霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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生いたちの記

インフォメーション
題名:生いたちの記 著者:出口王仁三郎
ページ:15 目次メモ:
概要:生まれてから故郷の穴太で過ごした28年間(満)の思い出。 備考: タグ:故郷乃弐拾八年 故郷乃二十八年 故郷の二十八年 データ凡例:小見出しは底本(出口王仁三郎著作集)の編者が付けたもの。/底本で脱字を補った《》の記号は霊界物語ネットでは〈〉に変えた。 データ最終更新日:2023-09-22 14:19:49 OBC :B195305c103
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正10年2月1日号(第134号)【出口王仁三郎執筆】 > 故郷乃二十八年
執筆の理由
大正九年十二月二十六日
 
 大神様の御神諭に、「第一に変性男子の御魂が現われて、次に変性女子の身魂が現われ、次に禁闕要(きんかつかね)の大神が現われるぞよ。男子と女子との御魂が天晴れ世界に現われん事には、三千年余りての神の経綸(しぐみ)が成就いたさんから、早く之を新聞で世界へ知らして呉れよ」と、書き示されてある。王仁は、弥々(いよいよ)神示を実行する時機の到来せしものと思うたから、本月の「神霊界」から、変性女子の因縁を赤裸々に表示する事に為たのである。王仁の別名を、神様から「瑞月」と附けて下さったので、有り難く御請けして、今月より「瑞月」と云う号で執筆する事に為たのである。
 
 
 神理の蘊奥(うんのう)を極め、至善・至美・至真の皇道を宣揚し、天下万民をして神皇の徳沢(とくたく)に浴せしめんが為に、千辛万苦して、皇道大本を天下に拡充するに到った事は、決して人間の努力のみで無い。又如何に智識が万人に卓絶して居っても、如何に忍耐力が強くても、如何に勇気が有っても、今日の治教皇道大本の勢力を造る事は、到底出来るもので無いのだ。昔から聖人・君子・志士・仁人の出でて、治国安民の為に心血を搾り、心志を労し、以て人生を指導輔益したる神人は沢山に在った様だ。()れど其の人の生前に於て、皇道大本の如く天下の問題となり、天下に不可抜(ふかばつ)の大勢力を発揮し得たるは少ないのだ。是全く時の力の然らしむる所である。
 王仁(わたし)は以下順を追うて、二十八歳、初めて道を宣伝するに立ち到った一切の経路を、極めて簡単に、真面目に、一点の構造も無く、装飾も無く、誇張も無く、波瀾縦横の故郷生活を赤裸々に筆にして見たいと思うのだ。併し元来の浅学不文の悲しさは、事実の万分一をも描写することの出来ないのを遺憾とする次第である。古人曰う。「書は言を尽くす能わず。言は意を尽くす能わず」と。况んや、五十年以前の記憶から曳き出すに於ておやだ。けれども、嬉しい事と悲しい事とは、一生忘れられぬもの也と云う事がある。実に至言である。王仁も其の嬉しかった事と、悲しかった事実だけは、今猶歴然として記憶に存して居る。(いな)存す而巳(のみ)ならず、極めて悲しかりし事の在った為に、自己の神魂が発動して、(つい)に天下の治教皇道大本を開設するの動機を造らしめられたと謂っても良いのだ。
 
誕生の地
 
 王仁(わたし)は祖先が源平で在ろうと、藤橘(とうきつ)であろうと、(はた)又その源を何の天皇に発して居ようと、詮議する必要は無い。只王仁は日本人であって、畏くも、天照大御神様の御血統の御本流たる天津日嗣天皇様の臣民である事だけは、動かぬ事実だ。
 そして王仁の生家は上田家である。丁髷(ちょうまげ)の爺さんの話によると、昔から上田・松本・斎藤・小嶋・丸山の五つの苗字を()って居る家柄を、「御苗(ごみょう)」と謂って、顔が良い家柄だと謂って、蛙切(かわずき)りの土百姓の癖に、村内の多五作や、杢平(もくべい)等が威張ったものだ。縁組一つするにも、御苗が()うの、帯刀御免のと八釜敷(やかまし)く、御苗以外の家柄を「(ひら)」と蔑視したものだと聞いた。上田家は御苗の所謂(いわゆる)家柄であって、貧乏して居っても、()れだけは世間並に自慢したものであった。丹波国南桑田郡曾我部村大字穴太(あなお)宮垣内(みかいち)と云う所に、茅屋(ぼうおく)は破るるに任せ、檐廂(たんそう)は傾くに委し、壁は壊れて骨(あらわ)れ、床は朽ちて落ちんとする悲惨なる生活に甘んじ、正直男と名を取った水呑み百姓の上田吉松と曰うのが、王仁の父である。
 
