何うせ体得以外には容易に判る筈のない事であるから、こんな窮屈な説明は暫時この辺で預りとして置いて、自分が横須賀生活中に不思議と思つた次ぎの事実の叙述に取り掛るとしよう。これが自分が綾部に行く迄の最後の予備的経験で、聊か面目ない気もするが、思ひ切つて爰に告白する。
十有余年間平穏無事を極めた三浦半島の自分の生活に不図変調を来し、恰も晴れたる空に一片の黒雲がフイと浮んで何所ともなく不安の空気を漂はずにも似たる、厭な事が起つたのは大正四年の春であつた。現在筆を執るに当りて当時を追想しても、いささかか気が滅入るやうに感じる。
それは第三子の三郎が一種の熱を起したことであつた。
自分達夫婦の間には男ばかり三人の児があつた。長男は勝良、二男は新樹、三男が三郎、各自三つ違ひの三人兄弟、その後はベツタリ中絶して了つた。自分達は子供はモウこれで無いのであらう。親が男の三人兄弟だから子供も矢張りさうなのだらうなどと考へた。兎に角三人とも達者に生長するし、後はなし。家の内は、男児ばかりで幾らか殺風景だが面倒も心配もなく、結句気楽なことにして、天気の好い日曜日にでもなると、親子五人、水筒と行厨を携帯に及び、葉山、逗子、鎌倉、江の島、浦賀、久留浜、大楠山、武山、神武寺、金沢八景等と歩きまはり、時には少し羽を延ばして三崎、鵠沼、箱根、修禅寺等にも出掛けたりした。こんな気楽な所へ突然三男の発熱……。
発熱というても熱度はやつと三十七度三分か四分、別に何等目立つて険悪な所も無いが、ただ午前十時頃になると其熱が必ず出て、そして日暮には必ず引つ込む。夜は盗汗が出る、血色もよくない、といささか衰弱らしい兆候と倦怠さうな様子がある。これが十日、二十日、一と月、二た月と続くのであるから厭で厭で耐らなかつた。
『何か質の悪い病気ではないでせうか。手遅れせぬ間に早く癒さないと……』と心配さうに、妻は一日に何回となく自分に訴へる。
『ナニこれ位の熱は何んでもないさ。転地にでも行つたらよからう』
口には軽く答へるのを常としたが自分の心も実は重かつた。何ういふ訳か知らぬが何処となく渾身に圧迫を加へられるやうに覚えた。
無論医者にも数次かけた。横須賀ばかりでなく東京へも連れて行き、一流の大家の診療を乞うた。が、何うも病因が判然と分らなかつた。但し何のお医者さんも相当の注意と警告と注文とをせずには置かなかつた。甲は山間への転地をすすめた。其結果は修禅寺の温泉行などとなつた。他の一人は海岸療法を薦めた。其結果は田戸の海岸への日参となつた。丙は運動に限るといひ、丁は静養が肝腎だといふ。食物もお医者さん次第で天地の相違があつた。牛乳を無理に飲まされたり、肉汁を矢鱈に吸はせたり、固形物にしたり、流動体にしたり、自分達は言はるるままに有らん限りの方法手段を講じたのであつた。
が、熱は依然として降らす、衰弱は旧によりて除れなかつた。さうする中に春も暮れ、夏も過ぎて稲田の黄ばむ秋の惑に成つて了つた。
この半歳以上に跨がつて依然旧態を持続したまま、良くもならず不良もならぬ病状にはしみじみ自分達は根気が尽きて来た。子供自身も次第に飽きて来た。
『阿母さん、僕何日学校に行つて可いの?』
不用意に言ひ放つ病児の一言に妻は数次顔を背けて暗涙を押し拭ふのであつた。
これしきの病気、これしきの境遇は、世間幾万の家庭に有り勝ちの事であるから、自分達夫妻の心痛は余りに大袈裟であると嘲るものもあるであらう。実は自分自身も幾度自分自身を嘲り又妻を嘲つたか知れぬ。それにも拘はらず、嘲る傍から、モウ胸の奥の奥の方にムラムラと心配が首を擡げるのであつた。