今日から回顧すると、五月から六月に亘りての五十余日は、自分を現実世界から神霊世界に方向転換をさせる為めの荒療治時代であつたと思ふ。この間神憑現象が日夜に起り、之に伴ひては深き研究的良心の満足も得られたが、失敗に対する苦心痛慮も一と通りでない。幾度か誤解の苦しみも味はひ、非難攻撃の辛さも嘗め、生れて初めて真剣な気分になつて来た。それまでは七時間も八時間も睡眠を貪り、寝坊の大将を以て任じて居たのだが、モウ五時間以上は眠らなくなつた──といふよりも、眠るべき閑暇を与へられなくなつた。年来土曜日曜にかけて、欠かしたことのなかつた散歩遠足も厭になり、三四年来稽古して居た謡曲も、頓と手につかなくなつた。イヤ謡曲といへば、一週に一度やつて来る謡曲の先生をつかまへて、謡曲の稽古はそつちのけに鎮魂をしてやつた。二三回やつてる中に霊が発動し、何誰かときいたら『……にて候』と謡曲がかりで言葉を切つたなどといふ珍談もあつた。
自分が十年許り以前から従事して居た、英和辞書編纂の事業を打棄てたのもこの時であつた。数人の助手を使つて少からぬ時日と労力とを費し、その九分通りを完成して居たが、新に起つた霊的問題と世の立替立直しの前には、いかにも此仕事の影が薄く見えて、今更ペンを執る気がしなくなつた。『惜いけれども仕方がない』といふのが、当時の気分であつたやうに思ふ。今日では惜いとさへも思はない。ただ『あんな事をさせられたこともあつた』と折にふれて想ひ出す位のものである。
役所では、昼餐後同僚と喫煙室に陣取り、莨を輪に吹き乍ら愚談をやるのが得意であつたが、それもこの頃から出来ない気分になつて了つた。そんな事は余りに無意義で、莫迦らしくて、とても堪へられない。単身校庭へ出て海を眺めながら瞑想に耽るか、又は宮沢君でも捉へて神霊問題なりと論ぜねば気が済まなくなつてしまつた。
自分の食物上の嗜好に一大変化を呈して来たのも確か五月の半ば過ぎであつたと思ふ。機関学校では昼餐に洋食ときまつて居た。パンにバタ、スープの外に二皿づつ持つて来るといふのが十数年来の献立であつた。別に上等な料理ではないが、又格別不味くもない。先づ役所の昼飯としては良好の部類であつた。ところが四月の末に鎮魂をやり出した頃から什うしたものか此洋食が妙に鼻につき出した。バタが臭くて耐らず、牛肉などは更に味がない。まるで襤褸屑でも噛むやうに感じられて来た。最初一週間ほどは忍耐してナイフやフオークを動かして居たが、いつしか半分食つて止め、それが四半分に減り、後にはパン丈はムシヤムシヤ囓つて、肉類には手を触れずに済ますことに成つた。
しかし数十年来注ぎこまれた衛生思想は容易に脱けるものでない。野菜が日本人の正食で、自分が今其正食に復帰しつつあるのだとは夢にも思はなかつた。『どうも横須賀の肉は品が悪くなつたに相違ない。それで斯う不味いのだらう』丁度その時分、自分は要件があつて、日帰りで上京した。日暮に新橋まで戻つて来たが、汽車の出るのに約一時間ほどある。
『近頃役所の肉が不味くていけない。その腹癒せに今日は一ツ東京の甘い牛肉を食つてやらう』と銀座の松喜牛肉店に飛び込んだものだ。
余り時間が無いので、急いでロース二人前と酒と飯とを同時に命じ、二階の一室に陣取つた。近所隣りには多勢の来客があわて、頻にグツグツ肉を煮て居る。当り前ならば余程善い香であるべき筈だのに、今日は什ういふものか、それがイヤに臭くて胸持がわるい。
二三杯漬物で酒を飲んで居る中に、自分の所の肉も煮え出した。いよいよ臭気が猛烈になつて、気持のわるい事夥しい。とても箸をつける所の話でない。他の来客がパクついて居るのを見てさへ堪へられない位。
『こりや矢張り牛肉といふものは不味いものなのだ。横須賀の肉ばかりが悪いのではないやうだ』
たうとう漬物で飯を食ひ、肉には箸を付けずに逃出して了つた。これが自分と牛肉との縁の切れ目であつた。『大本では肉類を禁ずるさうで』などと、よく人が半ば嘲笑的に質問する。それは嘘で大本では決して肉を食ふなとは言はぬ。言うた所が無効であることを知つて居るからだ。しかし大本の修業に入り、鎮魂でも受けると、幾許もなくして肉は食べられなくなる。自分の銀座に於ける失敗談の如きも、多くの実例中の一つに過ぎない。