父の誕生地
 
 父は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである。男兄弟が九人で女の姉妹が四人、都合十三人の同胞(はらから)が有った。系図を見ると、宇多天皇の後裔と云う事である。代々紺屋を営み相当の資産も有ったが、元来の好々爺であった為、人の為に非常な損害を受け家産は次第に衰えた。併し村内では、中流階級の部に属して居たのである。外の兄弟は、各自相当の家に養子に()ったり()し付いて居るが、父に限って、他家へ丁稚奉公に、幼少からやられて了うた。その理由は、余り肝癪(かんしゃく)が強くて腹が立つと、親でも(なぐ)り付けると云う乱暴であったので、懲らしめの為に、父母が相談の上八木町の醤油屋に丁稚に出したのである。八木の「醤油角」と云う主人からは、正直もの、律義ものとして、大変に寵愛されて居た。
 十年の年期を首尾()く勤めて二十三歳の年に、初めて穴太の富豪たりし、斎藤庄兵衛氏の雇人と成って住み込み、親方児方(こかた)の関係が出来た。二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で、上田家の養子と成り、「吉松」の襲名を為たのである。父の元の名は佐野梅吉と云うた。梅吉が吉松を襲名したのも面白い。神諭に「梅で開ひて松で治める」とあるが、王仁の父が丁度この御神諭の通りに成って居る。(ここ)(ついで)を以て一つ書き加えたい事がある。()れは()の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁(わたし)とは従兄弟(いとこ)の間柄である。翁は十三歳にして達磨を描いたが、其の妙筆は神に迫って居る。今も佐野家に保存されてある。
 
上田の家庭
 
 王仁(わたし)の祖父は吉松と云い祖母は宇能子(うのこ)と云い、祖父は五十九歳で帰幽し、祖母は八十八歳の高齢を保ちて帰幽した。父は梅吉、母は世根子(よねこ)と云う。結婚の翌明治四年〈旧〉七月十二日を以て一子を挙げた。是が目下綾部大本の教主輔・出口王仁三郎である。幼名は上田喜三郎と曰う。王仁三郎と名乗ったのは参綾後に神界より賜わった名であって、明治四十三年に戸籍上の出口王仁三郎と成ったのである。
 王仁(わたし)には八人の弟妹があって、次を由松・三男が幸吉・四男が政一・五男を久太郎と曰う。久太郎は出生後数十日にして帰幽した。長妹を絹子と云った。是も四歳にして帰幽した。次妹を雪子・末の妹を君子と曰う。残った六人の兄弟は無病健全に、神務に従事して居る。只次弟の由松のみ穴太の片田舎にて、家督相続を為し、農業に従事して居るのである。
 
穴太の名義
 
 王仁(わたし)の郷里なる現今の穴太に就いて、其の名義の起元を記して置こう。大昔は丹波国曾我部の郷と云ったのが後に穴穂(あなほ)と成り、穴生(あなふ)となり、穴尾(あなお)となり、次に現今の穴太(あなお)と改められたのである。宮成(みやなり)長者の創立した西国二十一番の札所は、即ち穴太に遺って居って、今(なお)信仰者は京阪を初め全国に在る。三荘大夫(さんしょうだゆう)に虐使された槌世丸(つつよまる)安寿姫(あんじゅひめ)の守本尊たる一寸八分の黄金仏像は当寺に祭られ、本尊は三尺三寸の(たけ)で、雲慶の作である。菩提山穴太寺は即ちこの名刹(めいさつ)で、院主の姓を代々穴穂と名乗って居る。
 今は故人と成った斎藤作兵衛翁の談に依りて、穴太の名義は明瞭に分明した。翁は世々里庄(しょうや)の家に生まれ、翁も亦里庄として村治に尽くした徳望家である。
 翁の談に由ると、上田家の遠祖は、天照大御神天の岩戸に隠れ玉いし時、岩戸の前に善言美辞の太祝詞(ふとのりと)を奏上し、大神の御心を(なご)め奉りし、天児屋根(あめのこやねの)(みこと)藤原氏の氏神である。(くだ)って、大織冠(たいしょくかん)鎌足公の末裔である。有為転変の世の常として、浮世の荒風に吹き捲られ、文明年間、大和国より一家を率いて、大神に因縁深き丹波国曾我部の郷へ落ちて来たのである。
 上田家は藤原と姓を唱えて居ったが、今より八代前の祖先・藤原政右衛門の代に成って、上田と改姓したのである。
 雄略天皇の勅命に依って、豊受姫(とようけひめの)大神(おおかみ)を丹波国丹波郡丹波村比沼(ひぬ)真奈井(まない)より、神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜う神幸(みゆき)の途次、曾我部郷の宮垣内の聖場を(えら)んで神輿(しんよ)御駐輦(ごちゅうれん)あらせられたのである。
 祖先が天児屋根命と云う縁故を以て、特に其の邸内に御旅所(おたびしょ)を定められた。一族郎党は恐懼して、丁重なる祭典を挙行し奉る際、神霊へ供進(ぐしん)の荒稲の種子が、太く老いたる(けやき)の樹の腐り穴へ散り落ちた。それが不思議にも、其の腐り穴から稲の苗が発生し、日夜に生育して、(つい)に穂を出し、(うる)わしき瑞穂を結んだ。里庄以て神の大御心と仰ぎ奉り、一大祈願を為し、神の許しを得て、所在の良田に蒔き付け、千本と曰う名を附して、四方に植え拡め、是より終に穴穂の里と謂うたのである。
 当時の祖先は家門の光栄として、此の祥瑞を末世に伝えんが為に、私財を投げ出して、朱欄(しゅらん)青瓦(せいが)の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神・豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し、親しく奉仕したのである。
 其の聖跡は、現在上田家の屋敷なる、宮垣内である。宮垣内の名称は神明社建造の時より起こったのである。同社は文禄年間、川原条に移遷され、今猶老樹鬱蒼として昔の面影を止め玉うのである。
 王仁(わたし)が今日、治教皇道大本の教主輔として、神君の為に一身を捧ぐるに(いた)ったのも、全く祖先が尊祖敬神の余徳に因る事と、深く深く感謝する次第である。
 
