【出席者】
出口王仁三郎聖師
本誌側……出口宇知麿、出口三千麿、岩田久太郎、桜井八洲雄、成瀬言彦、神本泰昭、芦田満、大崎勝夫、鴛海正治、鈴木新太郎、村松なを
速記者……井上照月
出口氏 『ホウ、沢山来ているの。ハヽワシはここか』(と椅子に腰を下ろされて)
出口氏 『寒うなったの……足がまだ癒らんで困るわ』
神本 『それでは只今から「物を尋ねる会」を開かして頂きます。
今度「昭和」一月号を挙国更生号としたいと思っております。この秋から挙国更生運動を全国的に行うという事になっております。つきましてはこれらの指導に任ぜられる本部の主な方々に於かれても十分、挙国更生の真意義を会得しておいて頂く必要があるので、今夕は「昭和」誌の編輯責任者と挙国更生運動の指導者の方々に集まって頂いて、総裁を囲んで御教示を仰ぎ速記録を「昭和」誌に発表し、読者の羅針盤とし全同胞八千万の灯台とも致したいと思っております、挙国更生と申しますれば随分その範囲が広汎でありますので、各部門に分けて御話をお願いしたいと存じます。なお、時間が許しましたならば、その他の事柄に対しても御教示を仰ぎたいと考えております。
政治、宗教、思想、経済、教育、法律、軍事(陸、海、空)国防、衛生、或いは言語等、色々な方面について皆様の御伺いしたいと思っていられます事を、忌憚なく聴いて頂いて、それに対して、総裁の御解説を頂きたいと存じます。どうかよろしく御願い致します』
出口氏 『挙国更生という事は今度初めていうけれども、大本の御筆先にあるように、明治二十五年から更生運動が始まって居る。それで、政治、宗教、教育、芸術一切の立替ヘ立直しを、明治二十五年の旧正月から神様が叫ばれて居る。
で、この更生という事は更に生まれる、新しく生まれる、新しく生きる、改めて生きるなどの意味である。また生活を改める、変更の更であって、今までの一切の誤っている、矛盾したところの事を根本的に元へ、本当に惟神の道へ戻して生かすというのが更生運動であって、今までの宗教は一切この自己の事ばかりを説き、また、たまには蛍火のような光を放って社会的の事業も義務的にやっているけれども、これは世間で色々坊主の生ぐさとか何とか言われるのを避ける為に、世間の耳目を糊塗するくらいのものであって、真剣な活動をやっていない。宗教にもたまには国体を説いているのもあるが、これはただ規則の上、教規の上において書いてあるだけで、その実、その主脳者に国体のなんたるかを知らぬ者が大部分である。××教や××教、××教、××教の如きは国家観念というものは少しもない。
それは表面では少しくらい言っているのもあるが、本当に信徒に向かって説いている所は、ただ下手な倫理学に神様をそこへもって行って煉薬を拵えて教えを説いているだけで、その中には仏教の説もあり、基督教の説もあり、儒教の説も入っているというのであって、誠心誠意、神の道を説いているものは一つもない。どうしても日本の皇道、いわゆる神道は宇宙に瀰漫しているところの道を説くものである。それ故に皇道ともいう。皇道は統ベる道である。
この根本の教えというものは明治維新後、神道宗教が出来、色々と当局者もやって来たけれども、本当の精神を失ってしまって今日のような腐敗、堕落した世の中になってしまったのである。それが為に経済も行き詰まり、政治も行き詰まり、教育も行き詰まり、芸術も行き詰まり、一切のものが行き詰まって、ちょうど御筆先にある「石で手をつめた」というように行きも戻りもならぬというようになっている。
これは何であるかと言えば、矢張り日本皇国の道を忘れて、極浅薄な上皮ばかりの伏見人形のような、表向きは立派で裏に回ると素焼の土がそのままである。こういうような見掛け倒しの香具師ばかりに幻惑されてやって来たが為に、こういう時代を招致したのである。これは神様が前もってそういう事は御存じである。明治二十五年頃には腐敗したとは云え、日本魂も今より余程しっかりしており、生活状態も質素であり、政治も緊張しており、宗教も謹慎して道を説いておったのである。けれどもその時代に今日の事を先達をして言われたのであるから、その明治二十五年頃に更生するのではなくて、御筆先は明治二十五年に書いてあるが、今日の状態が書いてあるのだから、ちょうど今日から更生すればよい時期である。
