霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第五章 親不知(おやしらず)〔六六七〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第20巻 如意宝珠 未の巻 篇:第2篇 運命の綱 よみ(新仮名遣い):うんめいのつな
章:第5章 親不知 よみ(新仮名遣い):おやしらず 通し章番号:667
口述日:1922(大正11)年05月13日(旧04月17日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1923(大正12)年3月15日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
松鷹彦は婆が川にはまって亡くなって以来、呆けたように川釣りにのみ日を暮らしていた。そこへ、夫婦の修験者が通りかかり、声をかける。
二人の修験者は、バラモン教の宗彦・お勝であった。二人は松鷹彦が釣り上げた川魚の亡き骸に手を合わせて拝み入った。松鷹彦は驚いて、涙を流し、すごすごと自分の茅屋に帰って行った。
宗彦とお勝は川辺の茅屋に気づいて、戸を叩いた。そこは松鷹彦の家であった。松鷹彦は中から、自分は三五教の信者で、村人も以前はバラモン教だったのが皆三五教に改心したのだから、本来はバラモン教に入ってもらうことはできない、と言う。
しかし、婆を亡くしてその霊前に供えるために毎日川魚を捕っていたのだが、そのことについて聞きたいことがあるから中へ入るように、と宗彦とお勝を招いた。
宗彦はこれを聞いて、バラモン教でも三五教でも、道理はひとつのはずなのに、本来は入ってもらうことはできない、などというのは排斥だと腹を立て、立ち去ろうとする。
松鷹彦は、そう怒らずに話を交換しようと言う。お勝も一服しようと促した。松鷹彦はお茶を汲んで出す。そして、二人が巡礼になった訳を聞いた。
宗彦は、来世が恐ろしくなってきたので、自分の犯してきた悪業の罪滅ぼしのために巡礼となったのだ、と語った。前妻の幽霊に悩まされて、お勝を置いて家を飛び出したのだが、旅の途中に自分を追いかけてきたお勝にばったり出くわして、一緒に巡っているのだ、と言う。
しかしお勝は、先に巡礼に出たのは自分であり、それを宗彦が追って来たのだ、と明かすと、宗彦は真っ赤な顔で俯いてしまった。松鷹彦は笑って、二人を羨ましいと言う。三人は四方山話に興じている。
そこへ、留公と田吾作がねじり鉢巻でやってきて、バラモン教の巡礼をかくまっているだろう、と血相を変えて松鷹彦を問い質す。そして、武志の宮の神主がバラモン教徒を家に入れたと非難する。
留公は宗彦に、この村でバラモン教は禁止だから出て行け、と言う。宗彦も、自分は巡礼であって宣伝なんぞはしない、と返して、ただ今女房に肘鉄砲を食わされて、談判をしていたものだから、と答える。
留公は面白がって話に入り、宗彦・お勝をからかいだす。田吾作も、自分も女房が欲しいのだが、誰か適当な女性はないものか、と脱線する。
宗彦は翻然として、身に着けていたものを川に投げ込んでしまい、生まれ赤子になって女房とも別れよう、と言い出す。しかしお勝も同じように、所有物を捨てて改心を示した。
留公と田吾作は、二人のために服を調達した。松鷹彦はこれも三五教の感化力のおかげだと喜ぶ。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2021-04-22 18:23:25 文字数:12535 OBC :rm2005
愛善世界社版:99頁 八幡書店版:第4輯 184頁 修補版: 校定版:103頁 普及版:41頁 初版: ページ備考:
001黄金(こがね)の波(なみ)も宇都山(うづやま)の
002山(やま)と山(やま)との谷間(たにあひ)を
003縫(ぬ)うて流(なが)るる宇都(うづ)の川(かは)
004水(みづ)も温(ぬる)みて遡(のぼ)り来(く)る
005真鯉(まごひ)緋鯉(ひごひ)や鮒(ふな)雑魚(もろこ)
006鮎(あゆ)の季節(きせつ)も漸(やうや)くに
007漁(すなど)る人(ひと)の此処(ここ)彼処(かしこ)
008中(なか)に勝(すぐ)れて背(せ)も高(たか)く
009何(なん)とはなしに逞(たくま)しき
010白髪(はくはつ)異様(いやう)の老人(らうじん)は
011立(た)つる煙(けぶり)も細竿(ほそざを)の
012先(さき)に餌(ゑさ)をば取(と)りつけて
013永(なが)き春日(はるひ)を過(す)ごさむと
014釣(つり)を楽(たの)しむ折柄(をりから)に
015川辺(かはべ)を伝(つた)ひ上(のぼ)り来(く)る
016蓑笠(みのかさ)着(つ)けた二人(ふたり)連(づ)れ
017諸行(しよぎやう)無常(むじやう)是生(ぜしやう)滅法(めつぽふ)
018生滅(しやうめつ)滅已(めつい)寂滅(じやくめつ)為楽(ゐらく)と記(しる)したる
019菅(すげ)の小笠(をがさ)を頂(いただ)きつ
020金剛杖(こんがうづゑ)に助(たす)けられ
021釣(つり)する翁(おきな)の前(まへ)に立(た)ち
022釣(つ)れますかなと阿呆面(あはうづら)
023翁(おきな)は釣(つり)に気(き)を取(と)られ
024見向(みむ)きもやらぬもどかしさ
025行者(ぎやうじや)はツカツカ側(そば)に寄(よ)り
026コレコレ爺(ぢ)さまと背(せな)叩(たた)き
027釣(つ)れますかなと又(また)問(と)へば
028情(つれ)無(な)い浮世(うきよ)の一人者(ひとりもの)
029婆(ばば)アは川(かは)に誤(あやま)つて
030寂滅(じやくめつ)為楽(ゐらく)となりました
031諸行(しよぎやう)無常(むじやう)の世(よ)の中(なか)の
032是生(ぜしやう)滅法(めつぽふ)の道理(ことわり)に
033洩(も)れぬ人生(じんせい)を果敢(はか)なみて
034余生(よせい)を送(おく)る川(かは)の辺(べ)の
035吾(わ)れは松鷹彦(まつたかひこ)翁(おきな)
036汝(なれ)は夫婦(ふうふ)の修験者(しうげんじや)
037本来(ほんらい)この世(よ)は無東西(むとうざい)
038何処有(かしよう)南北(なんぼく)此(こ)れ宇宙(うちう)
039迷(まよ)ふが故(ゆゑ)に三界城(さんがいじやう)
040悟(さと)るが故(ゆゑ)に十方空(じつぱうくう)
041食(く)うて糞(はこ)して寝(ね)て起(お)きて
042さて其(その)後(あと)は死(し)ぬるのみ
043是(こ)れが人生(じんせい)の通路(つうろ)ぞや
044汝(なんぢ)は若(わか)い年(とし)に似(に)ず
045行者(ぎやうじや)になるは何故(なにゆゑ)ぞ
046此(こ)れには仔細(しさい)あるならむ
047委曲(つぶさ)に語(かた)れと促(うなが)せば
048若(わか)き男(をとこ)は笠(かさ)を除(と)り
049蓑(みの)脱(ぬ)ぎ捨(す)てて川(かは)の辺(べ)に
050どつかと坐(ざ)して目(め)を拭(ぬぐ)ひ
051バラモン教(けう)の修験者(しうげんじや)
052宗彦(むねひこ)お勝(かつ)の両人(りやうにん)が
053一粒種(ひとつぶだね)の愛(いと)し子(ご)に
054先立(さきだ)たれたる悲(かな)しさに
055赤児(あかご)の冥福(めいふく)祈(いの)らむと
056二世(にせ)を契(ちぎ)つた妹(いも)と背(せ)が
057足(あし)に任(まか)せて雲水(うんすゐ)の
058行衛(ゆくへ)定(さだ)めぬ草枕(くさまくら)
059旅(たび)に出(い)でたる其(その)日(ひ)より
060憂(う)きを三年(みとせ)の夫婦(ふうふ)連(づ)れ
061月日(つきひ)の駒(こま)は矢(や)の如(ごと)く
