明治三十七年一月十三日筆
余は一週日の間、高熊山に立て籠もりて神教を得たるより、勇気大いに加わりたれば、この度は産土の小幡神社へ毎夜十二時頃より参詣して幽斎を修行する事としたが、追々神術に熟達する様になった。また無形の神感法を修得したが、その時の神示は次に列記する通りであった。神は前同様、異霊比古命の神感であったのである。
神、余に教え諭し玉わく。神界には正神界と邪神界とある事を了得せよ。かつ正神界は善神のみの居ます神の国にして、至高至美至楽の世界なり。
邪神界はこれに正反対にして、悪魔のみの居所なれば、至卑至醜至苦の界なり。
また正神界は高天原といい、または天国と称えて、永久に歓楽極りなき所なり。
邪神界はこれに反して、艱苦極まりなく強食弱肉の界にして、根の国、底の国といい、又は地獄と称うる暗黒界なり。地球上の各国、みなこの暗黒界に変じたれば、表面の美なる現社会は、邪神界と化して正義の光りなし。故にこの地獄界をして天国と為さしむるは、即ち汝の使命にして、天の委任し賜う所なり」と詔り玉えり。
余は、「高天原の所在は何処にありや。根の国はいずれにあるや」を問う。
神答え玉わく。
「太陽系天体中にては、日界を指して高天原といい、わが国にては伊勢神宮その他、正神の集い玉える所を云う。一家の和合したる家庭を高天原といい、清浄なる人の心の中をも高天原といい、天国とも称うべし。根の国、底の国は、悪魔・餓鬼・畜生なぞの外道国にして、今や全地球は根の国と化しさらんとせるなり。また国家より云う時は、日本国は天国にして、異邦は根の国、底の国なり。不和乱雑なる家庭も根の国なり。諸悪念の心の中も、底の国なり。故に天国に到るも、根の国に到るも、みな心の持ち様にあり。今や社会は暗黒にして天意に逆えり。世は末期に際せり。偽予言者、偽救世主、四方に興りて天下を毒し、底止する所を知らず。天災地変頻々として到り、世界は戦争場となれり。まして東洋の大波瀾を醸して。社稷危き事なり。世界各国と戦う事あらん。先ず日本と露国との戦いあり。その後また続々として災害来たるべし。故に世界の滅亡を救わんために、天より救主として汝の霊を降し玉いしなり。いでや汝に、進んで治国平天下の大綱を示さん。
治国の大本は神祇を祭祀するにあり。神祇を祭祀するの蘊奥は、神界に感合の道を修するを以て専らとするなり。そもそも神界に感合するの道は至尊至貴にして、濫りに語るべきものにあらず。わが国は世界万邦の宗国なるにも拘わらず、古典に往々その実蹟を記載せりといえども、わが国、中世以降祭祀の道衰えて、その術を失うこと久し。天祖の神伝によりて、神代の道に復するの時機到れり。神人感合の道は玄理の窮極で、皇祖の以て皇孫に伝えたる治国平天下の大本義にして、祭祀の蘊奥である。蓋し幽斎の法たる、至厳至重なれば、最も深く戒慎し智徳円満にして神意に適合したる者にあらざれば、行うべからざるものとす。何人にも伝うべからざるの意も、ここに存するのである。然りといえども、汝は神より選まれたる者なれば、その精神を練磨し、万難に撓まず屈せず、自ら彊めて止まざる時は、ついに能くその妙境に達し得て、天よりの使命を全くする事を得べし」
と教え玉いたり。
その翌日から五日間に教えられた大意を、ここに付記しておく。
天地万物の始まりは、造化の神徳によりてなるものである。真の神は生成化育の徳を具有し給う故、神気の活動してこの天地を作り、次に万物を生産し給うて、霊力体の妙用を全く遂成し玉うのである。
造化の大元を司り玉う神は、天御中主神と謂いて、無始無終の神である。また天帝とも上帝とも唱えて、宇宙間独一真神である。無始無終の「力」と無始無終の「体」とを以て、無終の万物を造り玉う。その功はまた、無始無終である。
造化三神と唱えらるる高皇産霊大神は天帝の神光であり、神皇産霊大神は神温である。太陽の光なり温なぞは、みな天帝の光温である。
天地分かれ万物類を異にするに因りて、万神相承け、万物を分掌し給うによりて、その神徳は窮り尽くる事なし。故にこれを放てば、八百万神となり、これを巻けば、一神に帰着するのである。
天帝は大精神である。しかして大精神の体たるや、至大無外である。また至小無内である。ある所無きが如く、至らざる所無き如き幽微無限のものである。聖人の眼もこれを視る事が出来ぬ。賢者の口もこれを語る事は出来ぬのである。神は隠身である。幽体であるから、その活動の力は霊妙不測のものである。
天帝は一霊四魂を以て心を造り、しかしてこれを活物に賦与し玉い、地主は三元と八力とを以て体を造り、これを万有に授与し玉うのである。故にその霊を守るものはその体である。その体を守るものはその霊である。他神ありてこれを守るのではない。これすなわち神府の大命であるから、永遠不易である。人心は大精神の分派である。いわゆる天帝の分霊である。天帝は無始無終であるから、その分霊たる人霊もまた、生なく死なき貴品である。
天帝は人霊を制御するために、太陽なり、大地なり、太陰なり、人魂を以て、各位の守神となし玉うのである。ことごとく無神府の説には信従する事は出来ないのである。
