霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(十六)

インフォメーション
題名:(十六) 著者:浅野和三郎
ページ:68
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142500c18
 大正五年から六年にかけての、冬籠(ふゆごもり)中の出来事としては、八丈島の奥山(おくやま)親子の事が、又ありありと自分の記憶に(うか)()づる。秋山さんや谷本さんのとは、全然別趣(べつしゆ)別様(べつやう)のもので、しかも意義深く興味多く、霊魂問題の研究上、どれだけ自分の(のち)の参考になつたか知れぬ。この話だけは成るべく詳しく書いて置きたいと思ふ。
 八丈島の人が親子三人づれで、丹波の山奥へ来たといふこと(だけ)で、既に既に(ひとつ)の奇蹟たるを(うしな)はぬ。(そで)振り合ふも他生(たしやう)(えん)、随分奇妙な径路(けいろ)を経て、奇妙な話が出来あがるものだと思ふ。奥山家は八丈島での旧家(きうか)で、代々名主(なぬし)を勤めたものださうな。現代の主人(あるじ)表松(へうまつ)名告(なの)る人で、年齢(とし)は四十五六、いかにも温厚な、長者の人格を(そな)へた人であつた、一時村長をやつたこともあるが、今はすべての公職に離れ、家事を見乍ら、()だブラリと悠長な月日を送つて居た。表松(へうまつ)氏は養子の身でその細君(さいくん)といふのが奥山家の家付(いへづき)の娘であつた。年齢(とし)は四十一二でもあらう、夫婦の間には数人の子女を挙げ、大正五年の春迄は何等(なんら)(かは)つたこともなく、極めて平和な、満足な家庭を営んで居た。何が呑気と言うても、斯麼(こんな)呑気な身の上は、(けだ)し多くはないに相違ない。浮世(うきよ)を離れた島の中で、生活の苦労も知らず、病気の心配もなく、村人からは尊敬を払はれて、悠々自適の生活を送るのだから、(あたか)温室(むろ)の中で、延びるだけ延びる植物のやうなもの、生命(いのち)は百までも()ちさうに思はれる境遇であつた。
 所が、この楽しい温室(むろ)の内に不図(ふと)一陣の狂風が吹き込んだ。それは十三になる三男が、大正五年の春から、妙に衰弱の兆候を(てい)したことであつた。驚き慌てて早速村の医者にかけたが、その病名が(とん)と判らない。肺でもなく、心臓でもなく、腸でもなく、胃でもない。日を経るに従つて、その衰弱は益々(くは)はるばかり。やがて学校に通ふことも出来ず、ブラブラして(とこ)(したし)むやうになつて了つた。同時に二男の十六になるのが、弟(ほど)でもないが、矢張り同一兆候を呈しかけた。
 従来苦労知らずの身の上であつた(だけ)それ(だけ)、両親の心痛苦慮は(たと)ふるに物もなかつた。かかる場合に(のぞ)むと、都合の人なち、山か海かを選んで、転地(てんち)療養でも講ずるのであるが、田舎の人は優れたる病院と医者とを求めて、大抵都会に出掛ける。ドウも人間は境遇次第で、何とか気休めの策を講じて一時の安心を買ひたがるものらしい。両者の(うち)実は何方(どちら)も感心出来ない。病気の原因は十中の九まで霊的作用で、空気や、温泉や、医薬(など)では格別の効能はない。
 それは兎も角も、奥山夫妻は、裕福な田舎者の紋切形に()で、二人の病児(びやうじ)を携へて、遠い波路を越えて、春の半ばに東京へと出た。そして大学へも行く、順天堂へも行く、その(ほか)東京中の名ある病院や、名医の門をくぐり、高い診察料を(をし)まず払つて診療を請うたのであるが、二児の不思議な病気の原因はドウしても判らずじまひで、弟の方が先づ大森の○○病院で七月頃死んで了つた。
 その頃まで、兄の病気はまだ左程に進んで居なかつたが、弟の死後その病状が急進し、しかも其容体は、その亡弟(ぼうてい)の病状とそつくりであつた。これには東京の()の医者も(さじ)を投げた。
()うせ医薬では治療の方法はない。何処(どこ)か空気の良い所へ行つて、安気(あんき)に養生でもするより(ほか)(みち)がない』
といふのが、幾人かの医師の一致せる意見であつたさうな。
 言ふまでもなく、これは体裁のよい死刑の宣告であつた。奥山さん夫婦は、泣く泣く一人に減つた病児を、鎌倉に連れて来て、小町(こまち)の裏手に(きよ)(ぼく)して居たが、無論転地(てんち)の効果は少しも見えず、冬の(はじめ)には骨と皮ばかりになつて了ひ、モウ足腰も立たなくなつて居た。
 恰度(ちやうど)その時であつた。自分は綾部に引越(ひきこ)さうとして、告別の為めに出口先生と共に、ある日鎌倉に行き、檜貝(ひがひ)機関大佐を訪問(おとづれ)た。それが不思議な縁の手蔓(てづる)で、(ここ)で初めて奥山さんと綾部との連絡がついたが、出口先生はその日病人を鎮魂されたが、不思議にも一度で(いちじる)しく効果があらはれ、久しい(あひだ)寝たきりであつた病人が、急に杖に縋つて歩き出す始末であつた。之を見て、奥山親子の()(おほい)に動いた。皇道大本の何物たるかは、まだ(すこ)しも判つては居ぬが、(ほか)何等(なんら)の目標とて無かつた(さい)とて、是非綾部へ行つて見たいといふ気になつた。
 ()んな次第で、十二月十日、自分が一家を挙げて綾部に引移(ひきうつ)つた時、奥山さんの親子三人連れも鎌倉から之に(くは)はつて同行した。綾部に着くと、大本では、取り(あへ)ず部内の一室を()いて親子を収容した。自分は来訪者の応接やら、雑誌の編輯やらで忙殺され、従つて奥山さんの事には、余り関係する(いとま)がなかつたが、四方(しかた)さんその他の役員が、かはるがはる病気の祈願をしてやり、同時に大本の神の(をしへ)を説いてきかせるべく、あらゆる労を執つたのであつた。
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