綾部の聖地
 
 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であった。そして(あめの)真奈井川原(がわら)と云うのは、現今の和知川原の事である。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡久次(ひさつぎ)村の真奈為(まない)(だけ)の麓に、神社の旧蹟を移遷したと云う伝説が古来行なわれて居ったのである。()うすると、綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座の途中、曾我部の郷に、一時、御旅所として御駐輦になったのである。
 太古、同社の神職は綾部の出口家が奉仕して居ったと曰う事であるが、後世に到って、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝わって居る。彼の有名なる神道家・出口延佳(のぶよし)は、外宮の社家中で最も電要なる家格の人であったのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明社を創建して奉仕せし藤原家の末裔たる王仁(わたし)が、太古の神縁ある綾部に来たりて、出口家の相続者と成ったのも不可思議な神縁で在ると思う。
 神明社が宮垣内(みやかいち)から川原条へ遷座されてから、後神明社(こうしんめいしゃ)と改称されたが、何時(いつ)の間にやら、後神社(ごうしんしゃ)と里人が唱え出し、今では郷神社(ごうしんしゃ)と曰うように成って、穴太の産土なる延喜式内・小幡神社の附属となり、無格社に列せられ玉うに到ったのである。
 
祖父の遺言
 
 祖父の吉松(きちまつ)は、明治四年の冬十二月二十七日に帰幽した。王仁(わたし)が誕生後六か月目である。祖父吉松は数年前より微恙(びよう)を覚え、日夜ぶらぶらとして日を暮らして居ったそうである。弥々(いよいよ)(あらた)まり、到底快復の見込み立たずと自覚し、王仁の両親を枕頭に招いて遺言した。
 「上田家は古来七代目には必ず偉人が現われて、天下に名を顕わしたものである。彼の有名な画伯円山応挙(本名は上田主水(もんど))は、我より五代前の祖先・上田治郎左衛門が篠山(ささやま)藩士の(むすめ)(めと)って妻となし、其の間に生まれたものである。然るに今度の孫は丁度七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕わすものに成るであろう。先日(いつぞや)も亀山の易者を()んで孫の人相を観て貰ったら、此の児は余り学問をさせると、親の屋敷に居らぬ(よう)に成る。併し善悪に由らず、(いず)れにしても(ちが)った児であるから、充分気を附けて育てよとの事であった。私の命は最早終末(おわり)である。然し乍ら私は死んでも、霊魂(たましい)は生きて孫の()い先を守って()る。併し此の児は成長して名を顕わしても、余り我が家の力には成らぬとの易者の占いであるけれ共、天下に美い名を挙げて呉れれば、祖先の第一名誉であり、又天下の為であるから、大事に養育せよ。是が私の死後までの希望である」と、(こと)終わると共に眠るが如く帰幽したと云う事である。王仁は生後(わず)かに六か月、祖父の顔も知らねば、其の時の現状(ありさま)も知らない。只祖母や両親の口から伝えられたのを記すのみである。
 
円山応挙
 
 円山応挙は本名を上田主水(もんど)と称したのである。京都の円山の(ほとり)に住んで妙筆を揮って居たので、画名を円山応挙と名告(なの)ったのである。然るに同じ穴太に丸山と曰う姓が在るので、応挙は丸山家から出たものと世人は誤解して居るのである。現に穴太生まれの丸山某は京都の町に居を(ぼく)し、いつの間にやら「(がん)まる」を「(えん)まる」に変更し、円山応挙六世の孫なぞと曰って居るので在る。厚顔無恥も、(ここ)に至って極まれりと謂うべしだ。
 
