霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第十一章 出発

インフォメーション
題名:第十一章 出発 著者:出口王仁三郎
ページ:135 目次メモ:
概要:
  • 明治31年4月28日 清水の稲荷講社を訪れ、役を貰う。
  • 本田親徳の遺言に「十年後に丹波からくる青年があとをつぐ」というのがあり、「神伝秘書」「道の大原」他の写本を貰う。
  • 亀岡に帰ると、三ツ矢が下司春吉と一緒に反抗した。
  • 5月20日、二度目の清水行き。鎮魂の玉、天の岩笛を拝領する。三穂神社参拝。
  • 亀岡に帰ると、修行者が大混乱していた。多田琴に巴御前と称する霊が懸かっていた。
備考: タグ:八田神社(矢田神社) データ凡例:御嶽教(御岳教) データ最終更新日:2024-06-23 19:33:46 OBC :B195301c17
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]写本(成瀬勝勇筆、大正14年12月、大本本部所蔵)
明治三十七年二月三日筆
 余は、本心に(おん)(たけ)(きょう)の如き淫祠邪教を信仰するものではなかったけれども、法律上何教なりとの(れい)(ぞく)としておかねば政府が許さないので、不本意ながらも表面上入会して、しばらく布教に着手するの考えであったのである。
 また、稲荷講社の主旨は賛成する所であるが、その名称についてははなはだ不愉快な心持ちがするのであった。その故は、多数の修験者なぞ称えて偽善者等が、御岳教、敬神教会、太元教会、(ひも)(ろぎ)教会等の名を利用して、(かみ)(おろ)し稲荷下げ(みこ)(くち)(よせ)等の妖術を以て、愚夫愚婦を(まん)(ちゃく)して居るから、稲荷等というと、(きつね)使いか(たぬき)(おろ)しの様に一口に(けい)(べつ)する傾向があるから、稲荷講社の名義を出す時は、社会より折角これまで開いて来た余の主意を誤解されて、「上田はやはり稲荷下げでありた」なぞの反対を受くるのみならず、本教の神聖なる名誉を毀損せん事を恐れたのであったが、既に辞令も下付せられたなり、義務としても一応総理に面会して、御礼を申しあげねばならぬし、また外に()(どう)について尋ねたい事もあるなり、ともかく修行だと思うて出発するとしたのである。
「不在中は、十分注意して神主を看守すべし。また汝も必ず『得行したり』と思い慢心すべからず。(おのが)精神次第にて、折角与えられたる力を奪い返さるる如き事なき様に心得べし。霊魂を与奪し玉う事の早き、あたかも影の形に従うが如きものなれば、決して油断慢心するべからず」と多田に申し聞かして、いよいよ旅装を整え出発す。
 その時は未だ丹波に汽車はなし。三ツ屋と二人、亀岡、王子峠なぞを夜の間に徒歩して通り過ぎ、早や沓掛村に至る時、既に東天赤く見え、旭光を拝するを得たり。両人、人力車に乗りて、午前九時四十分、京都七条駅に無事到着の上、九時四十六分の新橋行直行列車に乗り込んだり。
 恥ずかしい話であるが、余は二十八歳であるにもかかわらず、文明の(たまもの)たる汽車に乗ったのは、今度が始めてなのである。また遠国へ旅行するのも今度が始めてなのである。
 丹波の穴太なる片田舎に生まれたる余は、東は京都、伏見より知らず、西は殖生村、南は()()妙見、北は園部、船岡、つまり六里より遠方へ旅行した事はなかったが、七、八十里も旅行するのが、今度が始めてなのである。
 列車の窓より、琵琶湖上、彦根の旧城なり名古屋の金城を望見して、びっくり大声を発して車中の人々に笑われ、気がついては顔色を赤くしたり、天竜、大井、富士諸川の鉄橋を通過する列車の勇ましさなぞ、田舎者の余は夢の如くになるのであった。
 列車は早くも静岡について、余等は一先ず下車し、一時間ばかり待って再び東京列車に乗り、江尻駅に下車し、徒歩しつつ不二見村に向かって発足した。