更生運動をやる事は、これは一々政治がこうである、宗教がどうであると細かくはいう訳に行かんけれども、今日の状態を見れば大抵分かっている。一切万事、全部更生して行けばよい。みんな誤っているという事だけは確かである。今、更生運動をやるという事は、政府の仕事に関する事や、また時期の事やらあって、あまり今から言って、その筋の御機嫌を損なうような事も出来て来るから、その事は言えないが、第一、金銀為本の政策という事がこの世の中に災いしている。
日本の国は──外国は日本のような万世一系の天立君主がないが為に勢いを得ば君となり、或いは主権者になるが、勢いを失えば奴となり、家来となる。或いは殺されてしまったりする。そういうようなほとんど畜類に等しき政体をもっている国であるから、どうしても、金とか銀というような形のものがなければ皆承知しない。けれども我が国は万世一系の神様直々の御系統の陛下が居られるのであるから、これより世の中に尊いものはない。神様が世界で一番尊い。その御系統であり、直系であるから陛下より尊いものは他にない。その陛下の御稜威というものを元としてやって行ったならば、日本の国は総てが──経済なんか心配はいらない。明治維新の時に兵馬の権を陛下に国民が奉って、いよいよ日本の国は強くなって来たのである。
けれども戦争を起こそうと思えば第一、金が必要である。この経済の全権を陛下にお返しせなんだという事が今日の災いをなしている。日本銀行でも、陛下の銀行であれば外国に色々な事を言って内兜を見られなくても、自由自在に国運の発展が陛下の御名により御稜威によって出来るのである。それでこれについては私も三十年間叫んで来たけれども、その時代の当局の忌諱に触れたりなんかして、はっきりと書く事が出来なかったが、矢張り今日はそこまで更生せなくては、日本の国の皇祖皇宗の御遺訓通り、隆々として大八洲の国を安国と平らけく治める事が出来なくなっているのである。
先ず一番がけに更生すべきものは経済の根本更生である。経済が豊かでなかったならば、宗教が何ほどあっても、これを聞く所に行かない。それだけの余裕がないのである。
だから人心はますます悪くなって来る。政治家も経済の為に精神が悪くなり、悪化して来るのである。経済の根本を誤って居るが為に、芸術家も心が卑くなって、本当の芸術品が出来ない。第一自分の生活問題が頭に入っているから、昔のように名作は出来ない。絵を書いても、彫刻をしても、何をしても、それは経済を度外視して、趣味一方でやる事が出来なくなっているから、ろくなものが出来ない。
その他農業で言えば──今までの農業というものは日本人の戸数の少ない時で、地面の沢山ある時の、何百年、何千年前からの、農業を踏襲して、年に一回で差し支えなかったが、今日の人口がこれだけ殖えて来ている。人口が殖えて、かえって不毛の土地が沢山出来る。家を余計建てて行けば、そこに物が出来なくなる。そして食うものは余計必要が起こって来る。
これはどうしてもそのままにしておったならばいかんから、矢張り二度作をやる。一年に二度取る、三度取るという事を考えねばならぬ。陸地に稲が出来なかったのも、これは陸地に稲を作るように水田と同じように作ったならば、山や畑に稲が出来るようになって来る。更生といっても日本は農が国家の大本であるから農業から更生せねばいかん。
で、農は国家の大本であると共に、皇室が国家の大本であるのである。何故かと言えば大甞会の時にも、天皇自ら稲をお作り遊ばされる。皇后陛下は蚕を飼って、機を織られる。これは農業の型を示されたのである。天照皇大神以来、農業を以て国を建てられたのである。農は国家の大本という事は、皇室の大本であるという事である。農業というのは皇祖皇宗が教えられて、皇室に伝わっているところのものである。農業がなかったならば日本の国民及び世界の国民は一日も命を保つ事が出来ぬ。
それから、今日は生活費が沢山要るというけれども、これは自分らの若い時分からいうと、非常に贅沢になっている、百姓というものは働いても働いても麦飯が──麦飯だぞ、──食えなかった。現今では一日が十銭くらいにもならない。ワシらの子供時分には一年を平均すると一日に八厘くらいしかならなかった。それでも大根の葉を入れたり、赤葉を入れたり草も混ぜて食い、食えるものは木の葉も食って、そこに麦飯を入れてやっと百姓が生命を保っていた。それでもウンともグウとも言わず、それが為にまた死ぬ者もなく、痩せ衰える者もなかった。