 丸山某と云う人は、明治の初年に、伏見鳥羽の戦争に長州の武士から人夫として雇われ、敗戦の結果多数の死者が出来た。その際に某氏は死骸の中に潜り込み、死者の懐中物を一々探って、莫大なる金銀を集め、其れを資本として郷里に数町歩の田畑を購求し、傍ら三百代言をして、随分人に憎まれつつ持丸長者に成った所から、名誉慾に(そそ)られて、(つい)に円山応挙の末裔と偽称するに到ったのである。某は金の力で京都に出で、三百〈代言〉も余り面白からぬ(よう)に成ったので、或方法に依って印紙屋を営み、数十万円の資産を造り上げ、府会議員まで鰻上(うなぎのぼ)りに上った容易ならぬ敏腕家である。そこで郷里の穴太に「円山応挙生誕地」と云う立派な碑を樹てて、裏面には「府会議員円山某」と刻して房る様な虚栄家である。
 (たし)かに明治十六年、王仁が十三歳の時であった。丸山某氏が訪ねて来て、「(ここ)の家には上田主水さんの画の書き(おろ)しが沢山に在ると聞いたが、一度拝見したい」と申し込んで来た。そこで王仁の両親は心好く古長持の中に納めてあった数百枚の画の書き損じを出して見せた。某は非常に驚歎して帰った。四、五日を経て某は再び訪ねて来て曰うには「お前さん(とこ)()んな反古(ほご)を何時迄も大事に保存して置いた所で、何の役にも立たぬから、私は五円に買うて()げよう。五円あれば米が一石も買える。正月にも沢山な餅を搗いて小供を喜ばして()っては()うだ」と謂って、頻りに「売れ売れ」と迫るのである。肝癪持ちの父の吉松は、丸山某の言い草が気に喰わぬと大変に怒り出し、「お前さんに買って貰う位なら(ここ)で灰にして了う」と謂って、其の中から数十枚持ち出して某の眼の前で焼き捨てて了ったので、某は詮方なく無礼を詫びて帰って往った。
 それからは種々と手を替え、人を頼んで売却の儀を申し込んで来たが、頑固一遍の父は、最初の某の言い草が気に喰わぬからと主張して、断乎として要求に応じ無かったのである。そうすると、今度は王仁を養子に貰いたい、大学へ入れて立派な人間に仕上げて()るからと、幾度と無く出て来て余り五月蠅(うるさ)くて堪らず、肝癩親父が到頭大喧嘩を追初(おっぱじ)めて絶交して了うた。持丸長者の某が、破れ家の水呑み百姓の小伜を養子に呉れと申し込んで来るのは普通では無い。何か、三百代言だから深い魂胆が伏在するに相違(ちがい)は無いと謂って、父が立腹して居たのが、歴然として王仁の記憶に今(なお)残って居るのである。
 然るに不幸にも上田の倭屋(わいおく)は、明治三十三年の〈旧〉二月七日に祝融子(しゅくゆうし)火事のこと。の見舞うところと成り、家財家具は言うに及ばず、円山応挙に関する書類も絵画も悉皆(しっかい)烏有(うゆう)に帰したのである。さあそうすると例の丸山某は得たり賢しとして、自分が応挙の六世の孫なりと宣言し、終に応挙生誕地の石碑までも建立する様になったのである。然るに丸山某は代々西穴太に屋敷が在って、今は上田和市氏の邸宅に成って居り、生誕地と書いてある記念碑の建設地は、明治十二、三年頃に、穴太寺の桑園地で在ったのを購入して、新たに居宅を造り住んだので在るから、生誕地で無い事は明白な事実である。
 
改姓の理由
 
 百姓に成ってから、藤原姓を名告(なの)って居ると、万一誤って藤蔓でも切ろうものなら家が断絶するとの巫祝(みこ)の妖言を妄信して、上田と改姓した。上田と名告った理由は、其の時の藤原家には五町歩の二毛作の上田(じょうでん)を所有して居ったので、取り敢えず姓を上田に変更したと云う事を、祖母や古老の口から聞いた事がある。然るに五年か十年位に一度は大旱魃(だいかんばつ)が巡って来て、稲穀(とうこく)の稔らないと云う困難を免るる為に、屋敷の西南隅に灌漑用の池を掘った。是は上田久兵衛の代に掘ったので、里人は久兵衛池と称えて居ったのである。此の久兵衛池に就いて王仁の一身上に関する経緯(いきさつ)があるが、それは後節に述べる事にする。
 穴太には上田姓が三組在って、之を北上田・南上田・平上田と称して居る。王仁は北上田の家の出である。詳細なる系譜があったのを、曾祖父(ひじい)の代に極道息子が在って他家へ質に入れ、転々して吉川(よしかわ)村の晒し屋と云う家に伝わったのを、王仁が種々(いろいろ)として手に入れる事に成ったが、不幸にも又、前に述べた明治三十三年の火災で失くして了ったのは、返す返すも遺憾至極である。系図の示す所に由れば、文明年間には西山の山麓、高尾と云う所に大きな高い殿閣を建てて、其処に百余年間、高屋長者と呼ばれて住居して居たと云う事である。其の後、愛宕山の麓の小丘に城廓を構え大名の列に加わって居った所が、明智光秀の為に没収の厄に逢うたのである。其所は産土の小幡神社の境内に接続して居って、殿山(とのやま)と曰う地名に成って居るが、今に城址が歴然として地形に遺って居るのである。
 