 十七、八町ばかりにして、稲荷講社総本部に到着いたしたのは、(たそ)(がれ)であったが、三ツ屋が口癖の様に、「八百万円の御普請が出来ます」と云うから、どんな立派な宮殿社地であろうかと思って居た。余は驚かざるを得ないのである。本来有形物なる社殿を拝しに来たのではない、無形の神界を尋ねんために来たのではあったけれども、余り宮殿の荒れ果てたるには、一驚せざるを得ないのであったが、それもそのはず、明治二十四年の地震で全部破壊してしまって、その後は仮宮に鎮祭して、敷地は土工の最中なのである。
 
明治三十七年二月四日筆
 幸いに総理は在宅で、万事都合がよかったのである。一日(おく)れると、東京へ二、三週間御(のぼ)りになるのであったが、神界の御引き合わせで、折よろしく面会を得られたのである。
 先ず初見参の挨拶から、親任の御礼を申し上げて、その夜は師の宅にて二人とも御世話になったのである。寝床に入るや否や、大いに驚いたのは夜着である。余は()(とん)より生まれてから見た事は無いのに、着物の厚くして大なる如き夜具を見たので、衣服かと思うて、「何んと厚い(ぬの)()だ」と叫んで、総理の御老母や三ツ屋に笑われた事がある。
 翌日は、総理より種々の霊学に関する教示を受けたり、余の感合せし状況なり、穴太における出来事なぞをすっかり打ち明けて申し上げたのである。そうすると、総理に左の()(ことば)を賜ったのである。
「わが師に本田(ちか)(あつ)と申す国学家がありましたが、その本田という師は浅間神社の宮司であって、久能山なり富士山において、四十余年間神道を学理と実地に研究せられて、始めて皇道の(うん)(のう)に到達せられた人で、()()(よろず)(のかみ)を集めて、空中に声を発して人を驚かし、神の厳存を証明せられた事もある。またある時、私は師と(きよ)()(がた)の旅亭に宿した時、鎮魂で以て船舶を(くつがえ)して、逃げて帰りた事がありました。元よりいたずらに人の船舶を覆す考えでは無かったが、私があまりいつも師の神術がきくので、戯れに、『先生よ、彼の船は鎮魂では(くつがえ)りませんか』と云いましたら、師も『さあ、やってみよう』と何気なく一心に手を組んで居られたが、その鎮魂がよくきいてそんな事になってしまったので、師も私も意外であったのでした。また私は、師と大和の高野山に登ったが、師は例の神術で宇宙の霊を招いて、空中に大声を発せしめて、山僧を驚愕せしめられた事がありました。空中より発した大声は、『当山には破戒の俗僧ばかりで、霊山を汚して居るから、当山は三日のうちに焼き払ってやるから、しかるべく心得ろ』と(だい)(かつ)せしめられた。さあそうすると山内は大騒動である。にわかに数百の丸頭が、(しゅう)(しょう)(ろう)(ばい)して(ざい)()()(じょ)の祈祷を一心不乱になって執行して居ましたが、『実に俗僧(はい)の巣窟となって居るかと思えば、空海も気の毒な者だ』と話しつつ(かえ)って来た事もありましたが、なかなか幽斎は熟練して居られましたが、神界の(おぼし)(めし)()りまして、十年前に(せい)(きょ)されました。()(どう)のために、実に惜しい事でありました。また本田師が門人は、(そえ)(じま)(たね)(おみ)1828~1905年。佐賀出身の政治家。勲一等伯爵。伯と私と両人位でしたが、本田師の遺言には、『十年の後に到って、丹波より一人の壮年修行者が現われて来るから、その者が来てからでないと斯道は拡まらない。また丹波は、日本の始めであって、皇祖の現われ玉うた土地であるから、本教は丹波から拡まる』との諭示でありましたが、貴下は本田師の仰せられた人物に匹敵して居るから、貴下が師の大志を継ぐべき人に相違ないから、師より授かりました大切の書類を貴下に預けるから、これを以て十分勉強して貰いたい」
と仰せられて、『神伝秘書』一巻と『道の(たい)(げん)』『真道問答対』各一巻を写本のまま授与せられたから、押し戴いて読み上げてみると、(あに)(はか)らん()、余が常に高熊山において神感の際に、(こと)(たま)()(この)(みこと)に教授されたのと寸分も違わないのみならず、なおさら詳しく神教の本義が現わしてあるので、私は奇異の感に打たれつつ総理に向かって、「本田氏の神名は何んと申しますか」と問うたが、総理は「異霊彦命である」と仰せられたので、余は始めて、総理の最前よりの御話の中に「丹波から」と云われた事の事情を了解して、無上の歓楽と希望に充たされ、天にも登る心持ちがするのであった。
