催眠術といふ名称は同一でも、其内容は次第々々に時と共に変化しつつある。甚だしいのは覚醒状態の催眠術などといふ、随分無理な命名をせねばならぬ場合もある。是は催眠術といふものの原理真相が判つて居ない何よりの証拠で、実行者がいかに五里霧中に徘徊し、戸惑ひをして居るかが察し得られると思ふ。暗示にしても同様である。毎度是で成功するかと云ふと必ずしもさうばかりは行かぬ。時々意外な反抗を催眠中の被術者から受けて驚く場合がある。又術其物が必然有効かと云ふにこれも決してさうではない。行つても行つても不成功に終る事が屢次ある。
自分は催眠術に就いては全然門外漢である。他にかけた事などは一度も無い。又行つて見ようと思つたこともない。せゐぜゐ両三度他人の実行して居るのを傍で見物したに過ぎない。しかしたつた両三度の見物で、催眠現象に就いて深い疑問を起したと同時に、平気でこの不可思議な術を十年も二十年も実行実施して、別に怪しみもせぬ人々の大胆不敵なのには驚き呆れて居る一人である。
『催眠現象といふものは実に不思議なものだ。しかし、何うして彼様な事が出来るのだらう?』
自分は幾年間この疑問に悩まされたか知れぬ。
近頃に成つてからは、よく他から次ぎのやうな質問を受ける。
『鎮魂は催眠術の一種ですか』
『鎮魂と催眠術とは何処が違ひますか』
自分は常に此質問の答弁には大に困る。何故かといふに、天下の人々は鎮魂の何物なるかを知ららぬと共に、又催眠術の内容に就きて毫末も知る所がない。催眠術を看板にして、飯を食つて居る連中でも其理窟を知らぬことは素人と同一である。かく一般に判つて居ない鎮魂と催眠術との比較などを試みたところで、中々腑に落ちる所まで持つて行けぬは、決り切つた話である。
而かし一旦大本へ来て一週間なり十日間なり修業した人には案外話が為易くなる。霊魂の実在さへ体得が出来ると催眠術の原理などは容易に呑み込める。催眠現象といふものは、詰り術者の霊魂が被術者の霊魂に対して加へらるる作用に外ならぬので、縦令形態方式が如何に変らうとも、霊魂及び霊魂と人体との関係さへ明瞭になれば訳なく理解し得るのである。無論催眠術で成功するには術者の霊魂が被術者よりも高級有力であることが必要で、その場合には勝手に対者を威圧して、自分の好きなやうに左右する事が出来る。之に反して、術者の霊魂が被術者の霊魂よりも劣弱であれば薩張駄目である。
中島機関中将の試した千里眼式現象の如きも、霊魂の性質及び作用さへ分れば、直ちに成程と肯かるる。人間には、自己の肉体と同化抱合せる霊魂があると同時に、別に其人に付属して守護を与へる所の霎魂がある。大本で所謂守護神といふのがそれである。自己の霊魂も守護神も其肉体から一部分游離するのは自由自在であつて、其速力は普通一瞬に百里千里を往復する。であるからいかにボンヤリした下女の霊魂でも、横須賀市内の状況を偵察し之を其肉体に報告する位は甚だ容易なのである。
要するに問題は霊魂及び守護神の存在の有無にかかるのだが、これは各人の修業を待たねば到底決し得ぬ。黴菌を研究するには顕微鏡を必要とする如く、超物質的な霊魂を研究するには、是非之を試験し識別し得る或物を要する。夫は西洋の霊魂研究者も行つて居る通り霊媒を使用するのも一つの方法である。但し西洋では偶然に発生した二三の霊媒を使用するに止まるが大本では各人皆修業の結果一種の霊媒となる。霊媒とは決して特殊の例外でなく人類共通のものである。即ち神霊界と現象界との間に連絡を付る人が霊媒で、釈迦も、基督も、天理教祖も、大本教祖も学理的に云へば皆一の霊媒だ。十分修業が積むと、他の霊媒等に依らずとも単独で自分の肉体を直に霊媒として使用する事が出来る。普通かかる人を神通力者と唱へる。即ち神通力者とは一個の身体を人間と神と双方で使ひ分けることなのだ。自己催眠などといふのも略それに接近したものである。