062吾(わ)れを見棄(みす)てて流(なが)れ行(ゆ)く
063二人(ふたり)の果(は)ては小夜砧(さよきぬた)
064宇都山(うづやま)川(がは)の水音(みなおと)も
065悲(かな)しき無情(むじやう)の叫(さけ)び声(ごゑ)
066万有(ばんいう)愛護(あいご)の御教(みをしへ)を
067守(まも)る吾(われ)等(ら)は河海(かはうみ)に
068泛(うか)び遊(あそ)べるうろくづの
069天津(あまつ)御神(みかみ)の精霊(せいれい)の
070宿(やど)り玉(たま)うと聞(き)くからに
071翁(おきな)の釣(つり)を見(み)るにつけ
072諸行(しよぎやう)無常(むじやう)の感(かん)深(ふか)し
073生者(せいじや)必滅(ひつめつ)会者(ゑしや)定離(ぢやうり)
074世(よ)の慣習(ならはし)と云(い)ひ乍(なが)ら
075釣魚(てうぎよ)の歎(なげ)きは目(ま)のあたり
076見(み)る吾(われ)こそは痛(いた)ましく
077彼(か)れが菩提(ぼだい)を弔(とむら)ひて
078せめて吾(わが)子(こ)の冥福(めいふく)を
079祈(いの)りやらむと松鷹彦(まつたかひこ)が
080心(こころ)をこめて釣(つ)りあげし
081鮒(ふな)や雑魚(もろこ)の死骸(なきがら)に
082両手(りやうて)を合(あは)せ拝(をが)み居(ゐ)る
083松鷹彦(まつたかひこ)は驚(おどろ)いて
084竿(さを)投(な)げ棄(す)てて釣(つ)りし魚(な)を
085川(かは)の瀬(せ)目蒐(めが)けて放(はな)ちやり
086涙(なみだ)流(なが)してスゴスゴと
087茅屋(あばらや)さして帰(かへ)り行(ゆ)く
088宗彦(むねひこ)お勝(かつ)の両人(りやうにん)は
089悲哀(ひあい)の涙(なみだ)に暮(く)れ乍(なが)ら
090吐息(といき)つくづく老人(らうじん)が
091後(あと)を慕(した)うて探(さぐ)り行(ゆ)く。
092 川辺(かはべ)に建(た)てる茅屋(あばらや)を、093宗彦(むねひこ)お勝(かつ)の両人(りやうにん)は、094漸(やうや)く見(み)つけだし、095戸(と)の外面(そとも)より、
096宗彦、お勝『頼(たの)もう頼(たの)もう』
097と訪(おとな)へば、098中(なか)より以前(いぜん)の翁(おきな)、
099翁(おきな)『お前(まへ)は、100最前(さいぜん)逢(あ)うたバラモン教(けう)の巡礼(じゆんれい)だらう。101わしはバラモン教(けう)は嫌(いや)だ。102けれど最前(さいぜん)お前(まへ)の言(い)つた事(こと)に少(すこ)しばかり首(くび)を傾(かたむ)けて考(かんが)へねばならぬ事(こと)が有(あ)るやうだ。103此(この)里(さと)はバラモン教(けう)の信者(しんじや)許(ばか)りであつたが、104つい一(いち)年(ねん)許(ばか)り前(まへ)から、105三五教(あななひけう)に全村(ぜんそん)挙(こぞ)つてなつたのだから、106表向(おもてむき)這入(はい)つて貰(もら)ふ事(こと)は出来(でき)ないのだが、107川辺(かはべり)の一(ひと)つ家(や)を幸(さいは)ひ、108誰(たれ)も見(み)て居(ゐ)ないから、109そつと這入(はい)つて下(くだ)され。110わしも此(この)村(むら)の武志(たけし)の宮(みや)の神主(かむぬし)をして居(を)る者(もの)だ。111婆(ばば)アに先立(さきだ)たれ、112余(あま)り淋(さび)しいので、113毎日(まいにち)日々(ひにち)、114漁(すなど)りを楽(たの)しみ、115婆(ばば)アの霊前(れいぜん)に清鮮(せいせん)な魚(うを)を供(そな)へて、116せめてもの慰(なぐさ)めとして居(を)るのだ。117それに就(つい)てお前(まへ)に聞(き)きたい事(こと)がある。118サアサアお這入(はい)りなさい』
119宗彦(むねひこ)『バラモン教(けう)でも、120三五教(あななひけう)でも、121道理(だうり)に二(ふた)つはない筈(はず)だ。122開闢(かいびやく)の初(はじめ)から、123火(ひ)は熱(あつ)い水(みづ)は冷(つめ)たいと云(い)ふ事(こと)は、124チヤンと定(きま)つて居(ゐ)る。125それ程(ほど)バラモン教(けう)を排斤(はいせき)するのならば、126お前(まへ)の宅(うち)へ這入(はい)る事(こと)は中止(ちゆうし)致(いた)しませう。127サアお勝(かつ)、128行(ゆ)かうぢやないか』
129松鷹彦(まつたかひこ)『お前(まへ)は年(とし)が若(わか)いので直(すぐ)に腹(はら)を立(た)てるが、130マアじつくりとお茶(ちや)でも飲(の)んで、131気(き)を落(お)ち着(つ)け、132話(はなし)の交換(かうくわん)をしたらどうだな。133わしも一人暮(ひとりぐら)しで、134川端柳(かはばたやなぎ)ぢやないが、135水(みづ)の流(なが)れを見(み)て、136クヨクヨと世(よ)を送(おく)る者(もの)だから』
137お勝(かつ)『宗彦(むねひこ)さま、138お爺(ぢい)さまの仰有(おつしや)る通(とほ)り、139一服(いつぷく)さして貰(もら)ひませうか』
140宗彦(むねひこ)『そうだなア、141そんならドツと譲歩(じやうほ)して這入(はい)つてやらうか』
142松鷹彦(まつたかひこ)『サアサア這入(はい)つてやらつしやい……(小声(こごゑ)で)……バラモン教(けう)の奴(やつ)は、143どこまでも剛腹(がうばら)な奴(やつ)だなア』
144と呟(つぶや)き乍(なが)ら真黒(まつくろ)けの土瓶(どびん)から、145忍草(にんぞう)の茶(ちや)を汲(く)んで勧(すす)める。
146松鷹彦(まつたかひこ)『お前(まへ)は、147見(み)ればまだ若(わか)い夫婦(ふうふ)と見(み)えるが、148能(よ)う其処(そこ)まで発起(ほつき)したものだなア、149是(こ)れには深(ふか)い訳(わけ)が有(あ)るだらう、150一(ひと)つ聞(き)かして貰(もら)ひたいものだ』
151宗彦(むねひこ)『私(わたし)も実(じつ)の所(ところ)は、152来世(らいせ)が怖(おそ)ろしくなつて来(き)たので、153罪亡(つみほろ)ぼしに巡礼(じゆんれい)となつて、154各地(かくち)の霊山(れいざん)霊場(れいぢやう)を巡拝(じゆんぱい)し、155今日(けふ)で殆(ほとん)ど三(さん)年(ねん)、156この自転倒(おのころ)島(じま)を廻(まは)つて来(き)ました。157私(わたし)も今(いま)こそ、158斯(か)うして猫(ねこ)の様(やう)に温順(おとな)しくなつて了(しま)つたが、159随分(ずゐぶん)名代(なだい)の悪者(わるもの)でしたよ。160家妻(かない)を貰(もら)つては赤裸(まつぱだか)にして追出(おひだ)し、161押(おし)かけ婿(むこ)にいつては、162其(その)家(いへ)を潰(つぶ)し、163何度(なんど)となく嬶(かかあ)泣(な)かせの家潰(いへつぶ)しや、164後家倒(ごけだふ)し借(か)り倒(たふ)しなど、165悪(わる)い事(こと)の有(あ)らむ限(かぎ)りを尽(つく)して来(き)た所(ところ)、166最後(さいご)の女房(にようばう)が私(わたし)の不身持(ふみもち)を苦(く)にして、167裏(うら)の溜池(ためいけ)へドンブリコとやつて、168ブルブルブル、169波立(なみた)つ泡(あわ)と共(とも)に寂滅(じやくめつ)為楽(ゐらく)となつて了(しま)つた。