霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(九)

インフォメーション
題名:(九) 著者:浅野和三郎
ページ:37
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142500c11
 飯森さんのことを書いた以上は、什麼(どう)しても宮飼(みやがひ)慶三郎(けいざぶらう)君の事も書いて置かねばならぬ羽目になつて来た。
 この人は大阪で新聞記者生活をやつて居た青年だが、大正五年の春飯森さんの紹介で大本に入り、当時の機関雑誌「敷島新報」の編輯に従事した。自分は夏の参籠の際に、初めてこの人に逢つた。
『随分妙な男が大本に居る』
 と思つた(くらゐ)(かは)りものだ。大変な(ども)りで、半分以上その談話は聴きとれない。その(くせ)間断なく(くち)の中でブツブツ独語(ひとりごと)を言つて居る。どんな閲歴か詳しい事は知らぬが、数年以前、何か精神上の煩悶の為めに、二度までモルヒネを呑んで死に損ねたことは、「敷島新報」誌上に「生の執着」と題して宮飼(みやがひ)君自身が書いてをるから間違ひはあるまい。
 一見した第一印象では、宮飼君は余り快感を与へる人柄とは言はれない。誰が見ても、この人には何か憑依物(つきもの)があるなと思はれる風采である。常にニコニコして居るが、何処(どこ)とも知れず、人間らしからぬ一種の妖気を放散する。
 が、だんだん(したし)んで見ると、愛すべき点を発見する、上面(うはべ)にはイヤな癖と(かび)とが付着して居るが、底の方は案外正直、(むし)ろ馬鹿正直と思はれる個所がある。若しそれ、その文筆に至りては、却々(なかなか)冴えた腕を()つて居て、立派に素人離れがして居た。こんな人が、什麼(どう)してこんなうまいものを書くだらうと思はれる程であつた。
 年末に引越して来て見ると、宮飼君は依然として尾羽(をば)打枯(うちか)らして大本に(くすぶ)つて居た。自分はそのまま「神霊界」の編輯主任に宮飼君を頼んだ。口は遅いが筆は(はや)い。校正、発送、紙の買入れ、工場の監督等、一人で却々(なかなか)よく働いてくれた。文章を書いて雑誌に載せたのも余程ある。「神霊界」誌の創立時代の働き手として、忘れてはならぬ人物である。
 始終自分の並松の(きよ)にも出入(しゆつにふ)した。見懸(みかけ)によらす、あれで却々(なかなか)めかし()で、大阪へでも出掛ける段になると、よく自分の洋服などを着て行つた。この人が一日に何回となく衣服を着かへるのは大本部内で有名なものだつた。大阪の(しよく)道楽、京都の()道楽などといふが、宮飼君は大阪人の癖に道楽(だけ)は京都式であつたらしい。
 大本内部に起臥(きぐわ)して居たくせに、信仰心はさツぱり無かつた。最初の間は多少求める気はあつたやうだが、ドウも大本の信仰に入るには、余りに生命(せいめい)に対して棄鉢(すてばち)で、そして浅い小理窟が勝ち過ぎて居た、自己の生命が大切と思へぬ位の人だから、根本(こんぽん)に於て信仰の手がかりがない。宮飼君の人生観といふのは()うだつた。
『人の身の上は各人(みな)違ふが、平均して快楽の量が苦痛の量より多い人と、反対に、苦痛の量が快楽の量より多い人とに大別し得る。前者に属する者は、生きて善い事をするも結構だが、後者に属する者は、死んだ方が合理的だ。自分などは公平に考へて後者に属する』
 と。()んな人に対しては国祖の御神諭の尊き教訓も、さツぱり利き目のある道理がない。他人は御神諭を読みて改心し、安寧幸福を亨有するもよからうが、自分などは到底駄目だと最初から棄権して、(ぐわん)として腹帯(はらおび)を締めて居るのだから、如何(いかん)とも()やうがない。
『大本神諭などは(つま)らん』
 と宮飼君はよく言つたが、それは棄鉢(すてばち)の自分自身に対して(つま)らんといふことで、一般の人士に対しての言説ではないらしかつた。
 不思議なことには、宮飼君は、よく自分に鎮魂をしてくれと迫つた。やつて見ると、ただ一回の鎮魂で盛んに発動した。そして盛んに言葉を切る。ガタガタ大震動をやる。最後には、畳の上にコロリと引ツくりかへる。その憑依物(つきもの)の何であるかは、(しばら)くお預かりとして、神懸(かみがか)りで歌を作つたり、予言をやつたり、又一度は飯森さんの行動について、警告めいたることを述べたりした。その癖、宮飼君は無神無霊魂を主張する。宮飼君に言はせると、神懸り現象は(ことごと)く生理的ださうな。天下に無神論者、無霊魂論者も沢山あるが、宮飼君のやうに簡単明瞭にやツつけて、平然たる論者も、(けだ)(すくな)からう。自分などの微力では、到底かかる(がう)の者の前には、頭をさげるより(ほか)に何とも致し方がない。
 宮飼君は、たしか、大正六年の秋まで大本に居たが、元来(ぐわんらい)水と油とを混ぜたやうなもので、やがて分離するのは当然である。ある事情──それ(だけ)は言ふまい──で、宮飼君は綾部から遠ざかつた。その後は東京へ行つて、『スコブル』といふ雑誌で筆を執り、近頃は又大阪の○○○○新聞社員になつて居る。さすがに筆の立つ文士だけあつて、足掛二年の綾部生活を無駄にはせす、ちよいちよい大本の事について宮飼一流の観察を下し、新聞にも出す、雑誌にも載せる、事によると書物にでもする権幕らしい。それもよからう。水と油は永久に混らない、世はさまざまで、正神(せいしん)もあれば邪神もあり、眼明(めあ)きもおれど盲目もある。()うせ百鬼夜行の過渡時代だ。足元の明るい(うち)に、せいぜい発動することだ。
 世人(せじん)はややもずれば、現在の綾部を(ひとつ)の理想郷(ぐらゐ)に考へる。大きな取違ひだ。神諭にもある通り大本は世界の鏡で、世界の事は大本に映り、大本の事はまた世界に映る。善の鏡も悪の鏡も、何なりと()と通り取り揃へてあるのが、大本のデパートメント、ストーアであると思へば大過(たいくわ)はなからう。宮飼君についてはこの位で筆をどめて置く。
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