其翌日自分は学校へ出勤して見ると、宮沢君が一週日の欠勤届を出して居るのを発見して大に驚いた。段々聞いて見ると、昨晩自分が辞してから間もなく、又復神懸状態となり、何か奇怪の行動をやつたとやらで、両親その他が心配し、帝国大学の精神病科の診療を受けるべく、今朝東京に連れて行き、模様によつては入院させるかも知れぬといふことであつた。
『こりや宮沢君は飛んだ目に逢つたものだ。さぞ今頃は弱つて居るだらう。』
『お気の毒ですこと。まさか入院はさせられはしますまいネ』
『狂人でもないものを入院もさせはしまいと思ふが……』
自分達夫婦は宮沢君の境遇に同情し、其風評ばかりしてゐたが、如何とも致し方がない。その内什うかなるだらうとは思ひつつも、毎日東京方面からの音信を待つて居た。
上村工学士が時々やつて来て、矢張り宮沢君の風評をやる。『什うも誤解といふものは怖ろしいものだ。私か行つて宮沢君のお母さんにも、妻君にも、詳しく神憑りの話をしてきかせたが、さツぱり耳に入れて呉れない。一種の恐怖心に襲はれて居て、当方のいふことが判らんから困る。宮沢君よりは家族の方が余程発狂に近い』
二三日経つと初めて宮沢君から手紙が届いた。
『一同が僕を狂人扱ひにして居るから、馬鹿らしくもあり、腹立たしくもあり、滑稽でもあり、仕方がないから、黙つて好きにさせて居ます。昨日大学の精神病科へ連れて行かれて、○○博士の診察を受けました。滑稽なのは其診断で、極度に神経が昂奮して居るから、全治迄には約三週間を要すといふのです。成るべく入院せいといふのですが、そればかりは平に御免を蒙つて、只今親戚の家に帰つてゴロゴロして居ます。霊の発動が全く止んだので、幾らか一同が安心したやうです。この分なら入院は免れさうに思ひます。』
此手紙で幾分自分達も安心したが、それにつけても大本の道を天下に布き、世人を霊に目覚めさせることの至難なるを更に痛切に感じたのであつた。
更に両三日過ぎると又手紙が同君から届いた。
『たうとう入院丈は免れましたから御安心を願ひます。昨日僕は義兄に連れられて、江間の所へ行きました。これは発狂か否かの鑑定を受ける為めなのです。病院よりはまだこの方が余程有難い……。江間の霊力は大したものとも思はれませんが、しかし何かはあります。江間が発狂でないと言つてくれましたから、親戚も安心しました。その中横須賀へ帰れるでせう』
十日程経つと宮沢君は東京から戻つて来て、無事に出勤することになつた。いよいよ発狂でないことが判り、無罪放免といふことに決まつたのである。但し今後は自分の所へ来て鎮魂はせぬといふ誓約を、両親その他から強請され、若し之れに服従せねば、又東京へ送るといふ条件つきであつた。宮沢君もこれには一と方ならず弱つて、
『まるで罪人扱ひだから驚いて了ふ。仕方がない。朝早く出勤前にお宅へ上りますから、その時鎮魂を願ひます』
『さうでもするかネ。しかし見つかると又一騒ぎせんければなるまいネ』
自分達は若き男と女との媾引でもするやうに、通例午前七時頃を期して毎日鎮魂をつづけた。
此頃の鎮魂状態はずつと静粛なもので、大声も発せねば、乱暴もしなくなつた。大抵鎮魂毎に自分は古事記を引ツ張り出して質問すると、天狗さんはお師匠さん然として之に答へた。
『浅野はまだまだ古事記の読み方が足らん。少くとも五十回は繰返して読まんければ可かんぞ』などといふ。自分も随分精を出して古事記を読んだもので、自分がほぼ神名を暗記するところまでになつたのは、偏に天狗さんの賜であつた。自分は今でも宮沢君の天狗さんに大に感謝して居る。
しかし天狗さんの説明は、余り深いものではなく、今日から考へると余程ゴマカシが混つて居たやうに思ふ。時々天狗さん説明に困ると、
『この次ぎまでに教へてやる。只さう質問ばかりしては却つて利益にならんぞ』
などと遁辞を設けて逃げる場合もあつた。日数を重ぬるにつれ自分は聊か此神の神格に就いて疑惑を挿む様になつた。そしてヴエルダンの陥落の予言も果して確実であるか什うか少々気に成り出した。
自分が連日妻の天眼通を活用して、ヴエルダンの戦況を観察せしめたのは此際のことであつた。砲弾に抉られた、緩傾斜の、赤土の丘陵、累々たる死屍を乗り越えて猛烈に突撃する独逸軍隊、その他戦場の全部並に局部の光景は、手に取るやうに天眼に映じた。しかし陥落すべき模様は何処にも見えなかつた。たうとう自分は心配の余り、戦ひの経過を文字で知して貰ひたいと妻の守護神に請求した。すると白地の長い旗が現れて、それに大きく『攻』といふ一字が書いてあつた。
『攻めることは攻めるが、陥落はせぬといふことかしら』と自分は自問自答した。『若し陥落せぬとすれば、宮沢君の神はニセ神に相違ない。武甕槌命といふのはドウも怪しい』
神としても至難なる古事記の解釈や、ヴエルダン攻囲戦の予言では、天狗さん少々ボロを出しかけたが、しかし決してただの詰らない野天狗ではなかつた。時によると中々際どい腕の冴えを見せた。二三日後の天気の予言などは、百発百中決して外れつこがなかつた。又数学の問題にしても、運算なしでイキナリ答を出した。そして百題が百題とも決して誤謬がなかつた技倆は、確に舌を惓かすに足るものがあつた。兎に角此天狗が修業の初期に於ける自分にとりて尤も大切な教師であり、指導者であつたことは争ふべくもない。