170それから直(すぐ)に此(この)お勝(かつ)を女房(にようばう)となし、171睦(むつま)じう養家(やうか)の財産(ざいさん)を当(あて)に、172朝(あさ)から晩(ばん)まで差向(さしむか)ひで、173酒(さけ)ばつかり飲(の)んで居(を)つた所(ところ)、174嬶(かか)アの霊(れい)を祀(まつ)つた霊壇(れいだん)から夜半(よなか)頃(ごろ)になると、175ポーツポーツと青白(あをじろ)い火(ひ)が燃(も)えて来(く)る。176夫婦(ふうふ)の者(もの)は夜着(よぎ)を被(かぶ)つて、177息(いき)を凝(こ)らして慄(ふる)へて居(を)ると、178冷(つめ)たい手(て)で二人(ふたり)の顔(かほ)を撫(な)で廻(まは)す厭(いや)らしさ。179此奴(こいつ)ア先妻(せんさい)のお国(くに)の亡霊(ばうれい)ぢやと合点(がつてん)し、180一言(ひとこと)謝罪(あやま)らうと思(おも)うても、181どうしたものか声(こゑ)が出(で)て来(こ)ぬ。182長(なが)い夜中(よるぢう)厭(いや)らしい声(こゑ)がする。183冷(つめ)たい手(て)で撫(な)でる。184こいつア堪(たま)らぬと、185朝(あさ)から晩(ばん)までバラモン教(けう)のお経(きやう)を唱(とな)へ通(とほ)して居(を)ると、186其(その)夜(よ)はお蔭(かげ)で霊壇(れいだん)の怪(くわい)は止(や)んだ。187さう斯(か)うする間(うち)に、188ザアザアと雨戸(あまど)を叩(たた)く音(おと)、189それが又(また)死(し)んだ女房(にようばう)の声(こゑ)に聞(きこ)えて来(く)る。190ソツと窓(まど)から透(すか)して見(み)れば、191お国(くに)の陥(はま)つた前栽(せんざい)の池(いけ)から、192白(しろ)い煙(けぶり)が盛(さかん)に立昇(たちのぼ)り、193髪(かみ)振(ふ)り乱(みだ)した青白(あをじろ)い女房(にようばう)の顔(かほ)、194恨(うら)めし相(さう)に家(いへ)の中(なか)を見詰(みつ)めて居(を)る。195そこで女房(にようばう)に「別(わか)れて呉(く)れ、196さうしたらお国(くに)も解脱(げだつ)するであらうから」と何程(なにほど)頼(たの)んでも、197此(この)お勝(かつ)の執念深(しふねんぶか)さ、198何(ど)うしても斯(か)うしても離(はな)れて呉(く)れませぬ。199「お前(まへ)が縁(えん)を切(き)るなら切(き)つて下(くだ)さい。200池(いけ)に身(み)を投(な)げて幽霊(いうれい)になり、201お国(くに)と一緒(いつしよ)に幽霊(いうれい)同盟会(どうめいくわい)を組織(そしき)して襲撃(しふげき)してやる」……とアタ厭(いや)らしい事(こと)を吐(ぬか)しやがるので、202家(うち)に居(を)る事(こと)もならず、203巡礼姿(じゆんれいすがた)に化(ば)けて我(わが)家(や)を飛(と)び出(だ)しました。204さうすると一(いち)年(ねん)程(ほど)経(た)つた春(はる)の頃(ころ)、205辻堂(つじだう)の前(まへ)を通(とほ)れば、206一人(ひとり)の女(をんな)が癪気(しやくき)を起(おこ)して苦(くるし)んで居(を)る。207……「オイお女中(ぢよちう)、208此(この)人通(ひとどほ)りのない辻堂(つじだう)で嘸(さぞ)御(ご)難儀(なんぎ)であらう、209介抱(かいほう)してあげませう」と近寄(ちかよ)り見(み)れば豈(あに)図(はか)らむや執念深(しふねんぶか)い此(この)お勝(かつ)が巡礼姿(じゆんれいすがた)になつて、210私(わたし)の行衛(ゆくへ)を探(さぐ)して居(を)るのにベツタリ出会(でつくは)し、211アーア何(なん)とした甚(きつ)い惚方(ほれかた)だらう、212蛇(へび)に狙(ねら)はれた様(やう)なものだ。213こんな事(こと)と知(し)つたなら黙(だま)つて通(とほ)つたらよかつたのに……神(かみ)ならぬ身(み)の……アヽ是非(ぜひ)もなやと、214天(てん)を仰(あふ)いで歎息(たんそく)して居(ゐ)ました。215死(し)ねばよいのに、216お勝(かつ)の奴(やつ)、217私(わたくし)の顔(かほ)を見(み)るなり、218癪(しやく)も何(なに)もケロリと忘(わす)れ、219「アイタ、220アイタ……イタイはイタイが逢(あ)いたかつたのぢや」とぬかしやがる。221……エ、222仕方(しかた)がない、223色男(いろをとこ)に生(うま)れたが我(わが)身(み)の不仕合(ふしあは)せ、224と因果腰(いんぐわごし)を定(さだ)め、225嫌(きら)ひでもない女房(にようばう)を……アタ恰好(かつかう)の悪(わる)くも何(なん)ともない……かうして伴(つ)れて歩(ある)いて居(を)りますのだ』
226お勝(かつ)『コレ宗(むね)さま、227何(なに)を言(い)ひなさる。228そりやお前(まへ)の事(こと)ぢやらう。229飛(と)んで出(で)たのは妾(わたし)ぢやないか。230お前(まへ)、231お国(くに)の亡霊(ばうれい)が出(で)るのは、232妾(わたし)が後妻(ごさい)に入(い)り込(こ)んだのがお気(き)に容(い)らぬのであらう。233妾(わたし)さへ出(で)れば家(いへ)は無事(ぶじ)太平(たいへい)、234お国(くに)の霊(れい)も解脱(げだつ)遊(あそ)ばすに違(ちがひ)ない。235是(こ)れ丈(だけ)惚(ほ)れた爺(おやぢ)、236何(なん)と言(い)つても暇(ひま)を呉(く)れる気遣(きづかひ)はない、237妾(わたし)から飛(と)び出(だ)すのが上分別(じやうふんべつ)だと、238お前(まへ)に酒(さけ)をドツサリ飲(の)まし、239夜陰(やいん)に紛(まぎ)れて巡礼姿(じゆんれいすがた)となり、240バラモン教(けう)のお経(きやう)を称(とな)へつつ、241お国(くに)の冥福(めいふく)を祈(いの)つて、242霊山(れいざん)霊地(れいち)を参拝(さんぱい)して彷徨(さまよ)ふ折(をり)しも、243辻堂(つじだう)の中(なか)で一人(ひとり)の男(をとこ)が、244一(いつ)尺(しやく)位(くらゐ)な光(ひか)る物(もの)をニユツと出(だ)し、245腹(はら)を出(だ)して自殺(じさつ)を図(はか)らうとして居(ゐ)る者(もの)がある。246何処(いづこ)の誰人(たれびと)かは知(し)らねども、247是(こ)れが見捨(みす)てて行(ゆ)かれようかと、248吾(わが)身(み)を忘(わす)れて躍(をど)りかかり、249其(その)光(ひか)る短刀(たんたう)をひつたくり、250……「モシモシ如何(いか)なる事情(じじやう)か知(し)りませぬが生(せい)は難(かた)く死(し)は易(やす)し、251先(ま)づ先(ま)づ気(き)を落(お)ち着(つ)けなさいませ」……と女(をんな)の細腕(ほそうで)に全身(ぜんしん)の力(ちから)を籠(こ)めて止(とど)むれば、252「イヤどこのお女中(ぢよちう)か知(し)りませぬが、253私(わたし)はどうしても死(し)なねばならぬ深(ふか)い理由(わけ)が有(あ)る。254お慈悲(じひ)は却(かへつ)て無慈悲(むじひ)となる。255どうぞ此(この)腕(うで)放(はな)しやンせい」……と無理(むり)に振放(ふりはな)さうとする。256妾(わたし)はバラモン教(けう)のお経(きやう)を一生(いつしやう)懸命(けんめい)に唱(とな)へて居(を)ると、257其(その)男(をとこ)は……「可愛(かはい)い女房(にようばう)は幽霊(いうれい)が怖(こは)さに家(いへ)を飛(と)び出(だ)し、258行衛(ゆくゑ)不明(ふめい)となりました。259今迄(いままで)沢山(たくさん)女(をんな)も有(も)つて見(み)たが、260あの位(くらゐ)気(き)の好(よ)い、261綺麗(きれい)な女房(にようばう)は持(も)つた事(こと)がない。262あの女房(にようばう)と添(そ)はれぬのなら此(この)世(よ)の中(なか)に生(いき)て居(を)つても、263何(なに)楽(たのし)みも無(な)い。