神界には正神界と邪神界との両界がある。しかして正神界の諸神は、天地を各自分掌し玉うて生成化育の徳を司り玉い、邪神界の悪神は、妖魅といいて進歩発達をいみ災害を与うる事にのみ熱中する界である。
日界の主宰は天照大御神で、天上を治め玉い、大国主神は大地に属せる幽界の事を総裁したまうのである。
正神には百八十一の階級がある。妖魅にもまた百八十一の階級がある。正神界と妖魅界とは、正邪の別と尊卑の差がある。その異なる、また天淵の違いあるを知らねばならぬ。
『古事記』や『日本書紀』に見えたる神は、正神界である。
正神界には、また眷属界がある。
眷属界には、高等眷属と中等眷属と下等眷属とがある。
神界の秘密、濫りに語るも恐れ多けれども、惟神の大道を充分に知得せしむるには、ぜひ記載せねばならないのである。俗人は、眷属といえば狐等の類と誤解して居るものが沢山あるが、神界にて眷属といえば、大神の直接の守神であって、現界で云えば大臣なぞの親任官と同じ事である。
人の魂は神となるのであるが、自ずから高下勝劣があるものである。即ち全徳なるものは上神となり、三徳なるものは中神となり、二徳なるものは下神となり、一徳なるものは最下神となるものである。
全徳なるものとは、四魂を全くしたるものの霊魂である。
三徳なるものとは、四魂のうちにて三魂まで善用したるものの霊魂である。
二徳とは二魂を善用し得たるものの霊魂である。
一徳とはただ一魂を善用したるものの霊魂である。それゆえに、一つの善事の記すべきなきものの霊魂は、草莽間に迷いつつあるのである。信仰の最も強きものでなきときは、とうてい一魂をも善用することは出来ないものである。
四魂の解については、章を重ぬるに従うて記載するの考えであるから、終わりまで誦読してもらえば判明するようにしてあるのである。
古は、体を称して「命」といい、霊を称して「神」というたのであって、幽顕の称呼が正しかったものである。
命なるものは、体異体別の義であって、「殊なる身」と云うを約めてミコトと唱えたので、最も貴重なる人の身体の意である。
聖上の御身体を「竜体」とか「玉体」とか称え奉るも、やはり異体別体という意味なので、「凡人の体とは異なりて尊貴なり」と云う意味である事を悟らねばならぬ。
神なる者は幽体隠身の義である。「幽冥の身」と云う意であり、また「かくりみ」というを縮めて神と称えるのである。即ち霊を指して神と云い、体を指して命という事になって居る。後世の国学者たるものが、鹵莽不霊にして古道の大義に通達せないから、以て命と神とを混用し、幽と顕とを同称して居るので、実に乱というべきである。
万物の精神なるものも、また、神の賦与し給うところのものであって、すなわち分霊である。しかりといえども、その霊を受くるところの体に、尊があり、卑があり、大があり、小がある。故に、かく美があり、悪が有り、賢があり、愚がありて、その千変万化の活用は究め尽くすところなきが如くである。大なる大精神の用。
万物の精神は神の分霊たる以上は、人魂もまた神の断片である。否、断片のみならず、人魂そのものは即ち神である。されば神の分霊を受けつつある獣類、鳥類、魚虫類、みな霊魂を分与せられて居るが、その霊魂もやはり神である。
たとえば、体そのものは天狗でも、狐でも、四つ足でも、長身でも、神という段に到っては別問題であるから、蛇を神とするも、狐を神と称えるも差し支えない。神界では、やはり神の一部分である。体の側から論ずる時は、万物万称であれども、霊魂上より論ずる時は、活物に宿してある精神は、みな霊魂であって神の分霊である。即ち霊魂その物は神なのである。その故に、神界にては神の階級が百八十一となるのである。総て霊魂は、神の賦与し給うところのものであるから、善悪明暗の別あるはずはないのであれども、現に正邪賢愚の別あるは、父母の気質を受ける精粗と、教育の善悪とによりて、善人となり悪人となるものである。
神の人類を現世に下し給うゆえんは、洪大なる神徳を継承し、万業を拡充せしめて、世界を完全なる神国となし給わんがためであるから、人として現世に生を承けたならば、神にも代わるの大功を立て、世の進歩を企図すべき天職を有して居るものである。
右に列記する所は神教を得る事の概略なのである。なお詳細なる真理に至っては、後に示す考えである。
予に改めて教え諭された事があるから、ちょっと記載する次第は左の件である。
「汝、この大業を遂成せんには、数多の年月を要すべし。その間には千辛万難を排して進まざるべからず。
十年の後に至って、汝始めて宇宙の大真理に接する事を得ん。その間には、前途に峻坂を見る事あるべし。数多の敵になやめらるる事あるべく、大妖魅に接して大苦難に逢遇する事あるべし。
入獄する事あるべく、精神的自殺を遂ぐる事あるべく、大疑問に包まるる事もあるべし。しかれども、汝屈するなかれ。汝をして大業を遂成せしめんために、千辛万苦を与えて、汝が真心を練らしめ、生ける神となさんための天意なれば、不屈不撓の精神を持しつつ、真理を求むるの方向に向かって猛進すべく、十年の修業成りて汝の意志始めて発揮せらるるの域に達すべし。云々」
余は、以後この神示は一刻も忘るること能わず。事に接し物に触るるに従いて、自省の力となしたりき。
明治三十七年一月十三日筆