秋山さんの鋭利針の如き頭脳を以てしても決し兼ねた難問題を、神は苦もなく解決してくだすつた。この時分から「天祐」「神助」といふ考へは秋山さんの胸に寸時も離れなくなつた。
『人間は矢張り智慧ばかりに依つては駄目だ、什麼しても最後は至誠だ。至誠通神といふ所まで行かねば本当の働きは発揮されぬ。昔から偉人と言はれた人は神通力のある人、霊智霊覚で動いた人だつたに相違ない』
斯んな考へが絶えず秋山さんの胸中を往来するやうになつた。秋山さんが此十年来矢鱈に霊覚者を求めて遍歴した動機は、この辺から源を発して居るやうであつた。迷信遍歴者の中にありても秋山さんの如きは確に最も資質のよい、最も同情に値する優等迷信遍歴者であつた。
自分が無遠慮に敢て迷信の二字を冠する所以は、秋山さんの信仰が終に自己中心の人間味を脱却し得なかつたと信ずるからである。真信仰と偽信仰との岐るる所は主として此点に在る。秋山さんは遥に常人以上に誠忠純潔の士である、又才智優越の士であつた。惜い哉秋山さんは之を自覚し過ぎて居た。ある程度迄は節を屈して神霊の前に頭をさげるが、豈夫の時に秋山自身がムクムクと飛び出して来て、全然己れを空しうすることが出来なかつた。
『智慧と学問とをさつぱり棄てて了うて、生れ赤児の心になりて、神の申すことを聴く身魂でないと真正の御用には使はれぬ。』
と大本神諭は教へてある。秋山さんはモウ一と息のところでこれが出来なかつたやうだ。「我」の強いのは結構だが、全然その「我」を折つて了ふところまで修行練磨を積む丈けの余裕を与へられずにこの世を去つた。苟くも一片の「我」が混ればモウ駄目だ。その結果は自己を中心として神を従属とする。それでは真信仰ではなくて神を鰹節にする所の偽信仰となる。隅々神慮と自我と一致する時は信者であり得るが、一朝それが相反する場合になると離反して了ふ。苦しいから厭だ。辛いから厭だ。自分の自的と違ふから厭だ、自分の思惑が立たぬから厭だ──大本の大神は決してこんな事を許さない。あらゆる試練に逢ひて、立派に之を通過し得る身魂でないと、神様は落第点数を付せらるる。大本の教の至難なる所以、現代人士が大本の信仰に入り得ず、却て悪声漫罵を放つ所以は爰に在る。世界中は余程行詰つたが、まだまだこれ位の行詰では、世界中の人間が全然「我」を棄てて神の前に平伏拝跪する事は出来さうもない。食物もない、衣服もない、住居もない、水もなければ空気もない、権力も、財力も、武力も、智力も、胆力も、何の用をも為さぬ。いよいよグウの音も出ないといふ所まで行かなければ、発根の改心、無条件の服従はとても出来さうもない。ああ世の立替の大峠、世界最後の大審判、何時ごろそれが来ることやら……。
イヤ途方もない所へ話が飛んで了つた。元へ戻つて浦塩艦除の話をつづける。
秋山さんは神示によつて浦塩艦隊が太平洋を回つて、津軽海峡に脱けることを知り得たが、さていかなる形式で之を発表すべきかに就ては聊か困つたさうだ。
『今朝霊夢によつて知らされた』
などと言つた所が、海軍部内の人は神霊の実在を知らぬものばかりだから、単に冷笑を買ふだけに終る。仕方がないから、秋山さんは霊夢を見たことは、深く自分の胸の奥深く潜めて何人にも言はず、専ら理性の判断から浦塩艦隊の行動を推定したつもりにして、自己の意見として発表したさうだ。
『自分は浦塩艦隊が必ず太平洋に突出し、津軽海峡を通過して浦塩に帰航するものと確信する。上村艦隊はこの推定の下に行動を起し、日本海の捷路を取り、津軽海峡の内面に於て敵艦隊を追撃するべきである。敵艦隊の後を追ひかけて太平洋に出るのは空しく敵を逸するの虞がある』
此意見は、無線電信で軍令部にも亦上村艦隊にも通達されたが、惜しい哉軍令部は之を採用しなかつた。そして上村艦隊をして東海岸の方面に出動せしめた。その結果流星光底に長蛇を逸し、敵は悠々として津軽海峡を通過して一旦浦塩へ入つて了つた。若しこの時秋山さんの建策、イヤ寧ろ神策が用ひられたなら、上村艦隊は八月十四日を待たず、六月の中旬に浦塩艦隊を撃沈して、一層手際よく国民の溜飲を下げ得るところであつたのだ。
兎に角、秋山さんはこの時から、豈夫の際には必ず天祐神助のあることを確信して疑はなくなつたさうだ。人間といふものは、自分の知らぬ事は到底信ずるのではないが、ただの一度でも体験があると、ガラリ態度を一変して来る。科学万能の在来の世の中でも、真剣な人、真心の人には、大抵一生に一度や二度はこの程度の体験があつたやうだ。軍人たると、政治家たると、学者たると、文学者たるとの差別がない。ただ世の中の浮ツペらな、中途半端の人間にはこれがない。無いから神の実在を疑ひ、之を信ずるものを悪口する。困つた世の中だ。が、この状態もモウ余り長くも続くまい。世界全体が思ふ存分に神力の大発動を体験して、文句ヌキに往生する時節が何うやら接近しつつあるやうだ。