264此(この)広(ひろ)い世(よ)の中(なか)を十(じふ)年(ねん)や二十(にじふ)年(ねん)探(さが)し廻(まは)つた所(ところ)で会(あ)へるとも会(あ)へぬとも分(わか)りませぬ。265娑婆(しやば)の苦(く)を遁(のが)れる為(ため)に、266此(この)場(ば)で腹(はら)掻(か)き切(き)つて浄土(じやうど)参(まゐ)りをするのだ。267ヒヨツとしたら女房(にようばう)も先(さき)にいつてるかも知(し)れませぬ」……と云(い)つて見(み)つともない、268女(をんな)の一人(ひとり)位(ぐらゐ)に生命(いのち)を捨(す)てようとする馬鹿(ばか)な奴(やつ)は、269どこの何者(なにもの)かと能(よ)く能(よ)く月影(つきかげ)に照(てら)して見(み)れば、270アタ気色(きしよく)の悪(わる)く無(な)い、271此(この)人(ひと)でしたよ。272まるで蛇(へび)に狙(ねら)はれた蛙(かへる)の様(やう)なものだと、273因果(いんぐわ)を定(さだ)めて、274此処(ここ)まで随(つ)いて来(き)てやつたのですよ』
275 宗彦(むねひこ)は真赤(まつか)な顔(かほ)して俯向(うつむ)く。276松鷹彦(まつたかひこ)は、
277松鷹彦『アハヽヽヽ、278随分(ずゐぶん)おめでたいローマンスを沢山(たくさん)に拝聴(はいちやう)致(いた)しました。279千僧(せんぞう)万僧(ばんぞう)の読経(どくきやう)よりも、280宅(うち)の婆(ばば)アが聴(き)いて喜(よろこ)ぶ事(こと)でせう。281此(この)爺(ぢい)だつて素(もと)より木(き)や石(いし)では無(な)い。282若(わか)い時(とき)にや、283随分(ずゐぶん)情話(じやうわ)の種(たね)を蒔(ま)いたものだ。284しかし過越(すぎこし)苦労(くらう)は止(や)めて置(お)きませうかい。285また姑(しうとめ)の十八(じふはち)を言(い)つて誇(ほこ)ると思(おも)はれても詰(つま)らぬからな、286アハヽヽ。287併(しか)しお前(まへ)達(たち)はさうして夫婦(ふうふ)仲良(なかよ)く意茶(いちや)つき喧嘩(げんくわ)をチヨコチヨコやつて、288天下(てんか)を遍歴(へんれき)して居(を)れば随分(ずゐぶん)面白(おもしろ)からう。289……わしもお前(まへ)等(ら)夫婦(ふうふ)の苦楽(くらく)を共(とも)にする状態(じやうたい)を見(み)て羨(うらや)ましうなつて来(き)た。290どうしても人間(にんげん)は異性(いせい)が付(つ)いて居(を)らねば、291世(よ)の中(なか)が何(なん)ともなしに寂(さび)しくて、292春(はる)の暖(あたた)かい日(ひ)も冷(つめ)たい様(やう)な気分(きぶん)がするものだ』
293宗彦(むねひこ)『あなたのやうに年(とし)が寄(よ)つて、294行先(ゆくさき)の短(みじか)い爺(ぢい)さまでも、295ヤツパリ女房(にようばう)が要(い)りますかなア』
296松鷹彦(まつたかひこ)『定(きま)つた事(こと)だよ。297雀(すずめ)百(ひやく)まで牝鳥(めんどり)忘(わす)れぬと云(い)つて、298年(とし)が寄(よ)れば寄(よ)る程(ほど)、299皺苦茶(しわくちや)婆(ばば)でも恋(こひ)しうなるものだ。300夫婦(ふうふ)と云(い)ふものは、301若(わか)い時(とき)よりも年(とし)が寄(よ)つてから本当(ほんたう)の力(ちから)になるものだ。302若(わか)い時(とき)には春(はる)の蝶(てふ)が彼方(あちら)の白(しろ)い花(はな)や此方(こちら)の黄色(うこん)の花(はな)に飛(と)び交(か)ひて、303花(はな)の唇(くちびる)にキツスをする様(やう)に、304花(はな)も亦(また)喜(よろこ)んで受(う)けてくれるが、305斯(か)う体中(からだぢう)に皺(しわ)が寄(よ)り、306皮(かは)が余(あま)つて来(き)、307竹笠(たけがさ)の様(やう)に骨(ほね)と皮(かは)ばつかりになつて、308胃病(ゐびやう)の看板然(かんばんぜん)と痩衰(やせおとろ)へては、309誰(たれ)だつて見向(みむ)いてもくれやしない。310其(その)時(とき)には本当(ほんたう)の力(ちから)になつてくれる者(もの)は、311爺(ぢい)に対(たい)しては婆(ばば)ア、312婆(ばば)アの力(ちから)になる者(もの)は爺(ぢい)だ。313何程(なにほど)可愛(かはい)い子(こ)が沢山(たくさん)有(あ)つてもヤツパリ大事(だいじ)の話(はなし)は、314夫婦(ふうふ)でなければ、315打解(うちと)けて話(はな)せるものぢやない。316……アヽ中年(ちうねん)にやもを鳥(どり)になる者(もの)程(ほど)不幸(ふかう)な者(もの)は有(あ)りませぬワイ』
317宗彦(むねひこ)『若(わか)い時(とき)の心(こころ)と、318年(とし)の寄(よ)つた時(とき)の心(こころ)とは、319それ丈(だけ)違(ちが)ふものですかいな。320我々(われわれ)から見(み)ると、321爺(ぢい)さまが皺苦茶(しわくちや)婆(ばば)を可愛(かはい)がり、322婆(ばば)アが又(また)目(め)から汁(しる)を出(だ)し、323水(みづ)ばなを垂(た)れ、324歯糞(はくそ)をためて枯木(かれき)の様(やう)になつた、325不潔(きたな)い爺(おやぢ)を大切(たいせつ)にするのを見(み)ると胸(むね)が悪(わる)い様(やう)な気(き)がするものだが、326なんと人間(にんげん)と云(い)ふものは合点(がつてん)のゆかぬものですなア』
327松鷹彦(まつたかひこ)『お前(まへ)達(たち)は庚申(かうしん)の眷属(けんぞく)の様(やう)に、328あつちやの枝(えだ)に止(と)まつては小便(せうべん)を掛(か)け、329こつちやの枝(えだ)に止(と)まつては小便(せうべん)を垂(た)れて、330結構(けつこう)な人間(にんげん)を弄物(おもちや)の様(やう)に取扱(とりあつか)ひ、331色(いろ)が白(しろ)いの、332黒(くろ)いの、333背(せい)が高(たか)いの短(みじか)いのと、334小言(こごと)を云(い)つて居(ゐ)られるが、335わしの様(やう)な世捨人(よすてびと)になつて了(しま)へば、336誰(たれ)も相手(あひて)になる者(もの)はありやしない。337蚊(か)だつて味(あぢ)が悪(わる)いと云(い)つて吸(す)ひ付(つ)きにも来(き)てくれやしない。338本当(ほんたう)に寂(さび)しいものだ。339それで、340せめて婆(ばば)アの幽霊(いうれい)になりと、341好(すき)な魚(うを)を毎日(まいにち)供(そな)へてやつて、342追懐(つゐくわい)して居(を)るのだ。343わしの真心(まごころ)が通(かよ)うたと見(み)えて、344婆(ばば)アは毎晩(まいばん)床(とこ)の間(ま)に現(あら)はれ、345わしと一緒(いつしよ)に飯(めし)も食(く)ひ、346茶(ちや)も飲(の)み、347それはそれは大切(たいせつ)にしてくれるが、348併(しか)し何(なん)となしに便(たよ)りないものだ。349嬉(うれ)しいと云(い)ふ表情(へうじやう)は見(み)せるが、350唯(ただ)の一言(ひとこと)も爺(ぢい)さまとも、351爺(おやぢ)どのとも言(い)やアしない。352是(こ)れ丈(だけ)が現幽(げんいう)処(ところ)を異(こと)にした為(ため)でもあらうが、353どうぞお前(まへ)さまも今晩(こんばん)泊(とま)つて、354婆(ばば)アの幽霊(いうれい)を一遍(いつぺん)見(み)なさつたらどうだ。355お茶(ちや)位(くらゐ)は汲(く)んでくれるなり、356冷(つめ)たい手(て)でお前(まへ)の様(やう)な若(わか)い男(をとこ)なら握手(あくしゆ)して呉(く)れるかも知(し)れやしないぞ。357そりやマア親切(しんせつ)な者(もの)だ。358死(し)んでからでも、359斯(こ)んな目脂(めやに)、360鼻汁(はなじる)を垂(た)れる爺(ぢい)を慕(した)うて来(く)るのだから、361わしもドツかに好(い)い所(ところ)があるのだらう、362アハヽヽヽ』