 ……(脱落)……に笑われた事があった位である。ここに友人というのは、車夫朋友であって、上田長次郎、寺本亀吉、美馬友吉なぞの労働者である。
 
二月五日筆
 あまり調子に乗って、筆が昔へ逆戻りした。さてそれから余は、総理の()()()で、有形の神感法を修行したのである。
 しかしただの三日の(とう)(りゅう)であったから、充分に修行する事も出来ないのは遺憾であった。
 総理に上申して、園部の内藤半吾に少監督、同所の下司熊次郎に社長、東別院村の細見栄次郎に権少監督、斎藤元市と多田琴に社長、幸吉に取締、多田亀吉にも取締に任命されん事を願って許可せられ、三ツ屋喜右衛門は一等を進められ、権少監督を拝命して大恐悦で帰丹する事となった。
 帰りに(のぞ)んで、総理より大神の御分霊一体を幽斎修行発達の守護として下付せられたので、直ちに帰国の上、祭壇を設けて鎮祭し奉った。また(あま)()の守札や「(しん)(ぱい)()」なぞ下付があった。二個の大革箱が充満したので、途中は互いに荷を持ち合いして帰国したのである。
 帰国するや、三ツ屋が鼻を高くして、ぽんぽん云うて仕方が無いから、園部の内藤へ辞令書を持たせてやった所が、()の三ツ屋、内藤の家へは近寄らずして、下司熊次郎等十四、五人の偽善者を集めて、余に反対して、園部で全権を握って、「余に出し抜けを喰わしてやろう」との企てをして居るという事が、余が帰神術で現われたので、胆力のあるといわれる斎藤を使者として、その不心得を諭さしめた。
 そうすると、下司なり三ツ屋、その(ほか)の連中が、斎藤の胆試しに色々の難題を持ち出して、ついに「血判をしてくれ」なぞというのである。元来、下司という男は、下司市という(きょう)(かく)(せがれ)なので十四、五人の侠客が後援となって居るので、なかなか容易に服従せないし、斎藤も神力も未だなし。「ここで度胸を彼らに見せておかねばならぬ」と思うて、「まあ、これを酒の(さかな)にしてもらいたい」というて、左の腕を小刀でもって一寸四方ほど切り取り差し出したので、さすがの侠客連中も下司、三ツ屋も(きも)をつぶして、一も二もなく服従する事となったのであったが、また一年経たぬうちに反旗をあげて、余の運動を大いに妨害したのである。下司の事については、記すべき事が沢山あるから、本章には大略のみ記しておく。
 三ツ屋の反抗した原因は、下司から(わい)()をとらんためであった。元来三ツ屋という人物は、智恵のない癖に腹のよくない男で、(また)(ぐら)(こう)(やく)で、旗色の()き方へ引っ付く奴である。余も、ただの一度も恐ろしい顔をした事はなかったが、実は困った事がある。金は度々とられる。衣服は、幾度となく余の衣服を無心いうては持って帰るのである。後には、下司に衣類すっかり質に入れられて、泣く泣く余の宅へ来て、「路銀を貸与して貰いたい。これから園部の下司には相手にならぬ。上田さんのような正直な人を、悪人と一つになって困らせた神罰だから、私はこれから紀伊国へ帰る」なぞと愚痴をこぼして居るので、見るに見兼ねて、羽織その他一切与えて帰国せしめたが、また一、二か月すると、下司と一緒になって反抗を試みたが、一つも成就はせないので、大いに悔悟をして居た。
 余も修行者も、日夜帰神法を練習しつつあったが、余はついに総理の霊が感合し出したので、今度は斎藤を従えて、再び総本部へ参閣したのである。「余に感合せし霊魂は、果たして師の霊なりや、あるいは偽神なりや」を確かめんために、一は(あな)()において霊学会本部設置について質問の必要が生じたから、またまた借金して五月の二十日に東上したのである。
 汽車の都合で、二人は静岡駅に降り、()(はらし)(てい)と云える旅館に投じたが、宿料の高価に驚いたのである。田舎家の宿の様に、上等でも高くて五十銭位と思うて居たから、朝出立の時、中等で一円五十銭請求せられてびっくりした事がある。
 
明治三十七年二月六日筆
