宮沢理学士に憑つた所謂武甕槌命といふのが、実は真紅な偽物であつたのはいふ迄もあるまい。正神の神憑状態は概して優美で、上品で、穏当で、決して眼玉などをギロギロ光らすものではない。引きつづいて二三年神憑りの研究に従事したものには、其様な事は一と目で看破し得る。何処と判然指摘することは不可能でも、全身から発散する所の霊氛気により、一顰一笑、一挙手一投足の加減によりて、髣髴として、これは如何なる種類、性質、品等の癖であるといふことの見わけがつくものである。天狗には天狗の趣があり、狐、狸には狐、狸の癖がある。その趣、その癖等の輪郭は、いかにも微妙で、分析的、解剖的に記録することは、先づ不可能に近いが、何処となく自然に判る。段々練磨して来ると、別に鎮魂せずとも其人の平生の起居動作等によりて、大概其憑依物が何だといふことが、ほぼ見当をつけ得る。練磨した審神者は実に一箇の照魔鏡である。其前に立つた人は、いかに巧妙な理屈を並べても、詭弁を弄しても、仮面を被つても、技巧を弄しても、一転瞬の間に真相を洞破されて了ふのだ。古来賢君明将等には、よく人を見るの明があるなどと言はれるのは、詰まり、それ等の人々は、知らず識らずに審神者の仕事をして居たものであらう。審神者といふとイヤに霊学臭く、鹿爪らしく聞えるが、詰まる所人物鑑定人に外ならぬのである。ただ従来の人物鑑定は主として外面の人間を見て、それによりて裏面の霊性を察知したに過ぎなかつたから、いささか皮相の憾みがあつたが、大本の審神者は先づ以て裏面の霊性の鑑定から始まり、其次に人間の方に移るといふ順序であるから、その鑑定が飽まで徹底的で、ゴマカシがきかないといふ相違がある。其処まで行くのは中々並大抵の修業では駄目であるが、兎に角世界中の偽政治家、偽君子、偽宗教家、偽善者、其他一切の魑魅魍魎の面皮は、是から練磨を経たる大本審神者によりて、赤裸々に引き剥かれて行くのだ。何といふ痛快な時代に到着したものだらう。
宮沢君の憑依霊が何であるといふことが、自分に突きとめられたのは、数十日後の事であつたが、実はそれは天狗の霊であつたのである。かくいふと、抽象を高尚と考へ、推理と真理との混淆をして居る現代人の多数は、畏らく叫ぶであらう。『ナニ天狗? 其麼ものがあるものか。天狗などといふものは原始時代の幼稚な信仰の遺物で、一の観念の象徴に過ぎない。大本教はそれだから幼稚だといふのだ。そンな非科学的な浅薄な説明で、この進歩した時代の信仰を什麼して維げるものでない』
自分は常に想像する。斯麼手合をして、仮りに十六世紀頃に生れしめ、そして地球の円形説をきかせたら、恐らく次ぎのやうな事でも言つたではあるまいかと。『ナニ円形! 円形であつて耐るものか。円形であつたら水が皆流れ落ちて了ふ。近頃コロムバスといふ奴は世界を一周するなどと言つて出帆したさうだが、其非常識なのには呆れて了ふ。実に人を誤り世を迷はす所の大罪人だ。なにコロムバスは大陸を発見して無事に帰国したと? 君達は其麼流言浮説を信ずるのか、嗚呼世も末だ。なさけない!』
何時の時代にも大多数の人間は皆この流儀だ。彼等は常に其住める時代より、一歩後れて追ひかけるのを以て能事とする。追ひかけるといふ事は、中々骨の折れる仕事なので、成るべく現状維持を欲し、自分達の知らぬ事でもきけば、何とか屁理屈を並べて揉消し運動に着手する。現代人の大本に対する常套語は非科学的とか非哲理的とかいふ文句が、それだけきくと、恰も御当人が現代科学、現代哲学の開祖でもあるやうに聞えるが、豈図らんや、ホンの受売りに過ぎない。脳漿を絞り、学資をつぎこみ、やつと覚えた科学や哲学が間に合はなくなることの心配から、自衛的に大本に向つて役にも立たぬ反対の声を挙げる。其心情は寧ろ憐れむべきだが、真理は枉げられない。大本ではドシドシ実証体験の活事実を提供し、親在の不完全なる科学哲学を鵜呑みにする事の、却て非科学的非哲理的なることをズンズン教へて行く。今日尚天狗界の存在を無視したり、狐狸の霊の存在を否定したりするほど時代後れはない。何となればそれは立派な実験ずみのものなのだから。
天狗界の消息位は徳川時代の神道家も相当に査べてあり、又現在の御岳行者位でも大概は体験を有つて居るから、詳しく爰に述べるにも及ぶまいが、つまりこれは幽界に於ける一階級の名称である。換言すれば帰幽した人又は動物の霊魂の族籍上の名称で、現界で華、士族。平民などといふのにほぼ該当する。天狗其他幽界のものは無論人間の不完全なる五感には触れないが、姿もあれば形もあり、又一種の幽体もある。決して想像や幻覚の産物ではない。そして黴菌などが人体に寄生すると向様に、屢次人間に憑依して副守護神の役をつとむるが、全部そればかりではない。人間を離れて自由闊達の行動を取るものの方が却て多数に上るやうだ。
宮沢理学士に憑依して居り、そして武甕槌命と名乗つて自分を驚かしたのは、この天狗さんであつたのだ。