大正十年旧七月十二日
あまり信仰が硬くなってしまうと、融通がきかなくなって、こうしたらおしぐみの邪魔になりはせんか、ああしたら神様の御気勘にかなわないのではないかと、少しも荒魂の働きが働かなくなっている人があります。そんなことでは、到底世の中の仕事は出来ないのであります。それでは荒魂を振るい起すどころか、荒魂が全然縮まってなくなってしまっているのです。神様のお道は惟神の道で自由自在であります。信仰はあまり偏ってはいけない。立派な役員さんがこうしたら神様の御気勘にかなわんのではないだろうか、どうしたらよいでしょうと聞きに来る人がありますが、そんなことでは仕様がありません。
教祖様は厳の御魂、経のお役で信仰は硬い方ですから、例えば冬の寒い日に役員が火鉢を持って来ても、神様に対して勿体ない、神様は夜昼暑さ寒さのわかちもなく、御苦労をなさって居られるのに、火鉢にあたるなどということは誠に勿体ないと考えられ、決して火鉢にもあたられなかったのであります。
ところが私は瑞の御魂で横のお役ですから考え方がちがうのです。なるほど火鉢にあたるなどということは誠に神様に対して勿体ない。が、折角役員が持って来てくれた火鉢にあたらず、そのまま火を絶やしてしまうのは、これもかえって勿体ない、これはあたった方が勿体なくないと、こう考えるのであります。つまり教祖様と私とは、それだけの相違があるのであります。
信仰はあまり硬くなってしまってはいけない、自由自在の中に自ら統一がなければならないのです。無暗に偏って頑固になり、脱線的言行をして立派な信仰が出来たつもりでいたりするなどは間違っています。神様のお道は何もそんなにむつかしく考えるにはおよばないのであります。