)にはかからぬので、普通は其存在を否定したがる。誰にも判然(はつきり)とは分らぬけれど、先づ霊魂は主観的なもの、個々の頭脳の産物(くらゐ)に考へ、この考へが科学万能物質一点張りの今の世の中では勢力を占める。そして頭から霊魂実在論者を迷信家(あつかひ)にして了ふ。
 次ぎに大本で主張する要点の一つは人の肉置が神の容器(いれもの)であると断定する事である。人間は無論それ自身活物(いきもの)であるが、之に宿る所の神霊(大本の所謂(いはゆる)守護神)なかりせば生命(せいめい)の維持は出来ない。何人(なんびと)にも守護神が宿つて居るから、それであらゆる機関が円滑に活動を起す。学者が本能、生理作用、反射運動等と命名して居る微妙の働きは(ことごと)く守護神の分担に(かか)るのであると、()う説明する。
 説明する(だけ)なら(ひとつ)の仮説でも間に合ふが、皇道大本では、説明と同時に(ただち)に研究者を捕へて修業に着手する。かくて三日と経ち、一週間と過ぎ、数週、数月、数年と星霜(つきひ)を重ぬるに及びて、各個人の能力其物が次第々々に変化を生じて来る。従来不可能視された事が段々可能となつて来る。例へば従来見る事が出来なかつた霊魂の姿が見えるやうになつたり、従来五臓以外に無一物と思つた(はら)の底から守護神の声を聞いたりする。(あたか)も顕微鏡の発明応用の結果、従来(ひとつ)の生理作用と思つた肺病が黴菌(ばいきん)と称する寄生物の作用であると判つて来たと同様である。顕微鏡の活用を知らぬ藪医が、如何に黴菌の存在を否定して見ても、それは最早無効になつたと同様、霊魂説、守護神説等を世界中の心理学者、哲学者、科学者、医学者等が寄つてたかつて否認して見た所で、活きたる事実、正しき実験の前には全然無力であり、無茶であり、無謀であり、又無智である。
 一旦霊魂の実在が判り、又霊魂と人間との関係が判るが最後、迷宮の内を辿るにも似たりし幾多古今の学説のいかにも誤魔化しものであつた事が続々発見される。医学上の難問題にしろ、催眠術の現象にしろ、一歩も二歩も其根源に向つて突込んだ説明を下し理解に達し得る。
 (そこ)で例のインスピレーシヨンも大本霊学で説明する事になると簡単明瞭である。吾々から言ふと、これは守護神の蔭からの働きである。即ち何の(なにがし)名告(なのり)を挙げずに、或る霊魂が作者の肉体を使つて仕事をして居るのである。つまり一の神憑(かみがかり)現象に過ぎない。
 霊魂にして人間の肉体を使役するのは中々容易の(わざ)ではない。人間には人間の竟志があるので平時は之を霊魂の自由に使ふ訳には行かぬ。ただ人が一心不乱に或る一つの仕事に全精神を集中した時、初めて霊魂は其の肉体を使役し得る。それが即ちインスピレーシヨンである。詩でも、小説でも、絵でも、書でも、又発明等でも、斯うして神霊の加護がある時にのみ初めて立派なものが出来る。結局雑念妄想を一掃して真剣に取掛る事が大傑作を仕上げ、大発明を成就する秘訣であつて、其他には絶対に手段も方法もないといふ事になる。(ついで)に述べて置くが、普通神懸りといふのはインスピレーシヨンの一層露骨なもの、即ち憑依せる守護神が黒幕から出て表面的の活動に移り、姿を見せたり、物を言つたりする場合を指すのである。ヤリ方が違ふ丈で、中身その者の相違ではない。
 講釈は此辺で()と先づ打切りとして、話の筋を進めねばなるまい。
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