霊主体従
扨て、陰陽又は水火、霊体の二元が、宇宙の「大元霊」から岐れ出づる所の相対的二大原質でありとすれば、宇宙の「大元霊」たる天之御中主神から覧れば、無論双方とも同様に肝要で、其間に甲乙軽重の差がある筈はない。
陰が滅すれば、同時に陽も滅し、又陽が滅すれば、同時に陰も滅する。二者の中、其一を欠く事は出来ない。吾々の身体で、左右の眼、左右の手足が共に肝要であると云うよりも、更に痛切な意味に於て、肝要至極である。併し乍ら、宇宙の内面に於て意義ある活動を起そうとするには、是非とも其一方面を主とし、他方を従とせねばならぬ。五分五分の権能を賦与せられたのでは、全然活動は起らない。同力量の力士が、土俵の真中で水入引分に終るが如きものである。又主と従との関係は、永久固定的であらねばならぬ。さもなければ、起る所の活動が乱雑不統一に陥って了い、結局無活動と同じ結果になる。千万世に亘りて変る事なく、秩序整々、意義ある活動を続けようとするには、何うしても陰陽の間に主従優劣の固定的関係を設くる事が、絶対に必要だ。乃で天之御中主神は、活動の太初に於て陽を主と為し、陰を従と為し玉うた。大本霊学は此根本原則を普通「霊主体従」という言葉で言い現わして居る。陽主陰従でも火主水従でも意義は同一である。
「霊主体従」が宇宙の大原則である事は、宇宙其物に就て考えたとて、容易に分るものではない。余りに広大で、余りに奥が深過ぎる。が、大宇宙の間には、同一原則で出来た小宇宙が充満して居るので、吾々は是等に就きて大宇宙を忖度するの便宜を有して居る。人間としては、先ず手近い自分自身を攻究するのが暁り易い。
少し静思反省すると、何うしても吾々人間には、霊的性能と体的性能との正反対の二面が具わって居る事が判る。霊能は、吾々に向上、純潔、高雅、正義、博愛、犠牲等を迫る。これが最高の倫理的感情又は審美的性惰の源泉である。之に反して体能は、吾々に食い度い、飲みたい、着たい、犯したい等、少くとも非道徳的念慮を起さしめ、甚だしきは堕落、放縦、排他、利己等の行為をも迫る。此二性能は、常に吾々の体内で両々相対抗して居る。人間として存在する以上、到底之を免れない。若し霊能が無いとすれば、吾々は忽ちに禽獣化し、人類として存在の価値を失う。若し又、体能が全然無いとすれば、それでは自己の保存が覚束ない。例えば食われない丈でも滅びて了う。両性能を具有する事は絶対に必要であるが、両性能の間には、主従優劣の区別を設けて、一身の行動の規準とせねば、人間は適従する所に迷うて了う。乃で霊能を主とし、体能を従とし、之を守るのが善、之に反くのが悪と規定せられて居る。大宇宙の原則は、矢張小宇宙たる人間に於ても、原則とせられて居る。ただ人類が未製品なので、大体之を原則として規定しても、実行の上には原則違反ばかり続けて居るのだ。