五月も暮れ、六月も半ばに近づいた時には、何がさて気になつて耐らないのは、ヴエルダン要塞戦の結果であつた。新聞電報は幾度かその危機を伝へたが、仏軍の善戦苦闘により容易に落ちない。天狗さんの予言した六月十六日陥落説が、だんだん怪しくなつて来た。
自分は或る程度まで天狗さんの言を信じて、ヴエルダン陥落説を同僚にも、兄にも、其他二三の人にも漏した。若し之が外れやうものなら、自分の不明の誹はかまはぬにしても、神憑りそのものの信用にかかはり、引いて皇道大本の迷惑になるかも知れぬ。何れにしても厄介な事になつたと思つた。
『ああ予言めきたる事は絶対に避くべきである。素性の知れぬ神憑者が何を言はうと、決してそれを外間に漏らすべきではない』
とつくづく衷心から感じたのであつた。
さうする中に十六日が来た。いかに新聞を捜しても陥落の電報はない。十七日も来、十八日も来、たうとう二十日になつても陥落した模様はない。
『いよいよあの予言は嘘だ』
と思ふと、自分の胸には慚愧、憤怒、悔恨、落胆、その他種々雑多の感情が渦巻をなして入り乱れた。最後に自分は宮沢君を鎮魂し、そしてあの守護神を発動せしめて、大々的詰問をなすべく決心の臍を固めた。
『縦令何事があつても今度は承知出来ん。不都合極まる偽神だ!』
丁度この時に例の飯森機関中佐と福島久子さんとが、又も二人連れ立ちて機関学校へひよツくりやつて来た。委細の話をすると、二人とも宮沢氏に憑れる神が武甕槌命とは真紅な詐り、天狗か何ぞに相違ないといふ鑑定であつた。そして先づ福島久子さんが、一度鎮魂して見たいと言つて、宮沢氏を自宅へ連れて行つたのは、たしか六月二十一日の午後二時であつた。自分は授業の都合で、尚一時間ばかり学校に居残つた。
何にしろ福島対宮沢の鎮魂が気にかかるので、急いで帰宅して見ると、離座敷では既に鎮魂が開始されて居た。見れば宮沢君は立ちあがつて福島さんに突撃する。福島さんも負てばかりは居ない。同じく神懸り状態になつて、武者ぶるひして応戦する。両方の額と額とがかつちり合つて、中腰になつて押しツくらをするといふ、物騒千万な、飛んでもない鎮魂。
自分は急ぎ和服に着換へ、直に離座敷に飛んで行つた。いささか騒ぐ胸を押し鎮め、ウンと下腹部に力を籠めて鎮魂の姿勢を取り、先づ神明に祈願を籠めた上で
『拙者がこれから審神者を致す。福島さんはしばらくお控へくだされい』
自分ながら可笑しい程言葉が改まる。二人の身体はさツと左右に引き別れた。
『それならば審神者は貴下にお譲り致します』と、福島さんは、そのまま、つと傍に寄る。今迄福島さんに向つて居た宮沢君は、直に方面をかへて自分に向つて来たが、イヤ其権幕!
ギラギラ光る両眼、逆立つた頭髪、満面に朱を濺ぎ、気息をはづませ、握り固めた両手を前に突き出し、ジリジリと自分に詰め寄せて来る。気のせゐか日頃の宮沢君の身体の、二倍大、三倍大にも見える。
不意の出来事ではあるし、生れて初めての経験ではあるし、自分は内心少からず驚いた。逃げ出したいやうな気がせぬでもなかつたが、爰ぞと漸く勇気を取り直し、表面には出来るだけ平気を装うて、
『何誰であるか、神の御名を伺ひます』
平生ならば直ちに『武甕槌命』と名告るべき筈であるのに、形勢非なりと見て取つたか、何とも返事をせぬ。黙つてジリジリと詰寄せる。自分は少しく声を高めて、
『審神者が御名前を請求するにも係らず、御返事のなきは其意を得ぬ。審神者は神に向つてお名告を要求する権能があり、神は審神者に向つて御名を答ふべき義務がある。早々御名を伺ひたい』
依然として先方は返事をせすに、益々詰め寄せるばかりだ。モー其握つた拳は、自分の胸を距ること一尺許に過ぎない。自分の方は坐つて居るのに引かへ、先方は中腰で圧迫し来るのであるから、若しも胸か顔かを突き飛ばされた日には、一とたまりもなく転げて了ふ。
『酷い事をする。大丈夫かしらん……』胸の一方には斯ンな弱い気が起らんでもないが、他方には又『何に糞ツ』といふ痩我慢もムラムラと首を擡げる。兎に角自分は気を落着けて凝手と先方の眼を睨みつけた。
暫時は睨めつくらをして居たものの、ドウも果てしがない。自分は声を励まして、
『御返事なきは余りに無法と存ずる。しかのみならす、あなたの其態度は何でムるか。いやしくも神ともあらうものが、車夫馬丁に似たる腕力沙汰に出づるとは以ての外の振舞、拙者はあなたが果して武甕槌命であるや否やを大いに疑ひます。現にあなたは六月十六日を以てヴエルダンの要塞陥落を予言されたが、見事失敗して居るてはムらぬか。さア包まずお名告りください、さアさア』
今迄一尺ばかり離れて居つた拳が、更に一二寸の所に迫る。宮沢君の総身にはハチ切れんばかり力が籠つて居る。いよいよ危機は切迫した。