 ()(はらし)(てい)に宿泊した夕、斎藤は何れへか遊びに出てしまうなり。余は一室に在って(しき)りに幽斎の修行をやって居ると、下女が茶を持ってきて、余の無言のまま(めい)(もく)静坐してる(さま)を見て、立往生をして居ると思うてか、一生懸命力限りに鼻を()まみ、その上冷水を面部一面に吹きかけたので、余はびっくりして神感を脱すと、下女は「まあまあ、大変でしたが」と青い顔してふるうて居るから、余は「神様が御懸かりになったのじゃ」と答えた。さあそうすると、主人らしいものや番頭らしいものが五、六人出て来て、「いろいろ神界の話を聞きたい」と云うから、神道の大意だけを聞かせてやると「今夕は有り難い御方が御泊りになった」というて、家内中が大喜びであった。皆々、「御客様、御休み下さい」と挨拶して引き取ってしまう。
 斎藤は未だ帰りて来ないし、ふと床の柱を見ると、扉の(とっ)()の如きものが付けてあるので、「何するものか」と思うて、手の指で押さえたり引いたりして居ると、遠い室から「はいー、はいー」と(しき)りに下女の声がする。しばらくすると、番頭が出て来て、両手をついて、「何の御用で御座りますか」と言うので、余は「何も用はない」というた。「それでも、御招きに(しき)りになりましたから」と云う。余は合点が行かぬので、「余は一言も声を立てた事はない」と答えた。「それでも、御客様は室内電信を以て御招きになりました」という。ますます合点が行かぬので、無音で居ると、番頭がいうには、「その床柱の把手が電話ですから、御用がなければどうぞ触わらないように願います」と云うので、余は「はっ」と思うと、たちまち顔が火になったような感覚が起こって来た。番頭は苦笑して二階を下りて行ってしまうた。
 その後半時間ほどして、斎藤が帰って来たので、そのような失敗談をすると、大いに悔やんで、「君は田舎者の丸出しで、いつもやるから困る。恥ずかしいから、明朝は未明に出立しよう。あまり多数人に顔を見られないように」と云うので、未明に出立して、午前六時には、既に総本部へ到着して居たのであった。
 今回も都合よく総理に面会して、霊学会本部設置の認可を得て、その上、幽斎試験の上、会長に任命せられたのである。また京都、大阪両府下の講社事務担当を命ぜられた。その時の辞令は左記の通りである。
 
   中監督  上田喜三郎
 講社規約第拾五条に()り、鎮魂帰神の二科高等得業を証す。
     明治三十一年五月二十五日
 
   中監督  上田喜三郎
 京都大阪両府下講社事務担任を命ず。
     明治三十一年五月二十五日
 
   中監督  上田喜三郎
 京都府下において霊学会本部設置の件認可し、皇道霊学会会長を命ず。
   明治三十一年五月二十六日
               稲荷講社総本部
 
 総理閣下より鎮魂の玉、御母堂より天の岩笛を拝領したが、綾部へ来るまで、師の霊として大切に肌身はなさず守って居たが、ついに中村竹蔵にわが心を籠めて授与したのである。その大切なる品を下付した余の心を無にして、稲荷講社から出たものだからと云うて、迷信の余り、明治三十五年の旧十一月頃に、園部まで突き返すと云うて、園部で紛失させてしまった。人の志を知らない迷信ぐらい、困ったものはないのである。この事は後日、詳しく(しる)すべし。
 総理さんに誘われて、清水港なり三保の松原を見物して、()()神社へも参詣した。当神社は、静岡県の県社であって、総理は当社の社司なのである。また当社には、(つねの)(みや)明治天皇の第六皇女。(かねの)(みや)明治天皇の第七皇女。両殿下の御手植の松が、本社の前面に二株植られてある。
 また当社の祭神は、()()()(ひこの)(みこと)()()()(ひめの)(みこと)である。
 社地はすこぶる広大なもので、古典にも現われたる古社なのである。
 海辺は(はく)()(せい)(しょう)、はるかに富士を望んで風景絶佳の地に、羽衣磯田の神社という宮跡があって、石標が建られて、そのそばに千年余も経たるかと思わるる老松があって、それが謡曲にいう天人が羽衣を掛けたと(とな)うる「羽衣の松」なのである。また三保神社の宝物というのはその羽衣なので、本社に未だ珍蔵されてある。余は特別を以て拝観を許されたが、二寸四面ばかりの、毛の様な黒くして光沢のある布片であったから、「先生、これが名高い羽衣ですか」と尋ねて見ると、「左様、これが俗にいう『天人の羽衣』ですが、実地は『天の羽車』というが本当です。古代高貴の人の乗物であって、本品はその破片である。(うたい)にいう『天人の羽衣』なぞは付会の説なので、『羽車』を『羽衣』と間違えたものだ」と語られた。
