幽の顕
「幽之幽」神界は、宇宙内部の活機を掌る所で、即ち造化の根元は爰に発するのであるが、此所の活動では、現象としては宇宙間に何等の痕跡も現出せぬ。「幽之顕」神の顕現に及びて、始めて或程度迄、現象にも現われて来る。「幽之顕」界は、即ち宇宙を舞台として活動する神々の世界で、人間界から之を見れば、一の理想世界である。皇典で天津神と称えるのが、即ち此界の神々を指すので、今便宜上、此界を天之神界と称えて、地之神界と区別する事にした。
自分は前章に於て、神々を力の表現と観て、宇宙内部が次第に整理せられ、天地、日月、大地、星辰の剖判する次第を略述したが、取りも直さず、あれが天の神界の創造大成である。即ち客観的には、天地、月日、大地、星辰の出現であるが、主観的には八百万の天津神達の出現である。天文学というものは、是等の天津神をば物質的に取扱い、専ら其形態、組織、運行の法則等を推定せんとする努力である。恰かも生理、解剖学者が人体に対して行う所と同一見地に立って居る。一面の真相は、之によりて捕捉する事が出来る。其方面の開拓も、今後益々発達せねばならぬが、単にこれ丈に止まりては、偏頗不完全を免れない。生きたる人体の全部が、生理解剖等の力で到底判らぬと同じく、活機凛々たる天津神の活動は、決して天文学のみでは判らない。是非とも、其内部の生命に向って、探窮の歩を進めねばならぬ。それが即ち霊学であるのだ。『古事記』は、此点に於て至尊至貴の天啓を漏らし、あらゆる世界の古経典中に、異彩を放って居る。即ち『古事記』上巻、伊邪那岐、伊邪那美二神の御出生から始まり、二神が多くの島々や草木、山川、風雨等の神々をお産みに成り、最後に天照大御神、月読命、建速須佐之男命の三貴神をお産みになる迄の所は、実は天之神界の経営組成の大神業を描いてあるのであるが、前にも一言せる通り、表面から解釈すれば、頗る幼稚なる神話としか見えない。「大本言霊学」の活用によりて、始めて其裏面に隠されたる深奥の意義が闡明される。
天之神界の経綸を主として担当された神は、伊邪那岐、伊邪那美の二神であるが、伊邪那岐の命は、霊系の祖神たる高御産巣日の顕現であり、又、伊邪那美命は、体系の祖神たる神産巣日神の顕現である。換言すれば、天地初発の際に、「幽之幽」神として宇宙の根本の造化の神業に活動された霊体二系の祖神が、万有の根源たるべき理想世界を大成すべく活動を起され、複雑神秘なる産霊の神業によりて、八百万の天津神を産出し玉うたのである。
既に「幽之顕」神と申上ぐる通り、或程度、天津神々の形態は、肉眼にも拝し得る。日、地、月、即ちそれである。しかし、其全豹は到底人間界から窺知し得る限りでない事は、天文学者が最も熟知して居る。吾人の生息する大地すら、僅かに表面の一部を探知し得るに止まり、之に関するの知識は、実に浅薄を極めて居る。科学者が査ぶれば査ぶる丈、哲学者や霊力者が究むれば究むる程、奥は深く成るばかりで、決して其際涯を知ることが出来ない。顕は顕だが、大部分は矢張り幽の領域を脱し得ない。「幽の顕」神と唱える所以は爰に存する。
人間は、兎角自己を標準として推定を下し、神といえば、直ちに人格化せる神のみを想像しようとする。そして自己に比較して、余りに偉大幽玄なる太陰、大地、星辰等は、一の無生機物(ママ)であるように思惟したがるが、この幼稚な観念は一日も早く放棄せねばならぬ。
人体に寄生する所の微生物には、恐らく人体の全豹を理会想像する力が無いであろうが、人間も亦、うっかりすると同様の短見に陥る。
あらゆる天体は、霊力体の混成せる独立体で、活機凛々、至大天球間を舞台として、大活動を行う所の活神である。遠距離の星辰から人間が亨くる所の恩沢は判らぬにしても、少くとも自己の居住する大地、並に太陽、太陰等から日夕亨くる所の恩沢位は、人間に判らねばならぬ。人間がいかに自由を叫んで見た所が、大地の上に支えられ、大地の与うる空気を吸わずには居れぬ。電気や瓦斯で天然を征服したなどと威張って見ても、若し三日も日輪の照臨する事なかりせば、何人か気死せずに居れよう。天地の恩沢は、実に洪大無辺である。ただ余りに洪大無辺なるが為めに、却って其恩沢を忘れ勝ちになるのである。人間が之を天体などと云うは、畢竟忘恩と浅慮と無智とを標榜するものである。単に漠然と其形態を認める丈で、其奥に控えたる天津神の偉霊を窺知する能力に欠乏して居る。
八百万の天津神の霊魂こそは、取りも直さず、宇宙全一大祖神の大精神の分派分脈である。之を捲き収むれば、根源の一に帰し、之を分ちに分てば、千万無数の心霊作用となり、微妙複雑なる宇宙の経綸を行う。即ち「幽之幽」神界の大成で、宇宙内部の基本的大綱が定まり、「幽之顕」神界の大成で、宇宙内部の理想的細則が定まる次第である。無論、宇宙内部は尚未製品で、従って「幽之顕」神界としても、従来は絶対的理想には仕上っては居ないが、吾々人間界からは、常に理想の標準を爰に求めねばならぬ。