自分は自暴自棄的勇気を奮ひ起した。
『これほど理義を尽しても、飽まで暴力に訴へるといふなら致し方がない。拙者も暴力で応戦する!』
眼を瞑つて、自分の方から機先を制して全身衝突を試みた。
意外々々! 到底頭に瘤の一つ二つは免れぬものと覚悟を決めたに反し、宮沢君の肉体が、すつと一間ばかり後方に跳び退いたではないか。
『オヤツ!』
自分は思はず先方の迅いのと、弱いのとに驚いた。
『斯うなればモウ占めたものだ。今迄散々油を絞られたから、今度は反対に油を絞つてやらう』
自分は勇気百倍し、それから約一時間に亘りて質問に次ぐに質問を以てし、追窮の上に追窮を試み、存分に先方をやりこめた。そして武甕槌命とは詐りで、実はこれから神界に奉仕せんとする天狗であること、予言の如きも止むを得ず出鱈目を述べた丈けのもので、決して悪意あつて為たのではないこと。その他いろいろのことを自白させた。自分は天狗さんに対つて次ぎのやうなことを言つたやうに記憶する。『あなたは私に取りて大恩人である。お蔭で幽界の事情やら、神と人との関係やら、神力の不可思議なことやら、其他いろいろの事が判りました。その恩義は何物にもかへられない。しかし乍ら恩義の為めに其罪過を黙視する訳にはまゐりませぬ、就中人間が幽界の事情の暗きに乗じ、嘘を教ふることが最も悪い。今後は決して左様の過誤に陥らぬやう希望する。』
又こんなことも述べたやうだ。
『宮沢氏の両親其他はまだ機縁が熟せず、皇道大本の信仰に入るには時節が早過ぎる。それをあなたがいかに無理にあせつても駄目だ。時節が到来するまで固く隠忍自重し、今後は断じて言葉を切るやうな事のないのを希望する。』
最初の権幕のいかにも畏ろしかつたのに反して、天狗さんは段々悄気て了ひ、自分の言ふなり次第に、黙々として謹慎の態度を執るのを見ては、いささか気の毒の感を催さぬでもなかつた。いよいよ鎮魂を終つた時に、宮沢君の全身は汗でびしよびしよになり、それがセルの夏洋服の上まで盛んに浸み出して居た。
此時を境として宮沢君は強烈なる意志を振ひ起して、天狗の霊の発動を抑へつけて了ひ、五年後の今日でも尚依然として海軍機関学校の教官を勤めて居る。しかし其活きたる実験体得から入つた信仰は、一分一厘も揺ぐことなく、時々恋しくなると綾部へ来て、三日四日位自分の所に泊つて行く。何れ時節の到来と共に、家族を率ゐて真信仰に入るのは、余り遠い将来ではなからうと確信する。
兎に角宮沢君及び同君に憑依せる天狗さんのお蔭で、自分は審神者として貴重なる経験修業を積むことが出来、就中最後の一幕は、自分に何よりも深き感動を与へた。之によりて自分が悟り得た要点を、掻いつまんで述ぶれば、大要次ぎのやうなことだと思ふ。即ち
一、神憑者の言は決して軽々しく信用してはならぬ事。
一、大概の守護神の予言は幽界の風説に過ぎざるもの多く、決して之に盲従し又世間に吹聴すべからざる事、
一、審神者の役目は神聖にして貴重、いかなる神々をも審判すべき特権を保有する事。
一、審神者の権能を執行する上に於ては、何等の危害を顧慮するの要なく、断々乎として之に当るべき事。
一、審神者としては最も健全なる常識を養ひ、正邪善悪の判断を誤りてはならぬ事。
一、信仰の道は他人に対して常に最も寛容なるべく、決して自己を以て他を律し、他を強ふることあるべからざる事。
他にも数へ立つればまだ沢山あると思ふが、今はしばらく略して置く。何れにしても自分に取りて、此五十余日は実に有意義な期間であつて、審神者として、いささか自得する所があつたやうに思ふ。少くも其後は大概の事に遭遇しても、余り吃驚だけはしなくなつた。