 三保の松原にも、この外に記すべき事はなし。海浜に丸い石の多いのと、一の鳥居辺に一の字石というて、白字で「一」の字の自然に印した石が散在せるは、ちょっと妙である。
 記事が前後するが、余が始めて三ツ屋と総本部から帰て、今回再び斎藤と参閣するまでに出来た事を、ちょっと記載せねばならぬ事がある。穴太から一里ばかり東に当たって、八田神社矢田神社=鍬山神社のこと。「八田」は底本通り。という郷社があって、亀岡町の産土神である。その神社の奥の谷間に一つの小瀑布があって、それが東向きで朝日がよく当たるので、信心者が常に()()に掛かる所であるが、余は修業中の神主を連れて、その瀑布で洗身を行って居ると、五十余りの女が、二十間ばかり下流で(しき)りに手を前後に動かして、「(なか)(とみ)(はらい)」を唱えて居るから、「御前さん、何をして居るか」と尋ねると、「私は四年前から御手移りがありまして、『もう五年間日参したら、眷属さんが御移り遊ばす』と紺屋町の稲荷下げの先生がおっしゃるので、御移りを戴いて先生になりたいと思うて、毎日水行を致して居るのです」というて、がたがた振うて居るので、よく(しら)べてみると、()()(なぶ)って居るのであるから、「可哀相に。この女は欲のために、ついには邪神界へ引き込まれるから助けてやろう」と思うて、「御前さんは実に御気の毒ながら、今私がその付き物を退去させて進ぜるから、ちょっとその場に御座りなさい」と云うと、彼女は驚いて、「(めっ)(そう)も無い事。三年も四年も修行して乗り移って(もろ)うた神さんを、勿体ない、『退けてやろう』なぞとは余りな()(かた)だ。私は悪魔でも、野狐でも、狸でも、早く神の御台さんになりてさえすりゃ好いのどす。大きに(はばか)りさん。総別、当節、若い御方は、その様な馬鹿な事を言うものじゃ」と忿(ふん)(ぜん)として早々に山を降りてしまうた。
 そうするとまた一人の若き女が登って来て、瀑布に打たれて(かみ)(がかり)を始めたから、傍らから(しら)べて見ると、かなりの()(ひょう)であるから、彼女が行を終わるのを待って、住所姓名並びに修業の来歴を尋ねた上、再会を約して、余は神主を引き連れて穴太へ帰って三日目に、またその女が余を尋ねて来たので、再び審神者をして、余の弟子たる事を許したのである。
 またその日から、余の宅は「狭くて(みぐ)るしい」と云うて、斎藤の家へ修業場を代わる事としたが、これが神慮に叶わぬのであった。余の屋敷なり宅は、神界より選まれた場所なるにもかかわらず、余は何心なく修行場を代えて、神界より大変に叱られて、総本部へ二人参詣の後で、修行者について大心配な事が出来たのであった。その事実は、次章に略記するの考えである。
 余は、尋ねて来た一人の(かみ)(がかり)(おんな)は、亀岡(はた)()町の外志筆吉という者の妻で、はるという者であるが、彼ら夫婦の願いを許して、亀岡に霊学会出張所を設置する事になり、亀岡の警察署になって居た古き建物を借りていよいよ開始する事になり、一場の演説を開き、数十名の信徒も出来て、世話方には相当の人物も加わって、なかなか好成績であったが、同町の桂熊太郎という男を社長に、井上佐太郎外七名を取締世話掛にして、今回その辞令まで下付せられる事になって居たが、一朝にして瓦解の悲運に(ほう)(そう)したのは、返す返すも遺憾の至りである。この事情は、次節に判明して来るから、今は略しおく。
 総本部に滞在中、多田亀吉より至急親展書が入り込んだので、開いて見ると、「多田琴外三名の神主がために非常な騒動が起こったから、一時も早く帰国してもらいたい」という文意である。また同日に、斎藤の父元市氏からも同様の信書が届いたので、早速神界へ伺った所、別に驚くに及ばないが、第一、修行場を(みだ)りに変更したので悪魔の試しに会わされたので、別に大騒動と云うほどでもないが、しかし余が布教上、一頓挫を招致した次第である。総理へも上申して、早速帰国の途についたのである。
