二審の公判で高野裁判長は、王仁三郎がこれまでの予審調書を全面的に否定したことに対して鋭く追及しましたが、王仁三郎の答弁はなかなかふるっているのです。
王仁三郎「予審調書は、予審判事の創作です。私の言うことは一つも採り上げてはくれず、鼻歌を唄うような調子で勝手に書き上げてしまったのです」
裁判長「王仁三郎、お前は予審調書の終わりに自分で署名し捺印しているね。その署名捺印の前には『右録取し読み聞けたるに本人承認し署名捺印したり』と書いてあるね。分っているか」
王仁三郎「それは判っていますが、署名捺印せねば通してくれません」
裁判長「お前も大本教という数十万の信徒を有する宗教の管長様じゃないか。なぜ気にいらない調書ならば徹底的に争わぬか」
王仁三郎「そんなことをしていたら、しまいに殺されてしまいます」
裁判長「たとい殺されても、そこが管長様じゃないか。気にくわぬ調書には絶対に判をつかぬという範を人に示さねばならぬ身分じゃないか」
王仁三郎「私はそんな闇から闇へ、何のために死んだのか訳の判らぬような屠むられ方はいやです。
公判で言うだけの事をいって、聞いてもらうまでは無闇に死に度くはありません」
裁判長「それでは訊ねるが、この事件は結社の組織罪が問題になっていて、お前がその結社の首魁ということになっているのだよ。たとえ死んでも首魁のお前が結社を認めさえしなかったら、部下の被告等は助かったかも知れんじゃないか。自己を犠牲にしても人を助けるのが宗教家の本領じゃと私は思う。お前の答弁を聞いていると、自分が助かりたいために、部下を抱き落しにかけても構わぬというやり方のように聞えるが、それでも宗教家としてよいのか」
裁判長は容易に予審調書の否認を許そうとはしないのです。すかさず王仁三郎は「裁判長、私の方から一寸お訊ねしたいのです。禅宗の間答に『人虎孔裡に墜つ』というて、一人の人間が虎の棲んでいる穴へ誤って落ち込んだと仮定して、その時落ち込んだ人はどうしたら好いのかという問答があります。裁判長あなたはこれをどうお考えになりますか」とやりかえした。
裁判長「私は法律家で宗教家ではないから、そんなことは分らぬ。どういうことかね」
王仁三郎「人間より虎の方の力が強いから、逃げようと後を見せると、直ぐ跳びかかって来て噛み殺される。はむかって行ったらくわえて振られたらモウそれっきりです。ジッとしていても、そのうち虎が腹が減って来ると喰い殺されてしまう。どちらにしても助からないのです」
裁判長「それはそうだろうな」
王仁三郎「ところが、一つだけ生きる途があります。それは何かというと、喰われてはだめだ、こちらから喰わしてやらねばなりません。喰われたら後に何も残らんが、自分の方から喰わしてやれば後に愛と誇りとが残る。その愛と誇りを残すのが、宗教家としての生きる道だ、というのがこの問題の狙いなのです」
裁判長は「その点はモウそれで宜しい」と追及を打ち切ってしまいました。
王仁三郎はこの禅問答で、大本を弾圧した権力を虎にたとえ、教団や王仁三郎自身を虎穴に落とされた人にたとえて、予審で無理やりに署名捺印させられた時の事情、無謀と弾圧に対する自己の態度を述べたのです。