363宗彦(むねひこ)『お爺(ぢい)さま本当(ほんたう)に出(で)るのかい。364……イヤお出(で)ましになるのかい。365私(わたし)はもう幽(いう)サン丈(だけ)は真平(まつぴら)御免(ごめん)だ。366併(しか)し随分(ずゐぶん)よう惚(のろ)けたものですな』
367松鷹彦(まつたかひこ)『きまつた事(こと)だよ。368淋(さび)しいやもをの前(まへ)で艶(つや)つぽい意茶(いちや)つき話(ばなし)を聞(き)かされて、369大変(たいへん)にわしも若(わか)やいだ。370返礼(へんれい)の為(ため)に一寸(ちよつと)秘密(ひみつ)の倉(くら)を開(あ)けて見(み)せたのだ。371夫婦(ふうふ)と云(い)ふものはマアざつと斯(こ)んなものだ。372夫婦(ふうふ)の中(なか)の愛情(あいじやう)は若(わか)いお方(かた)には一寸(ちよつと)には分(わか)るものぢやない。373併(しか)しお前(まへ)さまは最前(さいぜん)柳(やなぎ)の木(き)の側(そば)で、374私(わし)が釣(つり)して居(ゐ)る時(とき)に、375一粒種(ひとつぶだね)の子(こ)に放(はな)れたのが悲(かな)しさに巡礼(じゆんれい)に廻(まは)つたと云(い)うたぢやないか。376今(いま)聞(き)けば子(こ)に別(わか)れたと言(い)ふのは全(まつた)くの嘘(うそ)だらう。377そんな憐(あは)れつぽい事(こと)を云(い)つて、378世人(よびと)の同情(どうじやう)を買(か)ひ、379殊勝(しゆしよう)な若夫婦(わかふうふ)だと言(い)はれようと思(おも)つて嘘八百(うそはつぴやく)を言(い)ひ並(なら)べて歩(ある)くのだらう』
380宗彦(むねひこ)『本来(ほんらい)無東西(むとうざい)、381何処有(かしよう)南北(なんぼく)、382色即(しきそく)是空(ぜくう)、383空即(くうそく)是色(ぜしき)、384有(あ)ると思(おも)へば有(あ)る、385無(な)いと思(おも)へば無(な)い。386死(し)んだと思(おも)へばヤツパリ死(し)んだのぢや。387併(しか)し私(わたし)の子(こ)を殺(ころ)したと云(い)ふのは、388ホギヤホギヤと唄(うた)ふ子(こ)ぢやない。389日(ひ)が暮(く)れるのを待(ま)ち兼(か)ねて妙(めう)な手(て)つきをして…コレコレ宗彦(むねひこ)さま、390夜(よ)も大分(だいぶ)に更(ふ)けました。391隣(となり)のお竹(たけ)さまはモウ就寝(やすま)しやつたと見(み)えて砧(きぬた)の音(おと)が止(と)まつた。392あんたも好(い)い加減(かげん)にお就寝(やす)みなさいませ。393又(また)明日(あす)が大事(だいじ)ですから……と妙(めう)な目付(めつき)して褥(しとね)を布(し)いて呉(く)れる……猫(ねこ)が死(し)んだと云(い)ふのだ。394猫(ねこ)かと思(おも)へばチウチウと啼(な)く事(こと)もある。395猫(ねこ)か鼠(ねずみ)か赤(あか)ん坊(ばう)か知(し)らぬが、396わしはマア、397ニヤンチウ運(うん)の悪(わる)いものだと、398ミカシラベにハラバヒ、399御足辺(みあしべ)にハラバヒテ泣(な)き給(たま)ふ時(とき)現(あ)れませる神(かみ)は、400ウネヲのコノモトにます泣沢女(なきさはめ)の神(かみ)と云(い)ふ』
401松鷹彦(まつたかひこ)『アハヽヽヽ、402それは古事記(こじき)の焼(や)き直(なほ)しぢやないか』
403宗彦(むねひこ)『古事記(こじき)の焼(や)き直(なほ)しぢやから、404若夫婦(わかふうふ)が乞食(こじき)に歩(ある)いとるのだ。405お前(まへ)さまも年(とし)を老(と)つた癖(くせ)に合点(がつてん)の悪(わる)い人(ひと)だな。406余程(よほど)耄碌(まうろく)したと見(み)えるワイ。407太公望(たいこうばう)気取(きど)りで、408何時(いつ)まで川(かは)の縁(ふち)で魚(うを)を釣(つ)つて居(を)つても、409西伯(せいはく)文王(ぶんわう)は釣(つ)れやしない。410婆(ばば)アの幽霊(いうれい)だつて喰(く)ひ付(つ)きやしませぬぞえ。411良(い)い加減(かげん)に諦(あきら)めて、412殺生(せつしやう)は廃(や)めなされ。413五生(ごしやう)が大事(だいじ)だ、414そんな六生(ろくしやう)な事(こと)をすると七生(しちしやう)迄(まで)浮(うか)ばれぬからなア。415今(いま)斯(か)うして婆(ば)アさまの噂(うはさ)をして居(を)ると、416冥土(めいど)に御座(ござ)るお竹(たけ)さまが今頃(いまごろ)にや八九生(はつくしやう)と嚔(くさめ)でもして居(を)るだらう。417十生(としやう)も無(な)い爺(おやぢ)だと恨(うら)んで御座(ござ)るであらうのに、418思(おも)へば思(おも)へばお爺(ぢい)さま、419私(わたし)も身(み)に詰(つま)されて、420悲(かな)しうも何(なん)ともありませぬワイ。421……アンアンアン』
422と目(め)に唾(つばき)を付(つ)け泣(な)いて見(み)せる。
423松鷹彦(まつたかひこ)『年(とし)が寄(よ)つて目(め)がウトイと思(おも)つて、424そんな俄作(にはかづく)りの同情(どうじやう)の涙(なみだ)を零(こぼ)して見(み)せても、425声(こゑ)の色(いろ)に現(あらは)れて居(を)る。426お前(まへ)さまアタむさくるしい。427唾(つば)を日月(じつげつ)にも譬(たと)ふべき両眼(りやうがん)にこすりつけて、428そんな虚礼(きよれい)虚式(きよしき)的(てき)な巧言(じやうず)は廃(や)めて貰(もら)ひませうかい。429本当(ほんたう)に唾棄(だき)すべき心事(しんじ)と云(い)ふのは常習(じやうしふ)乞食(こじき)の遍歴(へんれき)行者(ぎやうじや)の馬鹿(ばか)夫婦(ふうふ)……オツトドツコイ若夫婦(わかめおと)連(づ)れ、430モウモウわしも何(なん)だか胸(むね)が悪(わる)くなつて来(き)た。431サアサア早(はや)く此処(ここ)を立(た)つて貰(もら)ひませう』
432宗彦(むねひこ)『ハハア、433俺(おれ)が宗彦(むねひこ)ぢやと思(おも)つて、434胸(むね)が悪(わる)うなつたなぞと、435爺(ぢい)さま随分(ずゐぶん)腹(はら)が悪(わる)いな』
436松鷹彦(まつたかひこ)『腹(はら)が悪(わる)いから、437ムカつくのだよ。438此(この)冬枯(ふゆが)れの木(き)の様(やう)な寂(さび)しい爺(ぢぢ)イの所(とこ)へ出(で)て来(き)て、439お安(やす)くもないローマンスを見(み)せ付(つ)けられて堪(たま)るものかい。440お前(まへ)も世界(せかい)を遍歴(へんれき)して、441苦労(くらう)の味(あぢ)が分(わか)つて居(を)るなら、442気(き)を利(き)かして、443トツトと帰(かへ)つたらどうだ。444併(しか)し乍(なが)らウラル教(けう)の言(い)ひ草(ぐさ)だないが、445一寸先(いつすんさき)や暗(やみ)の夜(よ)だ、446諸行(しよぎやう)無常(むじやう)だ。447随分(ずゐぶん)足許(あしもと)に気(き)を付(つ)けて行(ゆ)きなされ。448左様(さやう)なら……』
