昭和二年四月六日
人間の霊魂の中に、人間の内的の戒律として、省る、恥る、畏る、覚る、の五ヵ条があります。この中の省みるということに就いて、非常に深く考え過ぎていられるような傾きがあります。中には昔の聖人が言うたように、三足行っては一足あとへ戻って考えて見る、吐哺握髪とか云って一ぺん食った奴をまた一ぺん口へ出して見て噛んで食べるというふうに省るということを解釈して居る人がありますが、しかし省るということは良いことと悪いこととある。大本では進展主義であって退嬰主義でない。省るということは取違いすると退嬰主義となる。霊的の戒律ですから天の方を向いて省るのです。上さえ真直にあったら、足下は見なくても決まっている。「省」という字は少いと云う字と目という字が書いてある。「目」という字は月という字の中に日という字を入れたのであります。一の字は之を「日」というのです。目はつまり左と右が日月。月の中に目が入って居る。省るということはそういうような意味です。少し見る。上を少しづつ見るのが省るので、後を向くということは退嬰、或は引込思案です。
それで宣伝に行っても、初一念といって、初めにこの人はどういう病気だとか、この家にはこういう障りがある、というようなことがフット浮んで来るものだが、それを率直に出しかね、もし違ったら神様の名を汚すだろうなどと考える。ここが悪いのですと言って、万一それが間違ってたら笑われる、というように遠慮しているのは決して省るのではない。初一念の一というのは神でありヒである。すなわちヒは霊であり神である。初めということはやはり神ということです。それで何でもフット感じたことを直ぐにその通り言挙げすべきである。これは違っては居ないだろうか、なぞとちゅうちょする、それ退嬰主義となる。何事も神様にまかして行くのだ、宣伝使は神がお使いになるのだから、初めに感じたことをドンドン言えば良い。足もとを省みたり後ろへ手を回したりすると他の方に気がうつり、何もわからなくなって来る。神様は初一念に何でも浮ばして下さるのだから、もし間違ったらどうしよう、というような考えを起こそうものなら、かえって何でも間違うものだ。従って勇気が出なくなってしまう。
宣伝に行ってめいめいに新しい宣伝使が感じることでしょうが、ああ言っとけば良かった、やはりあすこが悪かったのだ、というように感じることがある。それ故に初めに思ったことを言い放ってしまえばよい。考え直すと二念三念四念となって、神の考えではなく、自己心に代ってしまうのである。そこのところをよく考えて貰わねばならぬ。
それから一寸腹がたつとか憎らしくなるとかいうような心が出て来た時は、その時こそ省みる必要がある。その時は曲津が憑いて自分の心を左右せんとたくらんでいるのだ。要するに天国には憎みとか妬みがない。天国の宣伝使は愛ばかりである。その外に憎みとか妬みがあったら、それは地獄界、八衢に自分がおちたということに気がついて、その時自分を省みなければならぬ。
自分に対して迫害や罵声は、馬耳東風的に見のがし聞きのがし、平和の心になって居なければならないが、万々一神の道をこぼち破ろうとした時は、大いに怒っても良い。大いに戦うても良い。それを防ぐための神の国の宣伝使であり兵士でもある。霊界物語を読んでいくと照国別らは宣伝使であって、一方には軍隊に加わったりすることがある。阿弥陀でも弥陀の利剣といって片方に剣を持って居る。これは魔を払うためである。その時にこぼたれて黙って居るということは出来ぬ。それは生命をまとに行かなければならぬ。