祖父の性行
 
 祖父の吉松は至って正直で、清潔好きであった。今にも祖父の逸話は、古老の口から沢山に漏れる事である。然るに祖父には只一つの難病があって、五十九歳で身を終わるまで止まなかったのである。その難病と云うのは賭博を好み、二六時中、(さい)を懐から放した事が無いのである。そして酒も呑まず(たばこ)も吸わず、百姓の隙には丁半々々と戦わして勝負を決するのが、三度の飯よりも好きであった。それが為に祖先伝来の上田も山林も残らず売り払い、只壱百五十三坪の屋敷と破れ家と、三十三坪の買い手の無い蔭の悪田が一つ残った丈であった。斯様(こん)な家庭へ養子に来た父の吉松こそ、実に気の毒である。祖父は死ぬ時も賽を放さず、死んだら賽と一所に葬って呉れと言ったそうである。
 その時の辞世に、「打ちつ、打たれつ、一代勝負、可愛(かあい)賽(妻)子に斯の世で別れ、賽の川原で賽拾う、ノンノコサイサイ、ノンノコサイサイ」。
 女房が米が無くて困って居ようが、醤油代が足るまいが、債鬼が攻め寄せて来ようが、平気の平左衛門で、朝から晩まで相手さえあれば賽を転がし、丁々半々と日の暮るるのも夜の明けるのも知らず、行燈(あんどん)と二人に成るまで行って行って行りさがし、臨終の際に成っても、博奕(ばくち)の事を云って居った気楽な爺さんだったと、何時も一つ話に祖母が話された事がある。
 五月の田植え時と秋の収穫期(とりいれどき)を除くの(ほか)は、雨が降ろうが風が吹こうが、毎日毎夜、相手を探して賽(ばか)り転がし、朝に田地が一反飛び、夕に山林が移転して了うと云う状態であるから、柔順な祖母が恐る恐る諫言(かんげん)すると、祖父の言い草が振るって居る。「お宇能(うの)よ、余り心配するな、気楽に思うて居れ、天道様は空飛ぶ鳥でさえ養うて御座る。鳥や獣類は別に翌日(あした)貯蓄(たくわえ)()て居らぬが、別に餓死した奴は無い。人間も其の通り餓えて死んだものは千人の中に只の一人か二人位のものじゃ。千人の中で、九百九十九人までは食い過ぎて死ぬのじゃ。それで三日や五日食わいでも滅多に死にゃせぬ。(わし)もお前の悔むのを聞く度に胸がひやひやする。けれども是も因縁じゃと断念(あきらめ)て黙って見て居って呉れ。止める時節が来たら止める様に成る。私は先祖代々の深い罪障(めぐり)を取り払いに生まれて来たのだ。一旦(いったん)上田家は家も屋敷も無く成って了わねば良い芽は吹かぬぞよと、いつも産土の神が枕頭(まくらかみ)に立って仰せられる。一日博奕(ばくち)を止めると、直ぐその晩に産土さまが現われて、何故神の申す事を聞かぬかと、大変な御立腹でお攻めに成る。是は私の冗談じゃない、真実真味の話だ。そう()なんだら上田家の血統は断絶する相じゃ。私も小供では無し、物の道理を知らぬ筈は無い、止むを得ず上田の財産を潰す為に生まれて来て居るのじゃ。大木は一旦幹から切らねば若い良い芽は生えぬ。その代わりに孫の代に成ったら世界の幸福ものに成るそうじゃ。是は私が無理を言うと思うて呉れるな。尊い産土様の御言葉である」と云って、産土の森の方に向かって拍手する。()う云う次第で在るから祖母も断念して、其の後は一言も意見らしい事は()なんだと言って居られたのである。
 大本の御神諭に、「三千世界の一旦は立替であるから、先祖からの深い罪障(めぐり)除去(とり)()りて、何一つ(ほこり)の無い様に掃除を致して、一代で()れぬ罪を神が取りて遣りて、生れ赤児に致して、神が末代名の残る結構な御用に使ふて、世界の宝と致すぞよ」と、御示しに成ってあるのを見ると、そこに深甚微妙の神理が包含されてある事を今更ながら感激して止まぬ次第である。「神の致す真の経綸(しぐみ)は、人民では分らぬぞよ。何事も神に任すが良いぞよ」との御神示は、祖父と祖母とによって大部分実行された。その(むく)いで、王仁が至貴至尊なる大神の御用に召さるるように成ったのだと云う事を、(かたじけ)なく思うのである。
 祖父一代の逸話は(なお)沢山に遺って居るが、是は王仁が奉道の経路に就いて余り関係の無い事であるから、省略しておく。
 