449お勝(かつ)『モシモシお爺(ぢい)さま、450此(この)宗彦(むねひこ)はチツト智慧(ちゑ)を落(おと)して来(き)てますから、451どうぞ気(き)に障(さ)へて下(くだ)さいますな。452妾(わたし)だつて斯(こ)んな分(わか)らずやと旅行(りよかう)するのは、453胸(むね)が悪(わる)いのだけれど、454妾(わたし)が尻(しり)を振(ふ)れば宗(むね)さまが腹(はら)を立(た)て、455腰(こし)を据(す)ゑて頑張(ぐわんば)り、456手(て)にも足(あし)にも合(あ)はないから、457口惜(くや)し乍(なが)ら目(め)を塞(ふさ)いで、458鼻持(はなもち)ならぬ香(にほひ)のする男(をとこ)を連(つ)れて歩(ある)いて居(を)るのだ。459本当(ほんたう)に好(す)かぬたらしい野郎(やらう)ですよ』
460宗彦(むねひこ)『コラコラお勝(かつ)、461貴様(きさま)は何処(どこ)までも夫(をつと)を馬鹿(ばか)にするのか』
462お勝(かつ)『ヘン、463夫(をつと)なんて、464膃肭臍(をつとせい)が聞(き)いて呆(あき)れますワイ。465お前(まへ)さまは人(ひと)の宅(うち)を、466女房(にようばう)の有(あ)る身(み)を以(もつ)て、467毎晩(まいばん)々々(まいばん)連子(れんじ)の窓(まど)を覗(のぞ)きに来(き)て、468水門壺(すゐもんつぼ)へ落込(おちこ)み恥(は)ぢをかき、469結局(しまひのはて)にはお勝(かつ)さまを呉(く)れねば、470死(し)ぬとか、471走(はし)るとか、472男(をとこ)らしうもない吠面(ほえづら)かわいて、473近所(きんじよ)合壁(がつぺき)に迷惑(めいわく)を掛(か)けたぢやないか。474それを先妻(せんさい)のお国(くに)さまが苦(く)にして病気(びやうき)を起(おこ)し、475とうとう帰(かへ)らぬ旅(たび)に赴(おもむ)かしやつた。476墓(はか)の土(つち)のまだ乾(かわ)かぬ前(さき)に、477無理(むり)矢理(やり)に妾(わたし)を是非(ぜひ)共(とも)と言(い)つて、478ひつぱり込(こ)んだと云(い)ふデレさんだから、479妾(わたし)もホトホトと愛想(あいさう)が尽(つ)きて来(き)た。480三文(さんもん)一文(いちもん)助(たす)けて貰(もら)うたのでもなし。481嫁入(よめいり)に持(も)つていつた着物(きもの)も帯(おび)も、482何(なに)も何(か)も六一(ろくいち)銀行(ぎんかう)へ無期(むき)徒刑(とけい)に落(おと)して了(しま)ひ、483本当(ほんたう)に仕方(しかた)のない男(をとこ)だよ。484誰(たれ)か目鼻(めはな)のついた女(をんな)が出(で)て来(き)て、485お前(まへ)を喰(く)はへて帰(い)んで呉(く)れるものがないかと、486朝(あさ)から晩(ばん)まで聞(きこ)えぬ様(やう)に暗祈(あんき)黙祷(もくたう)を続(つづ)けて居(を)るのだが、487根(ね)つから、488金勝要(きんかつかねの)大神(おほかみ)さまもどうなさつたのか、489添(そ)ひたい縁(えん)なら添(そ)はしてもやらう、490切(き)りたい縁(えん)なら切(き)つてもやらうと仰有(おつしや)る癖(くせ)に、491此(この)頃(ごろ)は神(かみ)さまも聾(つんぼ)になられたと見(み)えて、492見向(みむ)きもして下(くだ)さらない。493……アヽ残念(ざんねん)な、494口惜(くや)しい、495……わしはお国(くに)の霊魂(れいこん)ぢや、496アンアンアン』
497宗彦(むねひこ)『何(なん)だ、498最前(さいぜん)から俺(おれ)の……善(よ)くもない事(こと)の棚卸(たなおろし)ばつかりやりやがると思(おも)へば、499お国(くに)と二人(ふたり)連(づれ)だな。500随分(ずゐぶん)厭(いや)らしい奴(やつ)を連(つ)れて歩(ある)いたものだワい』
501お勝(かつ)『半顕(はんけん)半幽(はんいう)だよ。502幽顕(いうけん)一致(いつち)、503霊魂(みたま)の奥(おく)にはおくにさまが納(をさ)まつて御座(ござ)るのだ。504お国(くに)は何処(いづこ)と尋(たづ)ねて見(み)れば、505……アイわたしは阿波(あは)の徳島(とくしま)で御座(ござ)ります、506……と云(い)ふ様(やう)なものです、507オホヽヽヽ』
508宗彦(むねひこ)『爺(おやぢ)さま、509一(ひと)つ……あなたも武志(たけし)の宮(みや)の神主(かむぬし)さまと云(い)ふ事(こと)だから、510一遍(いつぺん)此奴(こいつ)を審神(さには)して下(くだ)さらぬか。511お国(くに)を放(ほ)り出(だ)して、512お勝(かつ)の本当(ほんたう)の肉体(にくたい)ばつかりにして下(くだ)さいな』
513松鷹彦(まつたかひこ)『ソリヤお前(まへ)さま可(い)けませぬぞえ。514結構(けつこう)な神(かみ)様(さま)の御(お)神懸(かむがか)りだ。515国常立(くにとこたちの)尊(みこと)様(さま)の御(ご)分霊(ぶんれい)かも知(し)れんぞや。516イロイロに化(ば)けて化(ば)けて此(この)世(よ)を御(ご)守護(しゆご)なさる神(かみ)様(さま)ぢやから……天勝(あまかつ)国勝(くにかつ)と云(い)つて、517お国様(くにさま)がお懸(かか)りなさつて御(ご)守護(しゆご)して御座(ござ)るのだ。518さうしてお前(まへ)は女房(にようばう)のお勝(かつ)に甘(あま)いだらう。519そこでアマカツ、520国(くに)カツだ。521……結構(けつこう)な国所(くにとこ)を立(た)ち退(の)いて来(き)たから、522国所立(くにとこた)ち退(の)きの命様(みことさま)の御(ご)守護(しゆご)だよ。523俺(わし)の様(やう)な者(もの)がウツカリ審神(さには)でもしようものなら、524それこそ又(また)俺(わし)が憑(の)りうつられて、525年(とし)が寄(よ)つてから住(す)み慣(な)れし第二(だいに)の故郷(こきやう)を後(あと)に国所(くにとこ)立退(たちの)きの命(みこと)にならねばならぬから、526マア此(この)審判(さには)は御免(ごめん)蒙(かうむ)らうかい』
527 お勝(かつ)俄(にはか)に体(からだ)を振(ふ)り、528神懸(かむがか)り状態(じやうたい)になり、
529お勝(かつ)『金勝要(きんかつかねの)大神(おほかみ)であるぞよ。530切(き)りたい縁(えん)なら切(き)つてもやらう。531添(そ)ひたい縁(えん)なら添(そ)はしてはやらぬぞよ。532宗彦(むねひこ)は今迄(いままで)沢山(たくさん)な女(をんな)をチヨロまかした罪悪(ざいあく)の報(むく)いに依(よ)りて、533唯今(ただいま)限(かぎ)りお勝(かつ)との縁(えん)を切(き)るぞよ。534ウーンウンウン』
535松鷹彦(まつたかひこ)『アハヽヽヽ、536お勝(かつ)さま、537ウマイウマイ、538モウ一(ひと)しきり神懸(かむがか)りをやつて下(くだ)さい。539此奴(こいつ)アどう考(かんが)へても私憑(しひよう)だ。540コレコレ宗彦(むねひこ)さま、541胸(むね)に手(て)を当(あ)てて、542今迄(いままで)の事(こと)を能(よ)う考(かんが)へて見(み)るが宜(よ)い。543神(かみ)様(さま)は決(けつ)して無理(むり)な事(こと)は仰有(おつしや)いませぬぞ』
544宗彦(むねひこ)『そうだつて、545私(わたし)の女房(にようばう)を、546頼(たの)みもせぬのに、547縁(えん)を切(き)るとはあまりだ。548切(き)ると云(い)つても、549金輪際(こんりんざい)こつちから切(き)りませぬワイ』
