顕幽の神称
『古事記』の解釈は、従来、表面的辞句の解釈に止まり、従って荒唐無稽にして寧ろ幼稚なる一の神話として取扱われて居たが、大本言霊学の活用によりて、漸く其真面目が発揮され、深遠博大、世界独歩の真経典たることが分って来た。之によりて観ると、天之御中主神の御神業は、大別して四階段を成して居る。第一段が天地初発の根本造化の経営で、皇典でいえば、伊邪那岐、伊邪那美以前である。第二段が理想世界たる天界の経営で、主として、伊邪那岐、伊邪那美二神の御活動に係り、三貴神の御顕現に至りて、それが一と先ず大成する。
第三段が地の神界の経営で、天孫降臨から神武天皇以前に達する。第四段が現実世界たる人間界の経営である。此四階段は、決して単に時代の区別ではない。寧ろ方面の区別である。換言すれば第一段が全部済みて第二段の経営に移り、順次に第三段、第四段と成って来たのではなくして、四階段同時の活動であり、経営である。そして現在に於ては、何れも未製品で、不整理、不整頓を免れず、又各階段の連絡も充分でない。『大本神諭』の所謂「世の大立替大立直」を待ちて、始めて目鼻がつくという状態に成って居る。無論、天だの、地だの、神だの、人だのが、ごちゃごちゃに同時に出来上ったのではなく、秩序整々、適当の順序を以て発生顕現したのであるから、其点から考うれば、時代という考もなくてはならぬ。矢張り第一段の経営が真先に始まり、第二段の経営が之に続き、第三段、第四段とは成って来たのだ。ただ四階段の経営が悉く現在まで引続き、そして今後も永久に続くのである事を忘れてはならぬ。此事が充分腑に落ちて居らぬと、天地経綸の真相は到底会得し得ない。現在大活動を為されて居る神々を、歴史的遺物として遇する様な大過誤に陥ちて了う。
吾々は、説明の便宜の為めに、此階段に名称を付して呼んで居る。即ち第一段が「幽之幽」、第二段が「幽の顕」、第三段が「顕之幽」、第四段が「顕之顕」である。此四階段に就きての明確な観念を伝えて居るものは、古経典中、独り『古事記』あるのみで、他は、大抵最初の三階段を、ごっちゃに取扱ったり、又は無関係のものの如く取扱ったりして居るから、天地の経綸などという事が到底腑に落ちない。宇宙と天体との関係も分らず、天津神と国津神との区別も分らず、宛然、暗中模索の感がある。従来の宗教などは、其様な片輪な、幼稚なものを提げて、「之を信仰せよ」と迫ったのだから、随分無理な話だ。頭脳の鈍い者には、迷信も出来ようが、荀くも健全な理性常識を具えて居る人には、到底出来ない。十八、九世紀以降、無神、無宗教を唱うる者、年々歳々増加したのは、寔に当然の話である。在来の宗教などを信奉する人は、単にそれ丈で頭脳が健全でない事を証明して居るのだ。或る程度迄、天文、地文学に背反し、古生物学に背馳し、歴史に背馳し、理化学に背馳し、倫理、人道に背馳し、その他諸種の科学や常識に背馳して居る宗教が、何で人類に対し絶対の権威を有し得る筈があるものか。真正の大道は、是等一切の学問を網羅抱擁し、其不完全を補い、其誤謬を正し、尚お進んで其根原に遡り、其出発点を探りて、帰一大成するものでなければならぬ。無論天地間の秘奥は、人間の小智小才を以て探ぐるのみでは、不充分である。人間の推理研究には程度があって、大宇宙の奥底に透徹するなどは思いも寄らぬ。
凡ての科学、哲学等が大成せぬは、之れが為めである。最高の堂奥は、是非とも偉大純正なる神啓に待たねば分らぬ。昔では、我皇祖皇宗の御遺訓たる『古事記』、今では、国祖国常立尊の垂示し給う『大本神諭』等が、即ちそれである。何れも人間の推理研究の結果として生れたる産物ではなく、醇正無二の大神啓である。従って議論や理屈を超越して居るが、併し決して正しき議論、正しき理屈、正しき推理研究と背馳しないで、却って之を補正、抱擁して、余裕綽々たるものがある。理屈から言うても、成程と首肯せざるを得ぬものである。それでこそ、人生に対して絶対の権威のある真正の大道である。自分は、是から皇典に拠りて、四階段の分担方面、及び各階段の関係、脈略等を説明したい。