祖父の再生
 
 鳥の(まさ)に死なんとするや、其の声悲し。人の将に死なんとする、其の言や良しとかや。家内のものを貧乏に苦しめて置き乍ら、死ぬ三日前には賽の歌まで作って、博奕趣味を徹底的に死後にまで続行しようとした祖父も、最期の日に成ってから、和魂(にぎみたま)幸魂(さちみたま)の発動に依って、死後家内の心得や孫の身を守護する事まで遺言したのであった。其の二魂の至誠が凝結して、王仁が六歳の年まで幽体を顕わし、山へ行くも川へ行くも隣家へ遊びに行くにも、腰の曲った小さい爺さんが附随して居ったのを、王仁は七歳に成る迄、我が家には祖父(おじい)さんも祖母(おばあ)さんもあるのだと確信して居ったのである。それが(にわか)に見え無く成ったから、「物言わぬ祖父さんは何処へ往ったか」と祖母に問うて見ると、祖母は驚いて「()れは祖父さんの幽霊だ、祖父さんは坊の一歳(ひとつ)の冬に死なれた」と聞かされて、俄に恐く成り、臆病風に襲われて、暫時は一人で隣家へ遊びにも得行かぬ様に成った事がある。王仁が六歳の時、(あやま)って烈火の中に転げ込んだ事がある。其の時にも祖父さんが何処からとも知らず走って来て、火中から曳き出し助けて呉れた王仁三郎はこの件について、実際には自分の霊が祖父さんと感じて見ているだけだと述べている。三鏡714「他神の守護」参照。王仁の左腕に大火傷の痕が遺って居るのは、其の時の火傷の名残りである。
 祖父は至って潔癖であって、野良へ出て畑を耕すにも、草切れ一本生やさぬ(よう)にした人である。偶々(たまたま)一株の雑草が在ると、それを其の場で抜いて土中に埋めて了えば良いものを、態々(わざわざ)口に喰わえて、東から西まで一畔を耕し終わるまで放さず、畔の終点まで行った所で、之を畑の外の野路へ捨てるのが癖であった。祖父さんが死ぬ三日前に祖母に向かって云うには、「私も今死ぬのは(いと)わぬが、一つ残る事がある。是を遂行せなくては、産土様に死んでから申し()けが無い」と云って泣き出す。そこで、祖母が「夫れは如何なる事が残るのですか」と尋ねると、驚くべし、「未だ屋敷と倭屋と小町田が残って居る。是を全部博奕を打って無く()て了わねば、私の使命を果たす事が出来ぬ」と曰うのである。
 家内を一生貧乏に苦しめ、其の上永らくの看病をさせて置き乍ら、(なお)飽き足らいで、家屋敷を売る所まで負けない内に死ぬのが残念なとは、何たる無情の(こと)ぞと呆れて、少時(しばし)は祖父の病顔を熟視し涙を流して居られると、祖父が云うには、「宇能よ、定めし無情惨酷な夫じゃと思うで在ろうが、毎時(いつ)もお前に言う通り、因果ものの寄り合いじゃ。お前が(わし)の家へ嫁に来てからと云うものは、一日片時も安心させて歓ばした事は無し。私も実にお前に対して気の毒で堪らぬけれども、何とも致し方が無い。皆先祖からの罪滅ぼしに生まれて来たのだ。上田の先祖は広大な地所を私有し、栄耀栄華に暮らして来たので衆人の恨みが此の上田家に留まり、家は断絶するより道の無い所を、日頃産土様を信心する御蔭で、神の深き御仁慈(みめぐみ)に依って大難を小難に祭り替えて助けて下さるので在るから、私が死んだ後は孫子に伝えて一層信心を固く()て呉れよ」との涙乍らの教訓であったのである。
 次に又祖父が遺言して「孫の喜三郎は、到底上田の家を()がす事の出来ぬ因縁を以て生まれて居る。()れが成人の暁は養子に遣って呉れ。此の上田家は再び生まれ代わって私が相続する」と謂ったと謂う事である。祖母は(わざ)とに笑顔を造って「今一度博奕の相手を()んで来るから、冥途の土産に、心地()う博奕に負けて家屋敷を無くして、先祖からの罪障(めぐり)除去(とっ)て下さいな」と曰うて見ると、祖父は「(いや)お前がそこ迄言って呉れる赤心(まごころ)は有り難いが、もう眼が少しも利かぬ(よう)に成ったから、是非が無い。直ぐに又生まれ代わってお前のお世話になる」と謂って、落涙に(むせ)んだと云うことであった。
 王仁は五歳の時脾肝(ひかん)の病に(かか)り、腹部のみが太く、手足は殆ど針金の幽霊の(よう)に痩せ衰えて来たので、両親は非常に心配して各地の神社や仏寺に参詣して、病気平癒の祈願を()て呉れられたが病気は日夜に重る(ばか)りで、何の効験(しるし)も現われ無かったので、父母は人の勧むる儘に蟆蛙(ひきがえる)の肉を料理し、之を醤油の附け焼きにして毎日々々王仁に一、二片ずつ食わして呉れた。王仁が食おうとすると、腰の少し曲った小さい爺さんが出て来て睨みつけるので、何時も喰った様な顔をして父母に隠して棄てて居った。
 或夜の祖母の夢に祖父(じい)さんが出て来て、「孫の喜三郎には蛙の(よう)な人間の形を為た動物(いきもの)を喰わしては成らぬ。喜三郎は神様の御用を勤める立派な人間に()るのじゃ。孫の病気は産土の神様の御咎(おとがめ)であるから、一時(いっとき)も早く小幡神社へ連れて参れ。そして今後は敬神の道を忘れぬ(よう)に梅吉や世根(よね)(おし)えて()れ」との事であった。祖母は夜中に眼を醒まして直ちに王仁の両親を揺り起こし、神夢の旨を伝えた。父母は其れを聞くより王仁を曳き起こし背に負うて小幡神社へ参詣し、今迄敬神を怠って居た事の謝罪を()たのである。其の翌日から段々と王仁の重病が快方に向かい、二か月間ほど経て全快する事と成った。「産土の神の霊験と曰うものは実に偉大なものである」と、時々祖母の話であった。
 明治七年正月元旦の日の出と共に王仁(わたし)の弟が生まれた。父母は死んだ祖父に赤児の顔が酷似して居ったので、是は全く爺さんの再来であろう。又成人したら博奕打ちに成って両親や兄弟を苦しめや()ないであろうかと心配して居った。祖父が吉松、父も吉松なので、松の字を入れて由松(よしまつ)と命名したのである。その由松が四歳に成った夏、畑へ父母が草曳きに連れて行って畑の中に遊ばして置いた。四歳の由松は畑の草を引き抜いては口に喰わえ、口に充実(いっぱい)になると畑の外へ持って出て捨てるのを見て、「あっ」と云って驚いて居ると、無心の由松の口から思わず知らず「(おれ)が判ったか」と叫んだのである。弥々(いよいよ)間違い無き祖父吉松の再生と謂う事を確信したのであった。父母の心配した通り、由松は十三、四歳の頃からそろそろと小博奕を打ち出し、一旦は屋敷も小町田も全部棒に振って了い、倭屋は明治三十四年旧二月七日に、祝融子(しゅくゆうし)火事のこと。に見舞われて、多からぬ財産を全部灰にして了ったのである。
 其の時は王仁(わたし)は綾部へ来て出口教祖と共に、艮の金神様に仕えて居った。そうすると穴太の弟から「イヘマルヤケ ルイクワモ ケガモナシ」と云う電報が届いた。早速、教祖様に其の由を申し上げると、教祖は驚かれるかと思ったら、左も嬉しそうに、「ああ左様か、結構でした。其れは結構な御利益(おかげ)を戴かれました。先生も早く艮の金神様と、穴太の産土の神様へ御礼を申しなさい。(わたし)も一所に神様に御礼申して上げます」との御言葉である。其の時は私も教祖の言行に就いて少しはムツとしたが、能く心を落ち付けて考えて見ると、教祖の御言葉に敬服せざるを得無かったのである。上田の家は一旦塵片(ちりきれ)一本も無い様に貧乏のドン底に落ちたが、其の後神様の御蔭で、祖先から持ち越しの罪障(めぐり)を払って貰い、再び出口家より元の家敷を買い戻し、小さい乍らも以前より余程立派な家を建てて貰い、祖父の再生したと云う弟の由松が、元の屋敷で上田家の相続を()て居るのは、皆昔から一定不変の神則であって、人間の智慧や考えでは如何ともする事が出来ぬと云う事の、実地の神証であると思う。
 
