千里眼や透視の実験をやつて居る最中から、妻の霊眼は他の方面にもズンズン発展して行つた。実用向きには千里眼や透視も結構であるが、霊学研究上の興味ある方面は、矢張り霊魂そのもの、活神そのものと直接交渉を開くことにある。それにしても天眼通力などといふものは、古来名僧、智識、大哲、道士といへとも容易に企及し難しとしたものであるのに、何故に自分等夫妻の如き、未熟、乳臭、これといふ修業も苦労もせぬものが、易々と之を与へられたのであるか、読者はさぞ奇怪至極に思はるるであらう。実は自分達も奇怪に思つて居るのである。自分の閲歴の平凡単調なことは既に最初から述べてある通り、妻に至りては更に一層平凡であり、一層単調である。それがこの数百万年来聴いた例がなく。又世界幾億の人類が夢想だもせざる霊覚を、一朝にして体得体験せしめられるといふのは、全く以て予算外で、強て其理由を求むれば、霊魂の因縁、又は時節の賜とでもいふより外に致し方がないやうだ。他にこれぞといふ原因を発見し得ない。何れ判る時が来れば判るであらうと、成るべく暢気な態度を執ることに自分達は決めて居る。
唯だ一つ書いて置かねばならぬと思はれるのは、妻が十年も前から牛肉や豚肉が食はれなくなつて居たことだ。自分に嫁してから数年間は平気で食つて居たのに、或る時期から肉類を食ふ毎に横腹が二三日も痛み出すやうになつた。縦令それがたつた一片でも矢張り痛んだ。事によると盲腸炎の兆候かも知れぬと医者から嚇かされて、心配をしたものだが、痛むのは牛と豚とを食つた時に限り、その外の不消化物、例へば蛸や海老なら幾ら食つても痛くも痒くもならない。斯ンな訳で、自然当人も全く肉食に対する欲望をすてて了ひ、その代り菜漬や沢庵に対する欲望を逞うした。
『お前の身体は余程経済的に出来上つた身体だネ』などと自分はよくからかつたものだ。これなどは、いよいよの時に世話がやけぬやう、神様が兼ねて準備をして置いてくれたのかも知れぬと、思へば思はれぬこともない。
肉食党には気の毒だが、何うも肉類と霊覚とは両立せぬやうだ。腐敗しかけた獣の死骸に舌鼓打つといふことは、決して感情から言うても讃めたことではないやうだ。いかに欲目に見ても正しい神のなさる事でなくして、悪魔の仕業であるやうだ。現に日本の祭祀には決して獣肉を供へるといふことはない。外国の神は好きでも日本の神はお嫌ひなのであらう。医者でも気の利たのは近頃牛肉や牛乳を奨めなくなつたやうだ……。オツト余りこんなことを書き立てると牛肉屋だの、お医者さんだのから怨まれるかも知れん。柄にない食物の講釈などは止すとしよう。尤も一方で怨まれる代り、八百屋だのお百姓だのからは、頌徳表の一通位は来ないものでもない……。
話は霊覚問題に戻る。妻がそろそろ神様の御姿に接しかけたのは、自分よりは数日遅れ、最初は主に霊夢の形式によつて始まつた。夢にも種々あつて胃袋に食物が充満して居る時見る雑夢などに碌なものは無いが、霊夢となると決して莫迦にならない。これからそろそろ睡りかけるとか、又そろそろ覚めかけるとかいふ瞬間に、俄然として神のお姿を拝んだり、お告を受けたりする。その後では必ず覚醒して、見た事をはつきりと記憶するといふのが普通霊夢の形式である。蓋し全然覚醒して居る時には、人間が自己の意識で体を使つて居るから、神の方では使ひ難い。又全然熟睡して居る時には、神の方で使ひ易いが、人間が無意識であるから折角夢を見せても記憶して呉れない。結局霊夢は、半睡半醒の境界点に起されるのであらう。
真先きに妻の眼に姿を見せたのは、私の守護神であつたらしい。枕元などに坐つて種々話しかける。はツと思つて眼が覚める。後には其容貌、服装などの印象がありありと残る。
『私の守護神を見た上は、今度はお前の守護神を見るのが順序だ。夢を待つのは面倒だ。鎮魂して神様にお依みして見よう』
早速妻を鎮魂してお願ひすると、幸にもそれが許された。
『什うだ、小桜姫といふ人は美人かネ』
『エエ中々綺麗ですよ。面長の下膨れの顔だちで、年齢は二十六七にもなりませうかしら』
まるで、他に眼鏡を覗かせて其説明をきくやうな話で、審神者としては甚だ物足りないが、如何とも致し方がない。この時を手初めとして、自分は何回妻を鎮魂して、何れ丈の霊魂の姿を見せたか知れぬ。一二年の間に歴史上の主要人物は大概査べて了つた。同じ筆法で、他の守護神も査べたが、立派な守護神もあるが、時には恐ろしい顔の白狐が見えたり、安つぽい豆狸が見えたり……。これは審神者としては決して漏らしてならぬ天機の秘密である。
ただこれ丈読む人は、必ず其荒唐無稽なのに呆れるであらうが、事実は如何とも為難い。霊魂不滅といふことは、由来世間の常套語となつて居るが、さて如何なる状態を以て不滅なるかが不明であつた。所が自分の千百の実験によれば、総ての霊魂は生前の姿を保持して、そして滅びずに残るのである。歴史上の人物では、旧過ぎて査べるのに困るが、死後五年か十年位の霊魂なら、直に試験される。幻覚なら生前の姿と似ぬ筈だが、一々的確に似る以上は、霊魂の形態につきて、一点疑義を挿むの余地はあるまい。現に霊魂をモデルとして描きあげた肖像画があるが、生前の姿にそつくりだ。