かかる間にも、宮沢君は矢張り帰宅せず、毎晩私の離座敷に泊り込んで、そして私の所から役所へ出勤して居た。これは天狗さんの厳命であつて、本人の宮沢君も弱り、又自分も迷惑であるが、如何ともすることが出来ない。強ひて帰宅を勧めやうものなら、天狗さん忽ち発動して、肚の底から呶鳴り立てる。
『可かん可かん可かん! 宮沢は当分まだ浅野の所に居るのだ。宮沢の両親も妻もさツぱり神の道が判らん。今に眼が覚めるだらう。それまでは浅野、汝が預つて置け』
内心には随分無茶だと思ふが、初心の審神者先生、天狗さんの断乎たる態度と爛々たる眼光とに僻易して、飽まで意見の主張もやらず、板挟みとなつて苦しんで居た。
しかし約一週間を過ぎた時には、宮沢君の両親からの談判が、のつぴきならぬ所まで進んだ。殊にお母堂などは、涙を流し乍らの心配である。
『当人はまるで狂人のやうで、妾などが何を申しましても受けつけません。嫁も可哀相で厶います。どうか一旦帰宅ますやう、あなたから心配してくださらんければ……』
薄気味が悪いが、自分もたうとう天狗さんに抗議を申込むことに決心した。晩餐後、
『宮沢君、一遍家へ帰つては什うかネ』と自分は何気なく言つて見た。
『可かん!』と呶鳴るのはモウ宮沢君ではなくて、自称武甕槌命である。『帰宅することはならんと、何遍も命じてあるではないか』
『イヤお言葉ではあるが、それでは何時まで経つても埒は明きません。宮沢の家族が神の道が判らんで悪いと思召すなら、それを判らせるのが神様のお役目ではありませぬか。一度宮沢を帰らして、そして両親を説論されてはいかがで厶ります。ただ帰らぬと主張されては私が困ります』
『ウム』と天狗さんはすこし考へて、案外素直に、『よしよしそれならこれから行つて、一同を信仰に入らせてやる。浅野も一緒に来い』
午後の八時頃であつたが、たうとう自分達は連れ出ちて宮沢君の宅へ出掛けて行つた。其頃同君の寓居は、佐野の練兵場の傍の丘腹にあつた。自宅とは僅に七八丁を隔てて居るに過ぎぬ。途々宮沢君は一度も霊が発動せす、甚だ穏かで、『甘く親爺が判つて呉れればよいが』など言つて居た。自分も、この分ならば、思ひの外親子の理解が早く出来るかも知れぬと思つた。
所が、いよいよ先方へ乗り込んで見ると、雲行きは頗る険悪の兆候を呈して居た。宮沢君の妻君などは気味悪がつて挨拶にも出て来ぬ。親爺さんは漸く出ては来たが、平生の温顔は何処へやら、苦り切つて控へ、黙礼をしたままである。一座は極端に白け立つた。一見して相互の間の思想感情に千里の差があることが判つた。
たうとう自分から言葉を切り出した。
『御心配を掛けて、誠に相済みませんでした。いろいろ事情に行違ひがありまして……』『行違ひか知れませんが』と先方はむツとしたままで『一体何ういふ訳で伜は貴下の所へ一週間も滞在したのですか。先づその理由から伺ひませう』
いかにも自分で宮沢君を唆のかして、無理に拘留でもして居たらしい口吻である。自分としては心外千万だが、さればとて武甕槌命の御神勅の結果であると述べた所が意味は通じさうもない。仕方がないから自分は説明を始めた。
『それには色々お話しせんければなりません。神憑りの事がお判りにさへなれば……』
『イヤ神憑りなどといふものは、私もよく存じて居ます。行者などが御幣を持つてよく下らん事をやる。相当学問をしたあなた方が、そんな迷信に捕はれて什うなりますものか』
『イヤ大本の鎮魂は其様なものとは全然違ひます。日本固有の天授の神法で……』と自分はウロ覚えの霊学の講話をしてきかせるつもりであるが、親爺さん一向に相手にしない。迷信家が何をいふと言はんばかりに、
『天授の神法かは知らんが、ドウも近頃の伜は大きな声で何か判らんことを喋つたり、まるで狂人の沙汰です。同僚の方々にも先夜失礼なことをしたさうで、誠に面目次第もない訳です。今日限り鎮魂とかいふ魔法めきたものは廃した方が可いでせう。あなたがそれに熱中するとは、飛んでもない不心得で……』
宮沢君は二人の押問答を黙つてきいて居たが、この時俄然として神憑り状態となり、例の爛々たる眼光で親爺さんを睥めつけ、四辺に響く大音声で、『不心得とは汝のことだ。無礼者ツ、黙れ!』と一喝したのは宮沢君に憑依せる天狗さんの仕業だが、親爺さんには其麼な事は判らない。一図に伜から叱られたと思つた親爺さん、怒るまいことか、
『おのれ無礼な! 親に向つて今の言葉は何だ』
『親ではない? この方は武甕槌命であるぞ。注意して言葉をきけ!』
『ナニ注意して……。不届な事を申す奴ぢや、親を親とも思はず、無礼千万な!』
親爺さんは余程腹が立つたものと見え、ムキに成つて立ち上つた。今にも格闘が始まりさう。何しろ喧嘩相手が人間と天狗さんだから始末が悪い、自分も其時には実に弱つた。今想ひ出しても、ハラハラするやうだ。