自分が最後に綾部の大本に逢着する迄の精神的準備としては大体以上で叙べ尽したやうに思ふ。要するに現代の科学、心理学、哲学等の大部分を超越し、何うしても捕へ難く、説き難く、如何とも為難き霊妙不可思議な或物に対する疑問、憧憬が是等の体験により頗る根強く自分の胸奥に刻つけられて了つたのであつた。無論皆幼稚で卑近で娑婆臭くて、天地の神機を吐呑する大真人の眼などから観れば、言ふに足りない。甚詰らぬ経験であるに相違ない。しかし善くても悪くても、詰つても詰らなくても兎に角切り棄て難い活きた経験である。若しも是等の経験が自分に無かつたとすれば、綾部の大本の話を聞いても畏らく耳には入らなかつたに相違ない。して見れば少くも自分丈には甚だ貴重な準備であり練習であつたと謂はねばならぬ。
さて自分と綾部との接触の話は最後の三峰山の話に引続いて、甚だ不用意に、手軽な形式で起つた。遠くて近きは必らすしも男女の仲ばかりでは無いと見える。相模の横須賀、丹波の綾部、東と西とに百何十里を隔てても、深い因縁の覊が繋つて居れば、瞬く隙に引ツ付いて了ふ。
忘れもせぬが大正四年もモウ暮に迫つて、海から吹き上げる北風の肌を刺す頃であつた。夕餉を終ると共に自分は街中をグルリ一周する習性があつたので、此日も二重まはしを引つかつぎて汐入から大滝町の方へ回つた。平坂の下まで来た時に、不図例の三峰山へ寄つて見る気になつた。別に深い考へのあつた訳ではなく、しばらく無沙汰をしたから、様子を見物かたがた子供の病中の好意を謝する所思であつた。神ならぬ身の、この一場の気紛れが、自分と綾部との媒介をなさうとは夢想だも為し得なかつた。
三峰山のお婆さんは例によつて愛想よく自分を迎へた。珍らしく参拝者の数が尠かつたので、火鉢に手を温めながら、お婆さんを相手に子供の風評などをして居たが、十五分許りも経過したと思はるる時分、がらり格子戸を明けて入つて来た男があつた。
其人は縞の羽織に小倉の袴、肩にはズツク製の学生鞄、是と交叉して掛けたのが幅四寸許りの水色の襷、思ひ切つて異様の風采なので、初めは救世軍の士官でもあるかと思つたが、其襷には『直霊軍』と書いてあるので一寸何者とも見当が取れなかつた。
が、よくよく其顔を見ると直に海軍機関中佐の飯森正芳氏であることが知れた。此人は大尉時代に海軍機関学校の教官をして居たことがあるので、兼ねて旧知の間なのである。自分達の間には直に挨拶やら問答やらが始まつた。
『ヤ飯森君ですネ、御機嫌克う』
『イヤ御機嫌克う、お変りもありませんか。併し不思議な所でお目にかかりましたネ』
『不思議といへば、貴所は今何所にお居でです?』
『近頃は丹波の国の綾部といふ所に行つて居ます。京都から汽車で二時間余りの所です』
『丹波の綾部! 何うしてそんな所へ……』
『大本教といふものに入つて斯うして遊んで居ます。当所と同様、教祖といふのは矢張り婦人ですがネ』
飯森さんは大尉位の時分から神霊問題の研究には大変に熱心な人で、此人が一時例の予言者宮崎虎之助氏と提携して居た話は海軍部内で有名なものであつた。兎に角毛色の変つた人なので、たうとう海軍士官の生活が厭になり、たしか大正三年、中佐に成りたての時分に無理に現職を離れて了つた。爾来何処で何うして居るか、自分は一切其消息を知らずに打過ごしたのであつた。
『その大本教とかいふのは余程根柢の深いものですか。一体何時から在るのです?』
『明治二十五年の正月元日教祖の出口直子といふ方が、突然神憑状態になつたのがそもそもの始まりです。それから引つ切りなしにお筆先が出ますが、冊数にすると八九千もありませうか、大きな長持にぎつしり三杯程あります。』
『明治二十五年』、『出口直子』、『お筆先』──是等の懐かしい言葉を私が生れて初めて耳にしたのは実に此夕のことであつた。三峰山のお婆さんをそツち除けにして約一二時間飯森氏と話し込んだ結果、進んでもつと綾部の大本の話をききたくなつた。
『何うです宅へ来ませんか。ゆつくりお話を伺ひませう』
たうとう自分は鈑森さんを自宅へ連れて来た。