自分から透視の実験を迫られた三峰山の先生は多少躊躇の気味であつたが、然まで拒まうともせず、やがて祠の前に座を占め、居合はせた女連一同を促して一斉に般若心経を唱へ始めた。中にはモウすつかり文句を暗誦して居るのもあれば、又覚束なげに折本を拾ひ読みする新参者も混つて居た。何にしろ木魚、拍子木、鉦等を叩きながら一心不乱に唱へるのであるから、一と通の騒々しさではない。自分は手持不沙汰に背後の方に坐つて此珍光景を見物して居たが、心経を一と通り唱へ終ると又初頭へ戻つて繰返すので、中々済まない。物の三四十分も経つて漸く先生からの合図で読経が終りを告げた。
やをら祠の前を立つた先生は、自分の前に坐を占め、茶を啜りながら『今日は出来が何うかと心配して居ましたが、貴下さんの懐中が最後の頃になつてから漸く見え透いてめいりました。一円のお札がたしか二枚、五十銭銀貨やら白銅やら、銅貨やらゴチヤゴチヤ取り混ぜて三円二十五銭ばかり入つて居ると思ひます。一遍検べて御覧くだせいませ。違つて居るかも知れません』
自分は早速懐を探りて、蟇口を取り出し、中の金銭を残らず畳の上に打ち明けた。居合せた女達も面白がつて手伝つてそれを勘定して呉れたが、意外々々! 一銭の差違もないのを発見した。
『これは不思議だ! 何ういいふ訳だらう?』例の自分の年来の疑問は又も胸の中にむらむらと首を擡げて来た。
三郎の病気も気にかからんでは無いが、十一月四日には癒ると言はれて見れば満更悪い気もしない。尚ほお婆さんは言葉を添へ、この病は神様のお力丈でも必ず癒して貰へるが、お薬も戴く方が矢張り可い。殊に六神丸がそれには一番可いからと言つて、軍艦の乗組員が支那から持て帰つたと言ふ奴を一筥取出して譲つて呉れた。半歳以上に亘つて弱り抜いた揚句の果てに、覚束ない乍らも一縷の望みを生じたのであるから、幾分心の重荷が降りた気がせんでもなかつた。
が、一方に子供の病気につきて心配が幾分薄らいだのと同時に、他方に於ては眼前に見せつけられた不可思議の事実に対する疑問が大に濃厚の度を加へ、何うしても此ままで打棄て置くことは出来ないやうな気がしてならなくなつた。その晩は、一と先づ帰宅はしたものの、爾来一週に一度か二度づつ三峰山を訪ねて、専ら霊的現象の調査に取掛ることになつた。
段々足を重ねるに従つて、次第に遠慮も失せ、お互に思ふ存分の事を言ひ合ひ、語合ふやうになつたが、幾ら贔負目に見ても、このお婆さんが決して聡明な頭脳の所有主でないことが段々判つて来た。言ふことはさう曲つた、不都合な所も無いが、いかにもそれが卑俗で浅薄で、そして屢々辻褄が合はない。又時とすると其行為の上に少々興が醒めることもあつた。
月並祭といふやうな事が此所にもあつて、其様な時にはお萩、五目飯又は天どんなどの御馳走があつたが、かかる際の先生の飯の食べ方には少々呆れた。先づお狗様に上げるのだと云つて、天どんの四五杯をペロリと平らげる。其後で、これは妾が戴くのだと言つて、更に一杯位を平然として追加する。
『お腹の何所にあの多量の飯が入るのかしら?』と妻も自分とともに幾度眼を円くして訝つたか知れなかつた。変態心理の先生ででもあつたら、これは『神経性多食症』といふものだとか何とか言つて手際よく形付けて了つただらうが、自分達には其麼気の利いたことは生憎出来なかつた。
参拝者に対するお婆さんの態度も余り感服ばかりは出来なかつた。自分達に対しては親切で丁寧であつたが、裏店の婆さんなどに対するときは、厭なよそよそしい待遇もちよいちよい眼についた。又足繁く通ふ人の事は盛んに讃めるが、遠のいて来ると現金に風向の変るのが目立つた。
是等の点は一向感服も出来なかつたが、しかし其発揮する一種の霊力には感心せぬ訳には行かなかつた。透視も、千里眼も何方も鮮かな所があつた。或る晩自分が訪ねると、唐突に、
『お宅の坊ちやまに今日白い薬を服ませましたネ、アレはセメンエンと重曹とが半々にしてありますが、蛔虫は居ませんから、後の一貼は服ませてはなりません』と言つた。実際其日病院からセメンエンを二貼貰つて来て、其一貼を子供に服ませた。これは便秘の状態から、素人考へで蛔虫の所為だらうと推定したからであつた。
心の中で自分は少々驚いたが、容易には屈服しない。其翌日衛戍病院の某軍医に怙んで大便の検鏡をして貰つた。所が二三度検鏡しても蛔虫の卵がとうとう見付からなかつた。
余り易々と命中られるので終には自分は聊か忌々しく感ずるやうになり、何とかして三峰山を凹ませてやり度いやうな気分になつて来た。