同僚其他海軍部内の反対や忠告は、まだ可として、宮沢君の両親及び妻君が心配を始めたのには実に弱つた。これ等の人々から見れば自分が先達となり、ものずきにも鎮魂などと称する魔術めきたるものを始め、そして宮沢君をそそのかして之に熱中させ、たうとう半狂人にして了つたといふ訳なのである。一応御尤も千万なところもあるし、いかに弁を費して説明して見たとて、霊的問題は、オイソレと判るものでないから、時節が来るまで自分は成るべく妥協手段を執ることに力めた。いかにせん当人の宮沢君が中々承知しない。宮沢君としては神霊の実在を体験したことの心の満足は何物にも換へられない。殊に自分に憑依して居るのは武甕槌命であると信じ切つて居るから、内心得意でない訳には行かぬ。今に見ろ此霊覚を以て天地の秘奥を探り、世界統一の大神業をやつ付けて見せるとの抱負が鬱勃として胸に燃えた。
『神懸りと狂人との区別が判らん奴は気の毒とものだ。ナニ今に真相が知れるだらう。誰が何と言つても此研究が止められるものか』といふのが、宮沢君の肚であつた。
鼻息の荒いのは宮沢君ばかりでなく、憑つて居る天狗さんが更に一層荒らい。数日経過する中にはモウ鎮魂などを施さすとも、勝手にズンズン発動して来て、肚から種々の号令をかけたり、入智慧をしたりするやうに成つて了つた。
『汝の親爺や母親は取越苦労をして修業の干渉をするから困る。煩さいから、当分浅野の所に泊り込んで帰らんが可い』
何がさて武甕槌命の御神勅となつて、宮沢君は自分の所へ泊り込むことになつた。随分非常識な話で、斯麼ことをすれば益々家族の者に心配をかけ、騒ぎを大きくすべきは判り切つて居る筈であるのに、自分までが強て之を制止しやうともせす、そのまま自宅に泊めて置いたのが大失策、果して問題は一層火の手を揚げて、同僚の誰彼が血眼になつて奔走する。東京の親戚の某氏が吃驚して自宅へ懸合に来る。風説は風説を生み、輪に輪がかかり、煩い事一と通りでなかつた。たうとう海軍本省から実状調査の内命が校長の手許まで下るやうな騒ぎ。
しかしかかる大騒ぎの間に於ても自分達は鎮魂を中止するどころではなかつた。自分達二人の外に熱心なのは上村工学士で、晩餐後にたると毎晩欠かさずやつて来る。すると天狗さんは自発的に呶鳴り出す。
『さア鎮魂々々! 皆不勉強で可かん。浅野の家内も坐れ! 子供もやれ! 一同残らず井戸水を浴れ!』
自宅の井戸は、高台のこととて、深さが十五六間もある。それに五七人どやどや一時に出掛けて行つて水をかぶるのであるから、水汲み役の女中の骨折は大変だ。お負に
『何故もツと早く汲まんか!』
と天狗さん、下女にまで大眼玉をくはせる。下女は宮沢君の姿さへ見れば恐がつて慄へ出したものだ。
天狗さん自身の審神者で一遍鎮魂が済むと、矢継早に又号令が下る。
『モ一度水をかぶつて来い! 水をかぶらんと碌な鎮魂にならん!』
一と睨に三度も四度も冷水浴を命ぜらるるのだから耐つたものでない。幸ひ五月の半ばで、さして寒くもないが、ただ余りざぶざぶ水を使ふので数日後には、井戸が渇水して了つた。
斯んな次第で随分迷惑なこと、滑稽なこと、莫迦気た事の数々は起つたが、大体に於ていへば此一週間許りの強行鎮魂の効果は決して絶無ではなかつた。審神者と神主とが主客顛倒した変則極まる遣口で、モ一度やれと云はれては御免蒙りたいが、創業の際のドサクサ時代には一遍位はよかつたかも知れぬ。恐らく神様が臨機応変の策として、一ト先づ斯ンな事で修業の目的を遂させられたのであらう。上村君が言葉を切つたのは此時のことであつた。イヤ其滑稽至極な状態は今想ひ出しても可笑しくなる。
『ささささ猿々々々々』
唇辺をピチヤピチヤやり乍ら、低い優さしい声で、斯ンな事を永い間繰返す。後は中々出ない。自分達は、てつきり同君には猿の霊が憑いて居るのであらうとばかり思つた。所が数回鎮魂して居る中に後の方がまだ段々出る。
『……猿々々々々、猿田猿田々々々々ひと──のみこと』後尾の方を妙に引ツ張る。さては猿田彦之命かと一同覚えず又も吹き出した。何しろこれは余りに滑稽なので、半信半疑といふところであつた。
天狗さんが、自分達の近眼を治してやると言ひ出したのも此際であつた。
『眼鏡を外して、そして毎日冷水で眼を洗へ!』といふ命令、天狗さん随分骨を折つてくれたが、少しはよくなつた位のもので、お約束通りに近眼が全治はしなかつた。イヤ全治しなくて僥倖。若し全治でもしようものなら、天狗さんも宮沢君も大得意になつて、今頃は『近眼根治』の看板でも掛けて病院を開業して居たかも知れぬ。