一両日躊躇して居たが到頭自分は思ひ切つて所謂三峰山へ行つて見ることになつた。場所は米ケ浜祖師堂の付近の奥まりたる路次の突当りにある、割合にさつぱりした普通の平家であつた。門には孝信教会と書いた標札がかけてあつた。
少々キマリの悪いのを我慢して格子を開けて入つて見ると、先づ二十足ばかりの女下駄が目につく。中々集つて居るなと心の中に思ひ乍ら、取次の女中に挨拶して襖を開けて見ると、中は六畳と八畳とが接続つて居て、其所に婦女ばかりが大勢集まつて茶を飲んだり、浮世話をしたりして居た。お婆さんも居れば、中年増も居り、又若いのも子供も居たが、驚いたのは海軍士官の妻君が二人まで混つて居たことであつた。他の人々と同じく良人や子供の病気直しを頼みに来て居ることが後に判つた。兎に角自分は従来十幾年も横須賀に住み乍ら、裏面にかかる一種の社会の存在して居ることを更に知らすに暮して来たのであつた。が、これは自分のみでなく学校出の人間など日本の社会の表通りのみを見て、簡単明瞭に暮して居つて、瓩会の裏通が種々の葛藤に充ち、奇々怪々な事件に富んで居るのを知らぬが多い。自分にとつて殊に意外であつたのは、行者巫女などいふものが、日本人の内部生命に向つて中々重要な役割を演じて居ることであつた。一体日本の社会学者、宗教学者、実験心理学者などは、まだまだ書斎にばかり閉ぢ籠り勝ちで、活きた事実の調査を閑却し過ぎて居るやうである。それでは要するに他人の糟粕を嘗めるに止まり、とても世間を動かし、社会を導く力はない。平時はそれでもお茶を濁せるかも知れぬが、真逆の場合には畳の上の水練、趙括の兵法と同様に何の役にも立ちはせぬ。自分一人で高くとまつて、学者振り、博識がり、他を見下げて威張つて見たところで、段々人が相手にしなくなつて来る。口に治国平天下を説いて、実は一州一郡の政治すら取り得なかつた徳川時代の腐儒等も、随分見掛倒しだつたが、宇宙だの、人生だの、社会の安寧だの、学問の神聖だのと文句を並べる丈けで、周囲の圧迫の下に只浮沈する丈けの今の所謂学者なども余り讃められない。一旦天下の形勢が急転直下した暁に、ツブシにして価値のあるものは幾らもありはせぬ。……オツト又話が脱れて了つた。
兎に角自分はこの時生れて初めて教会じみたものの門を潜つたのであるから、聊か勝手が違ふやうに感じたが、一座の隅に坐り込みて四囲を見回した。先づ気がついたのは、此種の教会の通有性たる神仏混淆式の設備であつた。普通の家の床の間を改造して檀を設け幾箇も祠が置いてある。其左右には燈籠、花立、木魚、拍子木、鉦、香炉、般若心経の折本等が並べてあり、壁には種々の掛軸が下がつて居る。
会衆の中に混つて、田舎訛りで喋つて居た五十恰好の婦人が、此処の先生の石井ふゆ女であることが知れた。
『子供のことで飛んだ御厄介に成りました』自分は名前を名告つて簡単な挨拶を述べると、先方は大変愛想よく『これはこれは善うまアお出でなさいました、お坊ツちやまの御病気で貴下にお目にかかるといふのも不思議な御縁……』やや皺嗄れ気味の錆声で、この不思議な御縁を連発するお婆さんであつた。話は幾らでも連綿と続くが、要領は中々得られないので少からず自分は悩まされたものだ。それでも二三時間居る中に、此人が横須賀近在木古場の出生であること、十三四歳の時分から一種不思議な霊覚がある事、良人は工廠の職工で、最初は普通の家婦であつたが、段々依頼者が殖えるので現在の教会を設けた事、何百人といふ病人が癒つた事、祀つてある神様は二方で、一方は金照斎、他方は何とかいうて共に三峰山のお狗さまであること、三郎の気管支の故障は十一月四日に平癒する事などを、どうやら聴き取る事が出来た。
『何うして身体の何所が悪いといふやうな事が判るのです?』と自分はいささか面喰ひ乍ら訊いた。
『有難い事には信心のお蔭で眼に見せて貰ひます』
『では私の懐の蟇口に若干入つて居るかも見えますネ』
『そりゃ貴下お易い御用で……』
『実は私も今若干入つて居るか覚えて居ないが、一つ試験に当てて見せて呉れませんか』と自分は膝を進めて追窮した。