550お勝(かつ)『エー思(おも)ひ切(き)りの悪(わる)い男(をとこ)だなア。551それだから此(この)肉体(にくたい)が嫌(きら)ふのだ。552男(をとこ)は断(だん)の一字(いちじ)が肝腎(かんじん)だ。553どうだ是(こ)れから此(この)肉体(にくたい)に先妻(せんさい)のお国(くに)に、554お光(みつ)、555お福(ふく)、556お三(さん)、557お四(よ)つ、558お市(いち)、559お高(たか)が同盟軍(どうめいぐん)を作(つく)つて憑依(ひようい)して来(く)るが、560それでも其(その)方(はう)はまだ未練(みれん)があるか、561どうだ厭(いや)らしい事(こと)はないか』
562宗彦(むねひこ)『何(なに)が厭(いや)らしいかい。563どれもこれも因縁(いんねん)あつて仮令(たとへ)三日(みつか)でも夫婦(ふうふ)になつた仲(なか)ぢや、564肉体(にくたい)の有(あ)る女房(にようばう)を数多(やつと)連(つ)れて居(を)ると、565経済(けいざい)上(じやう)困(こま)るが、566物(もの)も喰(く)はん嬶(かか)アなら、567千(せん)人(にん)でも万(まん)人(にん)でも出(で)て来(こ)い。568アーア色男(いろをとこ)と云(い)ふものは偉(えら)いものだ。569幽冥界(いうめいかい)からまでもヤツパリ電波(でんぱ)を送(おく)ると見(み)える。570何(なん)だか知(し)らぬが、571肩(かた)が重(おも)くなつたと思(おも)へば、572此(こ)れ丈(だけ)沢山(たくさん)な女房(にようばう)に対(たい)し、573責任(せきにん)を双肩(さうけん)に担(にな)つて居(ゐ)るのだから無理(むり)もないワイ。574正式(せいしき)結婚(けつこん)の女房(にようばう)の霊(れい)も、575準正式(じゆんせいしき)も、576雑式(ざつしき)も、577野合(やがふ)も何(なに)も彼(か)もやつて来(こ)い。578此(この)頃(ごろ)は多数決(たすうけつ)の流行(はや)る時節(じせつ)だ。579何程(なにほど)偉(えら)い者(もの)だつて少数党(せうすうたう)では目醒(めざ)ましい仕事(しごと)は出来(でき)やしないワ』
580松鷹彦(まつたかひこ)『オホヽヽヽ、581宗彦(むねひこ)さま、582お前(まへ)の背後(うしろ)を一寸(ちよつと)御覧(ごらん)、583針金(はりがね)の妄念(もうねん)の様(やう)な、584蟷螂腕(かまきりかひな)を出(だ)して餓利(がり)法師(ぼし)が踊(をど)つて居(ゐ)るぢやないか』
585宗彦(むねひこ)『アヽそんな事(こと)言(い)うて下(くだ)さるな。586見(み)さへせねば良(い)いのだ。587目(め)程(ほど)不潔(きたな)いものの、588恐(おそ)ろしいものはない』
589 お勝(かつ)は『ウーン、590ドスン』と腰(こし)を下(おろ)し、591ケロリとした顔(かほ)で、
592お勝(かつ)『宗(むね)サン、593妾(わたし)何(なに)か言(い)ひましたかな。594夢(ゆめ)でも見(み)とつたのか知(し)らぬ。595沢山(たくさん)な厭(いや)らしい亡者(まうじや)が、596柳(やなぎ)の木(き)の麓(ふもと)で、597「宗彦(むねひこ)は生前(せいぜん)に我々(われわれ)を機械(きかい)扱(あつか)ひにしよつたから、598今晩(こんばん)は餓鬼(がき)も人数(にんず)だ。599力(ちから)を協(あは)して、600素首(そつくび)を引(ひ)き抜(ぬ)いてやらう」と相談(そうだん)して居(を)りましたよ。601その時(とき)に妾(わたし)にも同盟(どうめい)せいと言(い)はれたのです。602けれども、603あまりお前(まへ)さまが可哀相(かはいさう)だから「さう皆(みな)さま慌(あわて)るに及(およ)びませぬ。604何(いづ)れ彼奴(あいつ)も年(とし)が寄(よ)つたら此処(ここ)へ来(く)るのだから、605其(その)時(とき)に苛(いぢ)めてやりさへすれば良(い)いだないか」と一時遁(いちじのが)れに其(その)場(ば)を切(き)り抜(ぬ)けようとしたが、606中々(なかなか)亡者(まうじや)の連中(れんちう)聞(き)きませぬがな。607今(いま)の間(うち)に宗(むね)サンの生命(いのち)を取(と)らねば、608死(し)ぬ迄(まで)待(ま)つて居(を)つたら我々(われわれ)は又(また)もや現界(げんかい)に生(うま)れ替(かは)り、609幽冥界(いうめいかい)は不在(るす)になつて了(しま)ふ。610そうだから讎(かたき)を討(う)つのは今(いま)の内(うち)だと言(い)つて、611それはそれはエライ勢(いきほひ)でしたよ。612用心(ようじん)しなさいや』
613宗彦(むねひこ)『そりや貴様(きさま)、614本当(ほんたう)か、615嘘(うそ)ぢやないか』
616お勝(かつ)『嘘(うそ)か本真(ほんま)か、617今晩中(こんばんちう)に分(わか)りますわいな』
618宗彦(むねひこ)『そら分(わか)るだらうが……どちらだ。619実際(ほんま)か、620虚言(うそ)か聞(き)かして呉(く)れ』
621お勝(かつ)『幽冥(いうめい)の秘(ひ)、622妄(みだ)りに語(かた)る可(べか)らずと、623どこともなしに神(かみ)様(さま)の声(こゑ)が聞(きこ)えました。624マア今迄(いままで)の年貢(ねんぐ)納(をさ)めだと思(おも)つて、625楽(たのし)んで日(ひ)の暮(く)れるのを待(ま)ちなさい。626あのマア青(あを)い顔(かほ)、627オホヽヽヽ』
628宗彦(むねひこ)『お爺(ぢい)さま、629大変(たいへん)な事(こと)になつて来(き)た。630愚図(ぐづ)々々(ぐづ)して居(を)ると、631忽(たちま)ち此処(ここ)にやもめが一人(ひとり)出来(でき)ますワイ。632何(なん)とかして助(たす)けて下(くだ)さいなア』
633松鷹彦(まつたかひこ)『わしも此(この)村(むら)でやもをの連(つ)れが無(な)うて、634寂(さび)しうて困(こま)つて居(を)つたのだから、635お前(まへ)さまも早(はや)くやもめが出来(でき)る様(やう)に死(し)なつしやい、636それの方(はう)が結句(けつく)気楽(きらく)で宜(よ)からうぞい』
637宗彦(むねひこ)『何(なに)が何(なん)だか、638サツパリ分(わか)らぬ様(やう)になつて来(き)たワイ。639夢(ゆめ)でも見(み)とるのでは有(あ)るまいかなア』
640と頻(しき)りに頬(ほほ)を抓(つめ)つて見(み)て居(ゐ)る。641かかる所(ところ)へ捻鉢巻(ねぢはちまき)をした二人(ふたり)の男(をとこ)、642慌(あわ)ただしく入(い)り来(きた)り、
643留公(とめこう)『松鷹彦(まつたかひこ)の神主(かむぬし)さま、644お前(まへ)は聞(き)く所(ところ)に依(よ)れば、645又(また)してもバラモン教(けう)の行者(ぎやうじや)を引張込(ひつぱりこ)んで、646しやうもないお説教(せつけう)を聴聞(ちやうもん)しとると云(い)ふ事(こと)だ。647さう猫(ねこ)の目(め)の様(やう)にクレクレと精神(せいしん)を変(か)へて貰(もら)うと、648村(むら)の者(もの)が迷(まよ)つて仕方(しかた)がない。649一体(いつたい)どうする量見(りやうけん)だ。650お竹(たけ)さまが死(し)んでから、651お前(まへ)さまは益々(ますます)変(へん)になつたぢやないか』
652松鷹彦(まつたかひこ)『チツトは変(へん)にならうかい』