 京都まで帰りて、下京の下寺町の小竹宗太郎と云う、余が弟・正一の養家へ立ち寄り、それから嵯峨へ愛宕神社の一の鳥居をくぐり、清滝より山伝いに山本村へ越して亀岡の(はた)()町へ立ち寄る考えで、仮橋を渡りて亀岡の城跡のある所へ歩を進めたのである。未だ京都鉄道は京都駅から嵯峨駅までより開通せず、谷間は工事の真最中であった。
 旅籠町の外志宅へ立ち寄って見ると、肝腎の世話方連中の待遇方は激変して居て、折角の辞令書をも辞退して受け取らないのみか、「以後、断然信仰を()めます」と異口同音に挨拶するから、その理由を聞くと、「穴太に帰神修行者が大騒動を起こして、警官が拘引した」とかいう話だから、また我々にまで飛び(しずく)が掛かってはかなわぬから、「(あや)うきに近よらず」という精神から、同盟辞職を申し()でたる次第であったが、その中の主なる役員、桂に河原なぞは、神罰でも蒙ったのか、一、二か月の間に死してしまった。
 
明治三十七年二月七日筆
 外志筆吉とはるの二名は踏み止まって、一時は熱心に講務に尽力し、(みず)()講社という名称まで授与した事があって、常に(あな)()からなり、園部方面から監督して居たが、綾部へ来るようになってから自然と中止する事になってしまった。
 駿河より余等二人、帰村してみると、斎藤の家の内外は人の山を築いて居て、中には多田琴、斎藤しづ、同たか、岩森とくの四人に、(よう)()なり()()()(てん)()が懸かって踊り回りて居る。
 (かど)(ぐち)には斎藤元市氏が、必死になって(あま)()の見物人の侵入を制して居る最中である。家の内外は、狂乱と()()とに充たされて居て、取りつく島が無いのであるが、元市氏は、先ず二人の帰国を喜んで、「とも角、話は後で(くわ)しうするが、四人の神主を(ちん)()してもらいたい」というので、直ちに()()()をしてみると、多田琴に強き妖魅が懸かっているなり。しづに常富大明神なぞ偽名して野狐の霊が懸かり、たかと、とくとにも野狐が(より)(つき)して居る事を自白したので、家の内外の者ども異口同音に、「上田は(きつね)づかいだ。その証拠には、狐の親玉が帰ったので、眷属がみな逃げてしまった」なぞと(ののし)り出して、それから後は、余を「稲荷下げだ、稲荷さんだ」なぞと(うわさ)し出して、ついに余を呼ぶに、「稲荷さん」を以てする様になったのは、返す返すも遺憾の至りである。
 修行者の親なり兄弟姉妹が、「狐を付けた」とか、「大事の娘を狂人にした」とか、「元の通りにして返せ」とか、「警察へ訴える」とか、不平ばかりを余一人へ向かって吹き掛かるなり。外には反対者ばかりである。警官は出張して質問するので、弁解しても、神理を了解せずに、ただ余を疑うばかりである。隣の治良松連中が(なぶ)りに来る。河内屋等の侠客さんが(あば)れ込む。実弟なる(よし)(まつ)(かえ)って来て神殿を破壊する。実に顕界と幽界より板ばさみに合わされるので、余の苦心は一方ならぬのである。これ全く余が気を(ゆる)して、未熟なる神主に一任して至尊至貴なる幽斎の神法を軽蔑したために、神界より大苦痛を降し玉うて、余を戒慎せしめると同時に、幽斎術を実地に練習させ玉うたので、実に神慮の深き、人心小智の()()し得べからざるものがあるのである。いでや妖魅感合の大略を、左に記す事とせん。
 せっかく丹誠を凝らして、大方仕上げた神主の多田琴が、全然(もと)に返って狂態を演じたのは、余が布教上の大妨害となったのである。多田琴の眼の角膜に朱点が出来て(ともえ)状を()して、目は無理に釣り上がって、「(われ)(ともえ)()(ぜん)だ」というて()ね回って、「天下を取る」とか、「御所が穴太に出来て、世界を一にする」とか、「因縁ある霊を神が見込んで、現世界の(たて)(かえ)をする」とか、「義経と(とも)(もり)平知盛とが、云々」と騒ぎ回って、三名の未熟な神主をつれて、「家来、(とも)して来たれ」なぞと、演劇の台詞(せりふ)を使うて、切り口上で見る人々に向かって(ののし)るのである。(すべ)て邪神なり神威なき霊の()って来た時には、大言を吐いたり、切口上を使うて、芝居の大将の真似をするのが規定である。
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