真神
大本の真意義を根本的に理会せんが為には、是非とも宇宙の独一神天之御中主神に就きて、判然した観念を有する事が必要である。これが信仰の真髄骨子となるのであって、この事の充分徹底せぬ信仰は、畢竟迷信に堕して了う。但し神に就きての誤らざる観念を伝える事は、実に至難中の至難事である。其神徳が広大無辺であると同時に、其の神性は至精至妙で、いかに説いても、何う書いても、これで充分という事は、人間業では先ず望まれない。されば本邦の皇典「古事記」にも、単に造化の第一神として、劈頭に御名称を載せてあるに過ぎぬ。『古事記』の筆録者たる大朝臣安万侶は、序文の初に、「それ混元既に凝り、気象未だ効れず。無名無為。誰か其形を知らむ」と書いてある。『日本書紀』の方では、本文に天之御中主神の御名称さえ載せず、単に此の神の性質の一小部分を捕え、古天地いまだ剖れず、陰陽分れず、渾沌雞子の如し」などと書いてある。これも決して態書かぬのではなく、書き度くても、とても窮屈な漢文などで書きこなす事が出来なかったのであろう。
天之御中主神という御名称は、本邦所伝のものであるが、無論此神は、日本専有の神ではなく、世界各国で種々雑多の名称を付して呼んで居る。太極、天、梵天、エホバ、ゴッド、ゼウス等を初め、他にも種々ある。そして是に対する観念も、浅深大小、決して一様ではないようだが、畢竟我皇典の天之御中主神を指すものである。只此神の徳性が余りに微妙、幽玄、広大無辺なるが為めに、大抵の経典は、辛うじて神性の一小片端を捕うるに止まり、世界中何処を捜しても、此神に就きて円満正鵠な観念を伝え得たものは一も無い。
哲学者だの科学者だのは、多く神という事を嫌い、全然神と絶縁して仕舞った所思で得意がって居るが、豈量らんや、彼等畢生の努力も研究も、実は天之御中主神の神業の一少部分を節孔から覗いて居るようなものに過ぎない。
今日、天之御中主神の真解が、曲りなりにも企及し得るように成ったのは、大本言霊学を以ての『古事記』の説明、及び『大本神諭』中に見出さるる此神の解釈等の賜物である。