自分の綾部の感想は、ただ忙殺の一語に尽きて了つて居る。今日から当時を回想して見て、その外には別に何物も残つて居ない。道草を食ひ度いが、鞭で追ひ立てられるので、テクテク駆けり行く牛や馬の態度そのまま、自分は後から後から、矢継早に迫りくる仕事に追ひかけられて、何も彼も大概忘れて走つて行つたに過ぎぬ。
が、忙殺は自分だけかといふに、決してさうではない。程度は違ひ趣は違ふが、大本の内部の人は、大抵皆神さんからこの手で使はれて居るのだ。何とはなしに気が急いてならぬ。ただぢつとはして居られないといふのが、凡ての人の共通の気分であるやうだ。自分などは僅かに数年来のことだが、十年も二十年も以前から爰に居る人も、最初からさう感じて居たらしい。神さんの人間使用法も亦巧みなりと謂ふべしだ。
『時節がだんだん迫つて来ますでな』
斯麼事を言はれ乍ら、教祖さんは八十の老躯を提げられて、積雪三尺の丹波の冬を事ともせす、神命一下すれば、例の御神前の小机に向つて、頻に筆を運ばれた。自分も、ちよいちよいそのお室に出入したが、何がさて寒気には驚いた。さなきだに身体の引締まるやうな神様の御前である上に。座右には火の気一つだにない。ものの十分間も坐つて居る中には、総身底冷えがして来る。然るに教祖さんは、五時間も打ツ通しに仕事を続けられる。御神徳は容易に判らぬ自分達にも、この寒さだけはよく判つた。
『矢張り教祖さんには敵はない』
と衷心から畏れ入らざるを得なかつた。
出口先生は出口先生で、その神変不可思議、縦横無尽の活動をされて居た。熟睡されて居るのかと思ふと、何時の間にやら神歌の百首位を、寝床の中で作られて居る。誰かをつかまへて、例の古事記の講釈などをされて居たかと思つて居ると、夙のむかしにお池へ行つて、少年隊の子供を相手に、キヤツキヤツ言つて、二三寸もある厚氷を鉄槌で砕いて居られる。イヤ大正六年の二月頃のお池の厚氷と言つたら前後に例が無かつた。ズンズン其上を塊いてもミシリともせぬ。今日砕いて置いても、其翌朝は又張りつめて居る。二箇月に亘りて、船などは全然使用し得なかつた。
その時分、冬になると大本の役員の数がずつと減るのを常とした。これは土工も出来ず、また畠仕事も駄目といふ厳冬の季節を利用して、それぞれ布教に出懸けるからであつた。大正七年からは本部の修行者の数が激増し、これに準じて他の仕事も殖えたので、冬だからとて、役員が布教に出るといふことも出来ない事になつたが、大正六年までは、冬季布教は一の年中行事のやうなものであつた。無論当時の布教は、蓑笠、草鞋で一文無しで出懸けるのであるから、その区域は主に丹波、丹後、但馬等の近国に限られ、最近の布教宣伝のやうに、日本全土に跨るといふ訳には行かなかつたが、元のヂミな布教に、却つて一種いふべからざる妙味がめつた。出口先生でも、永い間その苦労を散々嘗められて来たので、自分などは僅かに、前期と後期との境ひ目の実状を一瞥し得たに過ぎぬ。昔の役員は、徒歩で京都まで出掛けるといふ場合に、教祖さんから五銭の小遣を戴いたものださうな。この一事で大概その頃の布教の苦労が察せられると思ふ。
斯んな風で、大本の人は一人として忙殺されて居らぬはなかつたが、自分として特に心に銘記して居るのは、当時の印刷部の忙しさであつた。活字も不完全、機械も粗末、場所は薄暗い屋根裏の一室、そしてたツた三人ばかりの素人少年の手で、兎も角も、月刊雑誌を印刷しようといふのだから、其苦労は側で見るのも涙の種であつた。四方平蔵さんの総領の熊さんが、その頃十七八で、工場長といふ格、蛍のやうな炭火で手を温めながら、古毛布などを腰に巻きつけて、屢次夜半まで夜業をつづける。之を助けるのが湯浅、秋岡両役員の子供さんで、共に十五六にしかなつて居ぬ。活字を拾ふ、組む、刷る、返す。それが済むと製本までもその手でやる。大正六年頃の「神霊界」は、実にかかる少年の献身的苦労で出来あがつたのだ。事情を知れば、印刷が拙いの、体裁が何うのと言はれた義理ではない。実に骨を削り、血を涸らしての尊い仕事であつたのだ。
『善の道の開けるのは苦労が永いぞよ』
と御神諭にお示しになつてあるが、大本神諭の天下に拡められた裏面には、斯うした永い永い苦労が伴うて居るのだつた。
現在大本の印刷部は、その頃に比ぶれば全然面目を一新するところまで進んだが、ただ残念な事には、印刷部の創立時代の模範少年たる熊さんは、今年の初夏に国替へして了つた。これにつき纏へる身魂の因縁があるらしいが、自分達にしても、熊さんを煩はしたことが多い丈それ丈痛惜に堪へられない。何にしても、大本は苦労の固りで、辛うじて吹き出る梅の花の仕組であるらしい。八時間労働だの、賃金増額だの、怠業だの、罷業だのと騒いで居る現代に、全然その反対に出る大本の遣口に対しては、世間の人もそろそろ眼を覚してよかりさうだ。