大正十四年三月五日
大本も今までの役員のやり方や考えは狭小で、鎖国主義で排他的であったようです。わが神尊し、他の宗教は取るに足らんというような態度で来たが、智慧証覚と愛善信真の度合によって、それに相応したそれぞれ異った教を信じて満足しているのである。せっちん虫はせっちんで満足しているようなものである。
人間は人間の食べ物、獣はけだもの、虫類は虫類と、それぞれ相応した食物があるごとく、天国には幾千とも数知れぬ団体と階段がある。信仰団体もそれと同じく移写されて多数の宗教があるので、霊魂の餌食である宗教にも、相応して種々と種類があるのであるから、天理教を信仰する人であったら天理教の天国に行けるのである。
しかし何を信じても食い足らぬ人は、より以上徹底した教を求めるものである。大本に寄っている人は、どの既成宗教にも飽き足らない、満足出来ない人々であるから、他の宗教の信者に比較して智慧証覚の度の優れている人々で、いわゆる手に合わぬ人達であります。他の宗教のように南無阿弥陀仏、有難い有難いだけでは満足出来ない人達である。だから大本の統一はむつかしいのである。一歩進んでいる人達の集まりであるから、統一の難かしいのもむしろ当然であります。
右のような次第であるから、他の教を信仰し、それで満足している人であったら、無理に大本に引き入れなくてもよい。そういう人に出合った時は、その人の信ずる教のよい点のみを挙げて生命を与えたらよいのである。祝詞の「善言美詞の神嘉言を以て、神人をなごめ」でやったらよいのである。
右のような態度をとるときは、既成宗教にあきたらない人は、入るなと言っても入信したくなってくるものである。
すべて如何なる宗教であろうとも、世を利し、人を益し、天国を建設するをもって目的とせないものはないのであるから、その美点のみを調べて、その点をほめるようにするのである。
今後大本は世界の道義的の立替立直しをやらねばならぬ。ついてはすべてを包容し、神は一切をもって吾愛児とみそなわしたもう、その大きな気宇を持って、あまねく世人に接し、同信者間に於ては人の非を言わず、もしも悪い所のあった場合は直接に注意し合って、大同団結して神業に奉仕してほしいものであります。