『吹雪』で味を占めてから自分は一時乗り気になつて筆を執つたものだが、前に述べた通り困つた事には書いた文字が皆頭脳に残つて、何うしても消えない。二篇三篇は格別でもないが、十篇二十篇となつて来ると中々苦しい。終には筆を執るのが聊か厭気がさして来た。
さうする中に大学の課程も終りを告げ、否応なしに自分は広い世の中に押し出されて了つた。自分は在来の惰勢が続いて居るので、其後も筆を廃した訳ではなく、『新声』といふ文学雑誌の主筆などを引受け、傍神田辺の学校へ雇はれて英語の教師をやつて見もしたが、どれも余り面白くなかつた。軈て不図した事で横須賀の海軍機関学校から招かれ、明治三十三年の春の初めに赴任することになつた。その時の気分は極めて呑気なもので、近い土地ではあるし、一寸行つて見る位の所思であつた。実に人間の自己の運命に対して甚だしく盲目なのは呆れるばかりだ。赴任当時の自分は、夢にも爰で妻を娶り、家を営みて、足掛十有七年の星霜を送るとも、又爰で皇道大本との接触を始め、現在の新生涯に突入するの素地を作らうとも、到底想像し得なかつた。これは私の場合に限つたことでなく、人はその一生の大部分を自己以外の有力なる或物に握られて、其自由にされて居る。古来之を『運命』と呼んで居るが、其運命の正体は何? 又運命の鍵を握つて居るものは誰? 従来は之に明確なる答へを与え得るものはなかつた。そして判らぬままにただ名称を付けた丈で放棄してあつたが、有難いことには、今日の吾々には運命が神の経綸に属すること、従つてこの鍵が神の掌中に握られて居ることが赤裸々に判明して来た。無論それに個人の身の上のみでなく、国家の治乱興亡の運命も、天地日月星辰の推移変遷の運命も悉く然りである。運命は大体神のみが知つて居る。稀れに一小片端の人間に漏らされるのが、それは所謂神諭であり、予言である。新旧約全書、古事記、大本神諭等は最も多量に此要素を含んで居る。
さて十有七年間の三浦半島に於ける自分の生活、一言に之を述ぶれば、単調平凡といふ丈で尽きて了ふ。四年目毎に子供が生れるが、どれも皆男の児ばかり、一二年目毎に位階が上り、俸給が上るが、例の鰻登り式の好標本ともいふべき性質の進級振りで、人より速くもなければ又遅くもない。道楽としては次第に創作に遠ざかると同時に翻訳を試みたが、後には英和辞書の編纂を思ひ立ち、両三人の同志を促して、可なりの精力と時間とを之に捧げた。凡そ仕事の中で何が単調と言つてもAの部丈に約一年も費る、辞書編纂ほど単調無味な仕事はなく、後には前年と翌年との間に判然区別がつけられなくなつて了つた。
日曜日になると決り切つて遠足に出掛ける。夏の休暇中は毎日海水浴、冬の休暇は大概軽装して近県旅行、身体は逹者なので、出勤退庁常に時計そのままに実行、格別の不平煩悶もなければ、又格別の得意満足もなく、其間に春去り冬来り、今年を送り翌年を迎へ、いつしか二十七歳の青年は四十の坂を越して了つた。
外部から見ると書くことも話すことも殆ど無いが、この平々坦々の時代に於て、私の精神上には到底拭ふべからざることが起つて居た。その一つは催眠術の実験で、それは確か明治四十年前後の事であつたと思ふ。