去る明治二十七年、日清戦争が起こつた頃、自分は草深い穴太の片田舎を後にし、獣医学研究の志望を起こし、従兄に当たる某獣医の家に書生となり、傍ら牧畜業に従事し、牛乳等を搾取して附近の町村に朝夕販売して居た。
自分の居た牧場の隣に、○○寺という禅宗の巨刹があつて、其処には和尚がペスと云う洋犬を飼つて居た。ペスは時々前足を引きずり苦しげに喘ぎ乍ら牧場へやって来た。丁度其処へ従兄の某獣医が来合わせて居たので、自分は従兄に向かい、「此の犬の病気は何病と考えますか」と問うたら、従兄は聴診器や、検温器等を取り出し、叮嚀に三十分間計りもかかって聴診・望診・打診・接診等あらゆる診察の法を尽くした結果、関節炎リウマチスと診断した。
そこで未だ獣医学の研究中であり診察等は到底真面目に出来なかつたけれ共、『家畜医範』の文面を照り合わした結果、露出粘膜の乾燥して居る事や、呼吸の逼迫の度合いや、脈搏の頻数なる点、及び足の運び工合い等から考えて、胸部に病のある事を覚り、「これは心臓糸状虫だ」と云つた所、従兄は一言の下に自分の説を嘲罵し、「未だ書生の分際としてそんな断定的な言をいうものじゃない。自分は駒場農学校の獣医科卒業生だ。自分の診断は千に一つも間違いはない、若し此のぺスがお前の云う通り心臓糸状虫であったら、自分は獣医を廃業する」と迄啖呵を切つた。けれども自分としては何うも心臓糸状虫にかかつて居る、と云う確信が胸裡を離れなかつた。数日間の後にぺスは寺の床下で吐血して死んで終った。愛犬家の和尚は非常に嘆き悲しみ、本堂の横手の山腹の墓地へ叮嚀に埋葬し、墓標を立てて置いた。
自分はペスの死骸を解剖して、リウマチスであるか、心臓糸状虫であるかを確かめたい気がむらむらと起こり、夜半の頃、真白な解剖服をそっと身に纒い、青赤紫等の硝子を囲った龕燈を燈してペスの墓所に到り、死骸を掘り出し解剖刀を揮つて、いの一番に心臓を切開した所、自分の考え通り糸状虫にかかって居た事が分かった。自分の診断は師匠の獣医よりも偉かったというような会心の笑を漏らして、につこりと笑つた。その顔に龕燈の青い硝子が映つて、顔も白衣も青白く、他から見ればまるきり幽霊の様に見えたらしかった。寺の縁側に「キヤー」、ドスン、と云うけたたましい音が聞こえたので、驚いて駈けつけて見ると、和尚が便所に行こうとして、墓に火のついて居るのを見た刹那、蒼白い怪物が解剖刀を手にして、にたりと笑った其の顔が目につき、吃驚の余り縁側に倒れて腰を抜かして居たのであつた。自分は和尚の立腹を恐れて声も立てず、其の場を逃げ出し、以前の所へ引きかえし、手早く犬の心臓を切り取り、あとの死骸を以前の墓穴へ埋め込み、以前の如く墓標まで立てて、そつと牧場に帰り、夜明けを待って何喰わぬ顔で寺へ遊びに行つて見ると、寺では大変な評判である。世の中に幽霊や化物はないと聞いて居ったのに、「昨夜墓から異様な怪物が現われ、和尚は吃驚して腰を抜かし、臥床中だ」と小僧共が囁いて居たには、自分も苦笑を感ぜずには居られなかった。
病犬の診断につき師と弟子が犬と猿との仲となりけり
飼犬は心臓糸状虫病みて寺の床下に終に失せたり
大切な犬の死骸に抱き付いて坊主は丸い涙落しぬ
果敢なやと墓を造って蛸坊主いと叮嚀に犬を葬むる
リウマチスか糸状虫かを調べんと夜陰密かに犬を掘り出しぬ
蒼白い顔して墓場に会心の笑浮べたり解剖刀持ち
蒼白き墓場に立てる影を見て驚き和尚は腰を抜かしぬ
昭和二年三月十五日
(徒然草、「月光」昭和二年三月第七号)