漆差しの失敗
 
 西南戦争で天下の人心騒擾たりし明治十年の秋、王仁(わたし)が七歳の時であった。父の吉松(きちまつ)(梅吉)は船岡の産土の祭礼に参詣すべく、王仁を伴い生家へ帰って往った。其の(ついで)を以て、船井郡雀部(ささべ)漆差(うるしさ)しの家に立ち寄り、無病息災の為と謂って、王仁の腹部へ十数点の漆を差して貰ったのである。さあそうすると、王仁の身体一面に漆が伝播し、(かゆ)くて堪らぬので掻くと又それが伝播して、手足も胴も頭も顔も一面に(くさ)になったので堪らない。(つい)には手も足も動かぬ様に成って身体一面漆負けの瘡だらけに成って了った。その時の痕跡は今に判然と王仁の腹部にその記念を止めて居るのである。それが為に学齢が来ても小学校へ行く事が出来ない。それを祖母の宇能子(うのこ)が大変に心配して、平仮名から五十音、単語篇に百人一首、小学読本と漸次に教えて呉れられたので、十歳の春初めて入学した時は大変に読書力が附いて居って、何時も一時に三、四級(ずつ)は飛び越して、十三歳の四月に上等四級で退学する事となった。
 祖母は又()の有名なる言霊学者・中村孝道(たかみち)の家に生まれたので、言霊学の造詣は深かった。王仁は十歳位の時から折々祖母の口から言霊の妙用を説明されたので、何時とは無く言霊の研究に趣味を持つ(よう)に成り、山野に往って傍らに人の居らぬのを考えて、力一杯の声を出して「アオウエイ」と高唱して居ったのである。時々人に見附けられて笑われたり、発狂人と誤られた事もあったのである。王仁が今日言霊の神法を活用して天地に感応する様に成ったのも、全く幼時より修練の結果で、又神明の御加護と祖母の熱烈なる教育の(たまもの)である。
 
