妻の天眼の開ける初期は、通例他の何人の場合に於ても然るが如く、先づ閉ぢたる眼の中に眼が痛いほど鮮かな、紅だの紫だの青だのが見え出し、やがて之に引続いでいろいろの能力が発揮されて来たのであつた。世間ではよく千里眼だの、透視だのと騒ぎ立てて居るが、実は天眼の活用の範囲は、そんな狭いものでなく、必要に応じて千変万化の作用を発揮するといふことが、実験の結果段々判つて来た。之に限らす、すべて私どもの説いて居る事は、推理の結栗でなくして、実験実施の報告及び結論であると思つて貰へば大差なしである。
兎に角千里眼といふ事が一番よく人口に膾炙して居るので、自分が妻に対して最初に試みたのも矢張り千里眼式のことであつた。自分が最も疑問にしたのは、それが何の辺まで確実性を有つて居るかといふ点で、事によると、鎮魂中眼裡に映ずるものが、只の幻覚ではないかといふ事を最も心配した。仍で種々考へた挙句、先づ自分は知つて居るが妻の方では知らぬ場所を選び、幾箇も幾箇も試みた。例へば安芸の宮島の鳥居、富士山の絶頂、華厳の滝、綾部の産土神社等思ひつくまま、誂へ向きのものか数限りもなく注文した。所がいくらやつて見ても妻の霊眼が決して間違はぬことを発見した。但し一回の鎮魂中に成功する数には限りがある。せいぜい五つ位しか見えない。これは守護神が疲れるのか、それとも肉体がさうは続かぬのか、何れかは知らぬが、決して一度に無尽蔵には出来るものではない。
尚自分は他にもいろいろ工夫を凝らして実験した。例へば毎日午後八時を期し、一週間に亘りて東京在住のK氏の家の内を視せたなども其一つである。或る時はK自身が書斎で読書して居る。或る時は妻君が茶の間の長火鉢の側に坐つて茶を飲んで居る。又或る時は洋服の来客があるといふ風に、K氏の家の内が手にとる様に、閉ぢたる眼裡に出現して来た。一週の後に至り、氏の覚書を引合して見たが、寸分の誤差も発見しなかつた。東京と横須賀との距離は四十哩弱で、そんなものは千里眼の実験にならんと言ふ人があるかも知れぬが、さうは言はさぬ。自分は次第に距離を延長して台湾に試み、浦塩に試み、更に欧羅巴にも試み、当時激戦中であつたヴエルダンの要塞攻撃の実況などは、手に取るやうに毎日見た。ヴエルダンの要塞につきては更に改めて後で一言せねばならぬが、兎に角優れた天眼となると。千里や二千里は愚な事、もツともツと遠距離にも利くのである。但し決して無制限には利かない。肉眼に比して驚くべく優れて居るといふ丈である。
一方に千里眼の実験をやつて居る最中、自分は或る夜不図透視の実現をやつた。自分の書斎には若狭塗りの巻莨筥があつた、中には客用の巻莨が入つて居るが、使ひ残しが何本あるかは、自分も知らず、妻も知らない。『これが恰度善い材料だ』点頭ながら自分は咄嗟に其蓋をして、そして鎮魂中の妻の前に突きつけた。
『何本入つて居るか、巻莨の数を見てください』
五六分過ぎてから鎮魂を止めて尋ねると、妻は不審さうに、しきりに首を傾けて居る。
『什うだ、筥の中が見えたか』
『何んだか変でしたよ。私の眼には白木の小筥が視えました。何うやら形はこの巻莨筥のやうにも思はれますが、木理がはつきりして居ました』
『木理がはツきり……。内は見えなかつたのか?』
『いいえ蓋がしてありました』
自分は初めて妻の天眼が、塗つてある漆を透視しただけで、木筥を通過する力が無かつたのである事に漸く気がついた。
『余り止めるのが早過ぎた。モ一度ヤリ直し!』
直に鎮魂のやり直しを命じ、今度は念入りに約三十分も霊を送つた。済んでから尋ねると、
『今度はよく見えました。十七本あるでせう』
蓋を除つて勘定して見ると果して十七本の敷島が入つて居た。
その後自分は透視の実験も何回試みたか知れぬが、正しき帰神者の透視は実に驚くべきもので、木筥や茶壺の透視などは児戯に近い。大地を透視して鉱脈を探り当て、大海を透視して魚形水雷や潜航艇の所在地を探り当て、人体を透視して疾病の箇所を探り当てる等の実例は無数にある。大本の信者の中にはモウそろそろ実験修業の時代を通り越して、実行実施の時代に到着して居るものが決して尠くはない。器械の力、推理の力も結構である。やれる丈人間は人力でやらねばならぬは勿論である。けれども人間の力には限りがある。人力で及ばぬ所は神様に御願ひするより外に致し方がない。霊覚といふのは要するに神の入智慧である。人力の不足を補充せらるる神の慈悲の援助である。それをサウも察せず、神様に対して罰当りの文句ばかり並べ、そして失敗ばかりする現代人士は利巧なやうで実は莫迦である。暗中模索といふ文句があるが、今の採鉱事業や、対潜航艇戦や、医者の病気診断などは暗中模索の絶好の見本ではあるまいか。