今日は世の中が文明のお蔭で非常に結構になって、そんな事はせなくてもよいけれども、もう少し生活費の倹約という事を考え実行する事が、これが第一更生だと思う。農家を更生させるには取り入れの事を考える事も大切だが、冗費を省くという事が非常に大切である。一方には収穫を多くする事、一方には冗費を省く事を考えたならば、農村の更生は数年の間には幾分かよい方に向かうと思う。個人の家で言っても、貧乏になるのと金持ちになるのとの境はどこにあるかと言えば、ただ一日の事である。明日働く金で今日食う人は貧乏である。昨日働いて得たものを、今日食う人が金持ちである。それだけで金の延びる者と延びないものが出来る。
働かん先に明日働くものを今日食うのは、これは貧乏になる分水嶺である。昨日働いたのを今日食うのが、これが金持ちになる分水嶺である。なんでもない。ちょっとの心得ようで、どうでもなって来ると思う。この更生運動もそういう小さい所にあると思う』
鴛海 『政治のところで御話を承りたいのですが、今日の金融資本家を背景にする独裁政治が天皇親裁政治に移る過程──移り方はどんな風になるのでしょうか』
出口氏 『そんな事はチョット言えんわい。これは手のひらがかえると言っておけばよいな。お筆先にも「手のひらがかえる」と書いてある。これは雨か風か、さもなければ地震かじゃ。それで出て来んと解らない。人間の頭が鈍重になっているから、びっくりする事が出来て来ると、変わって来る。「ひっくりかえる」という事は「びっくりかえる」という事である。だからびっくりする事が出来なければならない。しかしな、ある時代には資本家も必要があるのである。これはいよいよ今から金が要るという時に、あっちこっちの零細な金を集めているという事は出来ない。そこで固まったのを資本家から出さして仕事が出来る(笑声)一所に集めておくという事は、今日のような過渡時代に於ける神界の経綸だろうと思う。にわかに間に合わんからな。皆が同じようにもっていて「お前もこれだけ出せ、そしてお前の方もこれだけ」……というのだったら手間が取れてかなわんからな』
神本 『日本の宗教の更生という事について、先ほど皇道──惟神の大道という事について御話し下さいまして判らして頂きましたが、少し気持ちが小さいのかも知れませんが、日本ではもう外から伝わって来た教えは、日本人には要らぬと、この頃強く感じますが、どんなものでございましょうか』
出口氏 『それはな、国家意識のない宗教は自然消滅しなければならぬ。今に神の政治になってくるから、これは自然に自滅して来る、国家意識のないものは人間が相手にしなくなる。皆が更生すればそうなって来るが、しかしそれをやっつけてしまうのはいけない。一人あればみんなついて来る。大本も今は沢山いるが、元は教祖さん一人だったからな。一人がやかましく叫ばれた事が、こうなって来るのだから、矢張りこれは一人でもよいが、これだけの団体が出来て、それが叫ぶという事は大変な力である、大変な効力がある事だと思う。愛善会を唱導しておって、あまり他の宗教がどうだとか、こうだとか言えないけれども、国家意識のない宗教は総て何教によらず、日本においては成立しない。自滅する事はきまっていると信ずる』
神本 『この頃大変日本人自身が目覚めて来たと共に、他の宗教を信じていると、その国には矢張り頭が上がらんというような事がありまして、すこぶる不都合な事が多いようで……』
出口氏 『矢張りしかし、人類愛の上から見ても、世界に対するいわゆる人類愛と、国家に対する愛と、郷里に対する愛と、家族に対する愛と、個人に対する愛というように、段々小さくなって来る。日本国民としては国家に対する愛が必要であり、また広汎的に言えば世界一般の人間に対する愛が必要である。焦眉の急を要する問題として一番どれが主であるかと言えば、自分の祖先の墳墓の国である。これを愛するのが一番急務であり、大切な事であると思う』
神本 『吾々としてはこんな気持ちをもっていいかと思いますが……。世界宗教聯合会も出来ていまして、日本人としては他の宗教を指導してやらねばならぬ立場にあるから、その指導する必要上、他の宗教はなくてもいいと思いますが……』
