一方に宮沢君や上村君の神憑現象が起つて騒いで居る間に、他方に於ては甚だ穏かな、真面目な、着実な研究が進行して居た。大本の修業は中々複雑多様だ、一と筋縄には行かない。荒魂の発動もあれば、和魂の練習もあり、又奇魂や幸魂の稽古もある。其一端を覗いてこれが其全豹であると考へると途方もない見当違ひをやる。神界の組織なり、経綸なり、威力なりは、何所まで行つても人間小智の到底奥の奥まで究め得る限りでない。イヤ人間はうつかり調子に乗りて慢心などにせぬに限る。
自分の修業の初期に当りて、神様は幾多の研究材料を家庭の内部に於ても与へてくれた。其中から記憶に残るものを一つ二つ選び出して書て置かねばならぬと思ふ。
五月の半頃であつたと思ふ。ある日例によりて午後三時半頃役所から帰つて来ると、妻は心配さうに早速相談を持ち込んで来た。二男の新樹が昼飯の時に鯛の骨を咽に突き立てて、夫が中々除れぬといふのであつた。自分は無造作に、『飯を鵜呑にすれば可いぢやないか』
『モウ御飯は幾度も鵜呑にさせました。それでも奥の方に深く刺さつて居りますので什うしても除れません』
『指を突き込んで見たらよからう』
『とても駄目で厶います。仕方がないから、これから病院へ伴れて行かうかと思ひます』
洋服を着換へ乍ら、自分は不図考へた。まだ鎮魂を病気治療に使つて見ないが。これしきの事が出来ないなら鎮魂も詰まらんものだ。什うすればよいのか、生憎其方式を習つて居ないが、一つ自己流で神様にお頼みして見よう』
新樹を呼ぶと早速やつて来た。咽喉が痛いと云うと頻に唾ばかり飲んで居る。型の如く子供を坐らせて、親爺の審神者先生も同じく座を占め、さて瞑目して、神様に祈願を籠めた。
『子供が鯛の骨を咽喉に立てて飯を鵜呑にさせましたが、什うしても除れません。万望御神力で除つて戴きます。腹に入つても差支がないものならば腹に落ちますやう、若し又嚥み込んで悪いものなら外に出して戴きますやう』
今から考へて見ても随分勝手な注文を並べたものだ。それから総身に力を籠めて、一所懸命に霊を送つた。子供の方では二分と経たぬ中に、身体がフラフラして頻りに船を漕ぎ出した。最初は時々唾を嚥み込む様子が見えたが、やがてそれも止んで、いかにも呑気に、気持がよささうな様子。
ものの十五分も過ぎた頃には、自分も可なり疲れたので、魚の骨が除れたかどうかは判らぬが、一と先づ鎮魂を切りあげる事にして、ポンポンと手を拍く。子供はケロリとして眼を開けて、眩しさうにして居る。自信のない、新参の審神者は頗る心配だ。
『什うだ除れたか』
『夙ツくに除れて了つた。早くさう言はうかと思つて居たが、お父さまがやつて居るから、僕悪いと思つて、黙つて居た』
『除れたのなら早く云へば可いのに』
と口では言つたが、内心は神力の不可思議なるに今更乍ら仰天したのであつた。子供の述べる所によると、鎮魂を始めてから約五分許り過ぎたと思はれる時、円い球のやうなものが魚の骨の上に現れ、それがぐつと押し込んでしまつたといふのであつた。これなどは真に家庭の一些事、其後この種の実験には数限りもなく出会し、従つて碌々記憶にも上らぬのが多いが、ただ審神者として鎮魂を病気に用ひた最初の実験だけに、はつきり頭に残つて居る。おそらく終生記憶から消ゆる事はあるまいと思ふ。
子供の話があつてから二三日過ぎると。寝鎮つた夜半頃只ならぬ呻き声に、自分も妻も驚いて眼を覚ました。やがて其呻き声の主は下女であることが判つた。
起きて行つて見ると。下女は猛烈な腹部の痙攣を起して、半身畳に転がり出して、七転八倒して苦しんで居る。
『何うか、余程痛いのか』
『エ……』
碌に返事も出来ない位、何は兎もあれ、この真夜中に困つたものだと一時は当惑したのであつた。
『誰か病院へ行かねばならないが、今頃来て呉れるかしら……』
多年の習慣、病気といへば直に先づ思ひ出すのは医者と薬だ。これと同様に、日常生活の間に現代人の事毎に先づ思ひ出すものは金銭、着物、立派な家、女、名誉、生命……。よくよく物質感れがしたものだ。
が、たつた一回でも鎮魂で魚の骨を抜いた経験がある有難さ、自分は急に医者を呼ぶことを思ひとどまり、下女の枕元に坐つて、鎮魂の姿勢を取つた。そしてウムと一声力を籠めて霊をかけると、今迄呻りつづけて居た病人が急に呻きをとめた。引き続いて両三回霊をかけると、忽ちにこにこ笑つて起き上つて了つた。
『什うした、癒つたのか』
『ハイお蔭さまですつかり……』
まるで嘘のやうな話だが、事実だから仕方がない。此麼事で一つ一つ自分の確信は築かれて行つたのであつた。