茂頴は牧畜にのみ従事して居て、父母なり弟なりが農事に就いて居たのでありたが、弟の由松と云うのが、にわかに家出をしてしまうたので、薪一荷苅りに行くものがなくなって来た。
そこで父が余に向かって云わるるには、「弟は彼の次第であるし、汝は牧場に忙しいから薪を、山に苅りに行く代わりに、屋敷の樹木を切りたおして薪にしたいと思うから、鬼門に当たるけれども、まさか今の世に祟りなぞと云う様な事はあろうまいから、仕事のすきに切りてくれ」との命令であった。余も「左様ですとも、そんな馬鹿な事がありますか」とすぐに同意して、長梯をカヤの大樹とムクの木とに掛けて、鋸や鎌を持って登り、カヤの木の枝からぼつぼつと切り払うた。
ついにはムクの木の芯を切り離したが、その芯がその傍らにある柿の木と樫の木に支えられて中に止まって落ちて来ない。そこで茂頴は、切り離した芯に飛びついて、身の重みで、大胆にも木の枝と共に落ちる仕掛けをしたが、都合よくざぁー、どざぁと大きい響きがして地上に落ちた。
父は余が木の枝と共に落ちたのを見て、大怪我でもしたと思うてか、真青な顔して余が傍らに立ちよりて、「怪我はないか、しっかりせよ」と云われたが、私は「何の怪我も致しません」と云うたら、「そうか」と云うて息を継がれたが、父はその時すでに半病気であってブラブラして居られた所であったが、その後日々に病勢が重くなって、べったり床に就かれた。そこで余はとても全快は覚束ないと知りたので、なるだけの看護をしたが医薬も何もその効なく、六か月のわずらいで、とうとう国替してしまわれたが、その時の悲歎は今に忘れる事が出来ぬくらいであった。
親族なり朋友が、口々に「汝は丑寅の隅で木を切りたから、鬼門の祟りであるから七人まで祟ると云う事であるから、早く神様へ参りて、伺うて貰うたがよかろう」というて聞かない。そこで余も「人の意見に従うもよかろう」と思うて、ある占者に占うてみると「丑寅の木を切りたのと、未申の方にある池が祟りておるのである」とのことであったが、茂頴は哲学思想があるので、その言を信ずる事をようせなんだのであった。
それから、日々業務の閑暇に神理を究めんと欲し、宮川の妙霊教会なり、亀岡の神籬教会、太元教会等へ行き、種々質問してみても、何教の教えも完く不得要領に終わってしまった。
それから余は、毎夜十二時から午前三時頃まで、氏神の拝殿まで行きて神教を乞い始めて、丑寅の鬼門の恐るべき事と、未申の金神の由来を聞く事を得たのであった。
余の氏神は小幡神社とて開化天皇の霊を奉祀してあるのである。
話が後先になるけれども、余が父の死去せられたのは明治三十年の七月の二十一日であって、行年は五十四歳であった。余の二十七歳の時であったのである。
また椋の木の芯と榧の木が切り離れて、余と共に地上に落下する際、隣家なる小島長太郎氏の土蔵の瓦を二、三十枚、木の枝が当たってめくってしまうたので、早速新新しい瓦を買うて弁償する事としたのである。しかるに小島氏は意地の悪い人で、色々と苦情を吹き込んで大いに父を困らしめたので、それがために父の病気は一層重くなった。
弟の由松が十日ほど経てまた帰って来て、弄花に耽って止まらぬので、父と余と二人が百方説諭をしても馬耳東風である。そこで弟に酷しく意見をした所が、弟めが憤怒の余り唐鍬の刃の未だ新しきを以て余を追いまくって来るので、余も逃げるが双方の益と思うて庭の隅へ隠れると、弟は猛り狂うて益々乱行を恣にするのである。余は三方は壁、一方は弟の鍬にて今や進退谷まったが、幸い鍋の蓋を父が投げてくれたので、それを拾って辛くも危難を免れたが、由松が切り下す鍬の刃を鍋蓋で以て受け留めたので、鍬の刃先が蓋を貫徹して、二寸ばかり突き抜けたのである。その間に父は、弟の鍬をもぎ取ったので、また今度は三又鍬を頭上に振り上げながらまたまた余を追撃した。余も一身上の防禦のために山棒を携え、弟が打ち下ろす三つ又を支えて戦うて居る所へ、また父が出て来て夜具を以て両人の得物を取って退けられたので、弟はまたもや無手となって組み付いて来たのであるが、ついに父にねじ伏せられて、その場は事済となったのである。弟の度々の凶行は、父の病をしてますます重からしめたのである。