大正十五年十一月八日
それから宣伝使同志の心得でありますが、一方の宣伝使が巡ったあとへ、他の宣伝使が回って行くと、宣伝使の話でも浅かったり深かったり、説きようにいろいろありますから、深く説いた宣伝使のあとへ浅く宣伝する人が行くか、また浅く説く宣伝使のあとへ、深く説く宣伝使が行くかすると信者の方が迷う。迷うから自然その話が出る。その際あの宣伝使の言ったことは違っていると、けなすような宣伝使がタマにはあると聞いて居りますが、それは善くないことであろうと思います。宣伝使はすべて一体のものでありますから。自分より浅く説いて居っても、それは同じ高嶺に登るにも道がいろいろあるのと同じで、間違って居るのでないと懇切に宣り直して置かねばなりませぬ。もしそれが実際間違った説であったり、また不都合の行為があったとすれば、これを記憶しておいて本部に内報するがよろしい。それを自分が直接に言挙げしますと、怒ったり不快に思うたりする事があります。何と言われても怒らぬようになれば本当のエンゼルであるが、調べて見ると未だそんなところまで行っては居らぬようであります。宣伝使は大神様の肢体、分体であるから分体は本体に合し、本体は分体に合するという考えを常に持って居て貰わねばならぬ。
天国には罵詈とか讒謗とか怨恨とか、そういう情動は一切ないから、宣伝使は一言もそういうことが無いようにして貰わねばならぬ。信真と愛善と善言美詞ばかりでなければならない。罵詈讒謗された時いやな気持がしたり、腹が立つということは悪いというのではないが、腹が立たぬようにならねばならぬ。霊界から見ると罵詈讒謗を言う人間は、人間の風をして居らぬ。人間と思うと腹が立つ。向うを買いかぶって居るのだ。けだもののサックと思うて居ればよい。霊界物語にサックと書いてある。