自分はなだめて見たり、すかして見たり、又叱つて見たり、さまざまに手を尽して見たが、什麼しても白状せぬので、憑霊に反省を促して置いて、其の日は鎮魂を中止した。
それから二回ばかりも、引続いて鎮魂をして、言葉を尽して白状させやうと努力したが、却々頑固な狐で、ドウしても無茶を言ひ張る。
さうする中にも、一旦ほぼ治癒して居た筈の中耳炎が再発して、熾んにジタジタ膿が出る。同時に眼も鼻も、ズンズン悪化して行く。自分はほどほど当惑した。
斯うなると、大概の人は迷を起して、心配するものだが、谷本さんの態度は流石に見上げたもので、平然自若として、万事を自分に一任し、心配らしい色を見せなかつた。自分も奮発して最後の手段を執るべく決心した。自分は神前に額づきて祈願を籠めた。
『大神さまに申上げます。谷本に憑依して居る狐は、審神者の追窮に逢ひて、最早答ふる所を知らぬに拘らず、頑固に少彦名命であると主張して、悔悟の色を見せませぬ。何卒大神さまの御威徳により、その正体を露はさせて戴き度う厶ります』
それから自分は、谷本さんを金竜殿に連れ行き、他人に見られぬやう、全部の障子、襖を鎖め切りて、断乎たる決心を以て鎮魂に着手した。
神笛を吹き鳴らすこと一二分ならざるに、モウ憑霊は十分に発動状態に移つた。自分は念の為めにモ一度それに言ひきかせた。
『既に二回三回に亘りて戒告を与へ、改心を迫つてゐるに拘らず、尚ほ潔く自白するに至らず、飽までも尊き神の名を騙ることは不都合である。直に白状すればそれでよし、この上尚ほ其態度を改めざるに於ては致し方がない。大神様のお許しを以て汝の正体を露はさして呉れる。それは止むを得ざる最後の手段で、自分としても望ましくは無い。悪い事は言はぬ。穏しく白状してくれい』
『イヤ何と言はうが此方は少彦名命ぢや、嘘詐を申す神ではない』
斯うなつては最早言論の余地はなくなつた。気の毒でも草薙の神剣の威力の程を見せねばならぬ。
自分は問答を中止して、大神さまに黙祷した。
『いかにしても自白しませぬ。憑依物の正体を露はさせて戴きます』
自分もこの種の実験は初めてである。どうなることかと姿勢を構へて見て居ると、先づ谷本氏の面貌に変化を生じて来た。何処を境とも言ひ得ぬが、兎に角変つて来た。気の所為でも何でもない。
其唇は思ひ切つて一二寸も突き出で、眼の釣り具合、耳朶の動き方、誰が見ても正真正銘擬ひなしの狐である。
『鳴けツ!』
と、力ある声が覚えず、自分の下腹部から迸り出た。すると谷本さんの頭は上下に動き乍ら、
『コン! コンコン! コンコンコン! コン!』
と夜寒の空に聴えるやうな、寂しい、悲しい、狐の鳴声がその唇から漏れ出したではないか。
『跳べツ!』
又も自分の下腹部から、力ある号令が迸つた。あなやと見る間に、谷本さんの体躯は前屈みになりて、ピヨコンと四尺許りも跳んだ。
『鳴き乍ら跳ベツ!』
又も号令が一下すると、コンコン鳴き乍ら、ピヨコンピヨコンと、四十八畳の金竜殿内を、谷本さんの体躯は縦横に跳び回つた。それが約三十分間もつづいた。
『神の威力は畏ろしいものだ』
といふ感が、当人の谷本さんには無論のこと、見て居る自分にもしみじみと感じられた。
『此方へ来い!』
と、更に号令が自分の口から発せられると、谷本さんの身体は自分の前に跳んで来たが、余程肉体が疲れ切つたものと見えて、ヘトヘトになつて畳の上に倒れてしまつた。
『何うぢや、それでもまだ少彦名命と言ひ張るか』
と、自分は憑依霊に向つて言つた。すると谷本さんの肉体はムクムクと起き上つて、畳の上に両手を突いて、
『恐れ入りました。斯うなれば大神さまの御前で、何も彼も一切申上げて了ひます。少彦名命とは詐称、何を隠しませう、拙者は王子稲荷の眷属に厶ります』
『王子といふと、あの東京の?』
『左様に厶ります。昨年以来、仔細あつてこの谷本に憑きました』
『谷本の中耳炎やら、その他の病気は、その方がやらせて居るのだらうナ』
『左様で厶ります。これには深い仔細のあることで、実は、この者の生命まで奪るつもりで憑きました』
『生命まで奪るつもり……。逐一其訳を自分に話して貰ひたい』
『承知致しました。一切の事を大神様の前で申上げて了ひます』