出口氏 『国家意識のある宗教というものは知識階級──魂の向上した人でないと分からん。牛に米ばかり食わしたら腹を壊して死んでしまう、馬には馬の食物があり、猫に猫の食物があり、人間には人間の食物がある。ちょうど霊魂の食物というものがそれと同じで、米を食う人種には米が必要であり始終麦ばかり食わされたり、野菜ばかり食わされておれば、たとえ瑞穂の国の日本人でも、にわかに米を食うと腹が下ったり脚気になったりする。それはそうした生活になれきっておるからそんな結果が起こるのである。
雪隠虫は糞壷の中に住んでおって、それに安心し、満足している、それをあんな臭い所に置いておくのは可愛想だと言うので、米の中に雪隠虫を入れてやっても直ぐに死んでしまう。天国にも第一、第二、第三の段階がある如く、身魂相応である。矢張り人間の霊魂にも階級があり、信仰の程度にも階級があって、にわかにそんな事をしても死んでしまう。それはその宗教で安心しており、それを信じておって成仏するから。今も言ったように雪隠虫から糞を取ってしまうと死んでしまうのだから、糞でもなんでもよいから人類愛の上から助けてやらねばならぬ』
鴛海 『近頃ギャングとか五・一五事件というようなものが頻々として起こり、将来も起こると思いますが、こういう風に帝国の治安が乱れてから、これに対しては独裁政治というものは発展する見込みがあると思いますが』
出口氏 『これは仁者──勇智愛信の揃った英雄が出て来たら独裁政治でよい。が、しかし、おかしな者が出て来て独裁政治をやろうものならたまらない。なおひどい事になる。殷の紂王というような具合になって来るとな。それに日本は陛下の独裁政治であるから、その他の中途半端のやつが色々な事をやっているけれども、元に返しさえすれば独裁政治になる。
たとえば議会の開会式に「朕ハ国務大臣ヲシテ××××ノ事ヲ提出セシム、爾等慎重ニ審議シ朕ノ意ニ具ヘヨ」とこういう御詔勅を賜わっているのに、多数決によって否決するような不臣行為がある。これが正に違勅である。これだけ乱れているのである。
神代の議会は今の議会と違って主権者が色々な問題を出される。「これをこうせい、あれをどうしてくれ」だけである。それをどうしたら最善の方法でよく出来るかという事を審議するのである。今日のは根本から間違っている。それをひっくりかえしている。これは非常にワシはある意味においては──法律はどうか知らんけれども──違勅になると思う。
兎も角、日本の国は実際言ったら天立君主の国であり、陛下の知食す国であり、独裁の国であるけれども、ああいう西洋の風が入って来てこんな状態が現出したのである。憲法においても陛下の御意志に叛いた決議をする時は直ちに解散という罰を喰らう事がある。解散を喰らうのは陛下の御怒りに触れた事になっている。それだから皆が更生したらよい。本当の日本に帰ったらよいのである』
神本 『御筆先に「今のようなやり方を続けていたならば、先には警察のいう事まで聞く者は一人もない」という事が出ておりますが、あれは法律の改正という事に解していいでしょうか?』
出口氏 『何もかも立て替える、法律も変えると書いてある』
神本 『法律の一番理想的なものはどういう風になればよいのでしょうか』
出口氏 『それはな──兎も角、日本は徳治国であるのに、法治国にしておるから。──あまり法律による国は治まらない。三ケ条の法律で思うように治めるようにならなければならぬ。昔の法律は三種の神器が法律であった。玉は陛下で、悪い者は剣をもって打ち懲らす。また弱い者は剣で守ってやる。そうして鏡の如く綺麗な心になれ。──これが法律であった。この三種の神器が法律であった。それが今では色々な法律をつくり、その法律をまた潜る者が出て来るから、また新たな法律が出来るというような具合で、今日のような尨大なものが出来上がったのである。
これはどこから来るかというと、教育が悪い、国体教育がしてないから。それから神という事の観念がないからだ。法律を作らんでも、各々に徳義を重んじて、天を畏れ陛下を尊ぶようになって来たならば、こんな法律は要らない。そうすれば皆が各々愛善の心になって来る。人間は誰でも生まれながらに愛善心や善良なる心をもっている。猫でも黙って鰹節を盗んだ時には逃げよる。鼠を取って来ると家の手柄をしたというので、大きな顔をして家人の前へ持って来て褒めて貰って食いよる、あんな動物でさえも善悪の区別はよく知っている。
法律というものは道徳の最低率を制限したものである、法律の中には善を勧めるという事は一つもない。こういう法律であったならばいけない。徳教の入った法律でなければ駄目だ。どうしてもそういう風に変えねばいかん』
(以下次号)