大正十四年八月五日
一、傲慢の態度があってはならぬ。常に相手の味方となりて、よく相手の談を受け容れるだけの浩量を持たねばならぬ。
一、信仰に入らざりし時を省みて、自分も以前はこの通りであったと相手に同情の念がなけねばならぬ。
一、学者には学者、無学者には無学者と、相手の地位職業に応じて、自分もその地位職業にある心で応対せねばならぬ。
一、へき頭から相手の説を攻撃してはならぬ。またみだりに人の批評や他宗教を批難してはならぬ、念仏もお題目もアーメンも、皆それぞれ相応の天国に上る言霊である。
一、仏教や耶蘇教信者などの家に行った時、またこれらの葬式等に列した場合は、その式に応じてお祈りをするがよい。
一、自分に偉く思わしめんがため、私は未熟でわかりませぬが神書にはこう示してあります、と正直な心で居れば、神徳をけがすこともなく、また神様の御加護があって適当な応答が出来るものである。
一、親とか夫とか兄とか師とか目上の人に対しては、説教するような宣伝の仕方はかえって悪い、むしろ教えてもらうような態度に出ねばならぬ。多くの場合、言葉の宣伝よりも、行為の上に現れた誠のやり方が一番よいのである。
一、個人宣伝すなわち相手と膝つき合しての取次が一番効果がある。もし大勢に向って取次する場合には、その中で一番判りにくいと思う人、たとえば無学の老人や小児にわかるよう、ひらたく話すことが必要である。
一、拍手喝采式の大向うを賑わすような演説屋のやり方は、仇花の一時に開くようなもので、実りは至って少ないものである。
一、宣伝使は和魂の助けによりて常に婦女子のごとく従順であれ、そして荒魂のはたらきによりて猛虎のごとく悪魔を撃退せよ。
一、宣伝使は小児に好かれねばならぬ、小児の心は神様の御心そのままであるからである。
一、信徒は誰でもそうあらねばらなぬが、殊に宣伝使となったものは、常住坐臥いつも宣伝使たるの心得を忘れてはならぬ。宣伝使として神徳をけがすような言行があれば、その罪は他の人よりもはるかに重いものである。
一、肝腎なお道をさておいて、これは秘密だとか自分ひとり聞いて居るとか、えらそうに言うたり、また明かに予言めいたことを云いふらして人心を動揺さすのは慎まねばらなぬ。
一、天の賊とならぬよう戒めねばならぬ。神示を我もの顔してエラそうに説き、御神徳を自分の力の致すところとほこるものは、天の賊であって、その罪最も大なるものである。
一、宣伝使にとりて一番肝要なことは、神様の御加護(神格内流)を頂かねばならぬことである。それには、
我を出さず常に従順なるべきこと。
如何なる場合にも神力を疑うたり敵を恐れたりしてはならぬこと。
手柄はことごとく神様に帰し、過失はみな我に在ることを覚悟すべきこと。
常に神書を拝読して居ること。
等であって、かかる人には常に諸天使の御守護(間接内流)があって、言わしめ、行わしめられるから、如何なる場合にもひけを取ることはないものである。