小学校時代
 
 穴太寺の念仏堂を造作して四間に仕切り、之を小学校に()てたのが偕行(かいこう)小学校と曰うのであった。王仁(わたし)は十歳に成った年の四月に初めて入学したのである、校長は亀山の旧藩士で出口直道(なおみち)と云い月給五円を給されて居た。次に吉田有年(ゆうねん)と云う同じ亀山の藩士で月給三円の教師であった。月給は安くても其の時分は物価が今日と(ちが)って非常に安い。一石の米価が三円七、八十銭位で、石油一斗が二十銭以下であるから、却って、今日の五十円の月給取りよりも生活は安楽であった。王仁も十三歳から、二円の月給で同校の助教師として足掛け三年間奉職、下級の生徒に対して教鞭を振るった事がある。
 それは(さて)おき、不思議なのは、私には「(なお)」と云う字の附いた名前の人に関係の多い事である。小学校の先生が出口直道氏であり、塾の先生が上田正直氏であり、獣医学の先生が井上直吉氏であり、少年時代の指導者が斎藤直次郎氏であり、王仁の父子を隠れて助けて呉れたのは斎藤庄兵衛氏の室なる直子婦人であり、書生奉公に行った斎藤源治氏の内室で非常に大切に教導して呉れたのは全く直子婦人であり、最後に大本教祖・出口直子刀自(とじ)の養子と成り、相(とも)に神業に奉仕する身と成ったのである。実に言霊と身魂の因縁関係位不思議なものはないと思う。
 或時、教師の吉田有年と云う先生が『小学修身書』を生徒に読み教える時、大岡越前守忠相(ただすけ)と云う字句に至って「タダアイ」と読んだ。王仁は余り可笑しくて聞くに忍びず、直ちに椅子を立って「吉田先生、(ここ)はタダアイじゃ在りません、タダスケです」と注意した。無学にして且つ頑固なる吉田先生は王仁の言を忽ち打ち消して、満場の生徒に向かい「喜三郎は、彼は馬鹿だから彼様(かよう)な事を言うのである。聞いては成らぬ」と云った。何にも知らぬ生徒等は、吉田先生の説に服して「タダアイ」と大声に読む。王仁は、ああ斯様な間違った事を教える先生に就いて教えられる生徒は不幸だ、堂しても先生に取り消しを()て貰わねば成らぬと、一歩も譲らず「タダスケ」を主張したのである。
 吉田先生は大変に立腹の様子で、真赤な顔をして、「貴様は生徒の分際として教師に反抗するとは不都合な奴だ。懲戒する。一寸(ちょっと)来い」と謂って王仁の細い手首を抜けん斗りに曳っ張って行こうとする。王仁は一生懸命になって出口先生を呼んだ。隣室に教鞭を執って居った直道先生は驚いて走り来られた。王仁は、吉田先生の読み方に就いてその正否の問答を為し居たるに、乱暴にも手首が抜ける程引き立てられ苦痛に堪えぬので、思わず出口先生の名を呼んだ事を詳細に答弁した。逐一事情を聞いた上、出口先生は吉田有年先生に向かい、「爰は生徒の読んだタダスケが本当だ。君もも少し(しら)べて置き玉え」と、校長から生徒の眼の前で警告された。王仁の小さき心は治まったが、(ただ)治まらぬのは吉田先生の胸の中である。其の以後は吉田先生の態度は一変し、王仁に対する憎悪心は日を逐うて峻烈を極め、一字でも一句でも読み誤ろう者なら、忽ち打擲(ちょうちゃく)するのみか、麻縄の太いので後ろ手に縛り上げ、大きな珠算(たまさん)の上に一時間余りも座らすと云う(よう)な虐待をされたのである。実に其の頃の教育者と曰うものは乱暴極まるものであった。
 或暖かい春の日に、吉田先生は全級の生徒を校庭に集めて、体操を教えて居った。王仁も其の中に加わって稽古を受けた。偶々(たまたま)隣村の雪駄(せった)直しが、学校の前を「直し直し」と呼びつつ通過した。吉田教員は忽ち之を指さして、生徒に向かって、「お前等()く見よ。今、学者生徒の喜三郎さまの御父上が御通りだ」と大声揚げて、王仁が父の家は貧窮下賤なりとの意を諷刺した。無心無邪気な生徒は吉田と共に手を拍って笑うのであった。王仁は悔しさ残念さを(こら)えて黙して居た。吉田先生は(なお)虫が治まらぬと見え、学校の雪隠を指さし示して、「ああ其処に見よ、喜三郎さまの立派なお家が建ってある」と、我が家の倭小にして不潔なる事を諷刺し、又手を拍って笑う。生徒も亦一所に成って器械的に笑うのであった。其れからと曰うものは生徒も吉田先生の真似をし、面白半分に、乞食や非人なぞに途中で逢う時は忽ち之を指さして、「喜三郎さまのお父さんが通る。お母さんが何所かへ御出でに成る」と、大きな生徒までが面白がって侮辱し、()けかけた雪隠があると、「喜三郎さまの立派な御宅だ」と嘲り笑うのであった。
 王仁は小供乍らも憤怒の極に達し、発言者たる吉田先生の下校を途中に待ち受け、青杉垣の中から吉田先生目掛けて、竹の(さき)に糞を附けたまま腰の辺を突き差し、其の儘自分の宅へ()げ帰った。吉田先生は非常に立腹して王仁に退校を命じた。王仁も承知が出来ず、直ちに出口校長に向かって始終の次第を申告した。校長は直ちに学務委員の斎藤弥兵衛氏と協議の上、吉田有年を免職し、王仁には一旦退校を命じて其の場を無事に済ませ、数日の後王仁を吉田の代用教師として月給二円を給される事と成りたのである。この斎藤弥兵衛と曰う人は余程(ちが)った人で、時々()う云う皮肉な所置を採る人であった。今日は学校教育の方針も改良され、夢にも斯くの如き乱暴な教育家は居らぬが、王仁の幼時の教育者の態度は、実に無茶な事をしたものである。
 王仁は斯く無情なる人々と交わり、世情の冷酷なる惨状と仁愛なる人の温情とを表裏より味わう事が出来たのも、全く今日に成って考えて見れば、神様の御仁慈を以て王仁の心魂を幼時より鍛煉させ玉うたのであると、熟々(つくづく)感謝する次第で在る。又吉田先生の王仁に対する虐待的行為も、王仁の為には大恩師で在った事を感謝せずには居られないのである。
(故郷乃弐拾八年、「神霊界」大正十年二月号)
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