653留公(とめこう)『変(へん)にもならうかいも有(あ)つたものかい。654改心(かいしん)して殺生(せつしやう)を止(や)め、655神妙(しんめう)にお宮(みや)さまの御用(ごよう)を勤(つと)めたらどうだ。656あんまりお前(まへ)の行(おこな)ひが悪(わる)いので、657村(むら)の者(もの)が此間(こなひだ)も庚申待(かうしんまち)に集(よ)つてお前(まへ)をおつ放(ぽ)り出(だ)し、658三五教(あななひけう)の真浦(まうら)さまを跡釜(あとがま)に据(す)わつて貰(もら)はうと云(い)ふ相談(そうだん)があつたぞ。659こんな事(こと)ども村(むら)の連中(れんちう)に聞(きこ)えようものなら、660それこそ今日(けふ)限(かぎ)り叩(たた)き払(ばらひ)だ。661そうなればお前(まへ)さまも可哀相(かはいさう)だからと思(おも)つて、662気(き)を注(つ)けに来(き)たのだ。663お春(はる)やお弓(ゆみ)の奴(やつ)、664チヤンと知(し)つて、665俺(おれ)に話(はな)しよつたから、666俺(おれ)は決(けつ)して誰(たれ)にも言(い)ふぢやないと口止(くちど)めをして来(き)たのぢや。667どうだ止(や)めて下(くだ)さるか』
668松鷹彦(まつたかひこ)『わしは武志(たけし)の宮(みや)の神(かみ)様(さま)にお仕(つか)へして居(を)るのだ。669決(けつ)して村(むら)の人間(にんげん)のお給仕役(きふじやく)ぢやない。670神(かみ)様(さま)から命(めい)じられたものを人間(にんげん)が寄(よ)つて集(たか)つて動(うご)かさうとした所(ところ)で、671そいつア駄目(だめ)だ。672そう云(い)ふ事(こと)をすると村中(むらぢう)に神罰(しんばつ)が当(あた)つて、673米(こめ)も麦(むぎ)も穫(と)れぬ様(やう)な饑饉(ききん)が出(で)て来(く)るぞや』
674田吾作(たごさく)『お爺(やぢ)さま、675お前(まへ)の仰有(おつしや)るこたア一応(いちおう)尤(もつと)もだが、676ヤツパリ人間(にんげん)の皮(かは)を被(かぶ)つて居(ゐ)る以上(いじやう)は、677人間(にんげん)の規則(きそく)にもチツトは従(したが)はねばなるまい。678そんな我(が)の強(つよ)い事(こと)を言(い)はずに、679チツトは省(かへり)みたらどうだい』
680松鷹彦(まつたかひこ)『馬鹿(ばか)にするない。681人間(にんげん)の皮(かは)被(かぶ)つとるなんぞと……骨(ほね)から腸(はらわた)まで、682魂(たましひ)まで、683皆(みんな)人間(にんげん)だ。684皮(かは)被(かぶ)つとる奴(やつ)はお前(まへ)達(たち)ぢや』
685留公(とめこう)『爺(ぢい)さま、686お前(まへ)さまこそ魂(たましひ)が四(よ)つ足(あし)ぢやで。687其(その)証拠(しようこ)にや、688川獺(かはうそ)か何(なん)ぞの様(やう)に、689神(かみ)様(さま)の方(はう)はそつち除(の)けにして、690魚捕(さかなとり)ばつかりに憂身(うきみ)をやつし、691盆過(ぼんすぎ)の幽霊(いうれい)の様(やう)に、692水(みづ)ばつかり羨(けな)りさうに眺(なが)めて暮(くら)して居(ゐ)るぢやないか。693一体(いつたい)神(かみ)様(さま)にお仕(つか)へする者(もの)が、694殺生(せつしやう)をすると云(い)ふ事(こと)が有(あ)るものかい』
695松鷹彦(まつたかひこ)『わしは神(かみ)様(さま)に仕(つか)へて居(ゐ)るから魚(さかな)を捕(と)るのだ。696御(ご)神前(しんぜん)で海河(うみかは)山野(やまぬ)の珍味物(うましもの)だとか、697鰭(はた)の広物(ひろもの)、698鰭(はた)の狭物(さもの)と称(とな)へ乍(なが)ら、699魚(さかな)一匹(いつぴき)、700誰(たれ)もお供(そな)へする者(もの)がないのだから、701仕方(しかた)なしに此(この)老人(としより)が魚(さかな)を漁(と)つてお供(そな)へするのだ』
702留公(とめこう)『ヘン、703うまい事(こと)言(い)つてるワイ。704大方(おほかた)自分(じぶん)の喉(のど)の神(かみ)さまに供(そな)へるのだらう。705神主(かむぬし)は神主(かむぬし)らしうやつて居(を)ればいいのだ。706猫(ねこ)は鼠(ねずみ)を捕(と)るのが商売(しやうばい)、707猟師(れふし)は獣(けだもの)を獲(と)り、708漁夫(ぎよふ)は魚(さかな)を漁(と)ると、709チヤンと天則(てんそく)が定(き)まつて居(ゐ)るのだ』
710松鷹彦(まつたかひこ)『それだつて、711わしが漁(と)つても、712漁師(れふし)が漁(と)つても、713生命(いのち)の無(な)くなるのは同(おな)じ事(こと)だ、714そんな開(ひら)けぬ事(こと)を言(い)ふものだないワイ。715息子(むすこ)は嫁(よめ)取(と)る、716娘(むすめ)は婿(むこ)取(と)ると云(い)つて、717お前(まへ)達(たち)は若(わか)いから楽(たの)しみだが、718俺(おれ)の様(やう)な老爺(ぢぢ)は、719あんまり外分(ぐわいぶん)が悪(わる)くつて、720嫁(よめ)を取(と)る訳(わけ)にも行(ゆ)かず、721仕方(しかた)が無(な)いから魚(さかな)を漁(と)るのだ。722チツトは大目(おほめ)に見(み)て、723長老(ちやうらう)を敬(うやま)ふのだぞ。724長幼(ちやうえう)序(じよ)ありと云(い)ふ事(こと)を知(し)つて居(を)るか。725今日(こんにち)は養老会(やうらうくわい)と云(い)つて、726老人(としより)を大切(たいせつ)にする会(くわい)が、727彼方(あちら)にも此方(こちら)にも開(ひら)けて居(ゐ)るぢやないか。728それに此(この)村(むら)の奴(やつ)ア、729年(とし)が老(よ)つたら姥捨山(うばすてやま)へでも捨(す)てたら良(い)いものの様(やう)に思(おも)つて居(ゐ)るから、730事(こと)が面倒(めんだう)になるのだ。731老人(らうじん)は村(むら)の宝(たから)、732生字引(いきじびき)だ。733俺(おれ)が此(この)村(むら)に居(を)ればこそ、734古(ふる)い事(こと)が分(わか)るのだないか。735俺(おれ)の体(からだ)は俺(おれ)一人(ひとり)のものぢやない。736一方(いつぱう)はお宮様(みやさま)の召使(めしつかひ)、737一方(いつぱう)は此(この)村(むら)の骨董品(こつとうひん)だ……否(いな)如意(によい)宝珠(ほつしゆ)の玉(たま)だ。738今(いま)こそ貴様(きさま)達(たち)は不潔(きたな)い爺(ぢぢ)いだと云(い)つて、739沢山(たくさん)さうに思(おも)うて居(を)るが、740俺(おれ)が死(し)んでみい、741思(おも)ひ出(だ)す事(こと)が幾(いく)らでも出来(でき)る。742……アーア松鷹彦(まつたかひこ)様(さま)がモウちつと生(い)きて御座(ござ)つたら、743御(お)尋(たづ)ねするのに…斯(こ)んな事(こと)なら生存中(せいぞんちゆう)に…あれも聞(き)いて置(お)いたら良(よ)かつたに、744此(こ)れも教(をし)へて貰(もら)つて置(お)けば宜(よ)かつたのに………と後悔(こうくわい)をして、745泣(な)いても、746悔(くや)んでも後(あと)の祭(まつ)りだ。747せめては故人(こじん)の徳(とく)を忘(わす)れぬ為(ため)だと云(い)つて、748宮(みや)の境内(けいだい)か川(かは)の縁(ふち)に記念碑(きねんひ)を建(た)てて何程(なにほど)拝(をが)んだつて、749石(いし)になつてから物(もの)は言(い)やしないぞ』
750留公(とめこう)『お前(まへ)の様(やう)な爺(ぢい)さまに聞(き)いたつて、751何(なに)が分(わか)らうかい。752併(しか)し一(ひと)つ聞(き)いて置(お)かねばならぬ事(こと)がある。753其奴(そいつ)ア、754どこの淵(ふち)には魚(さかな)が余計(よけい)寄(よ)つとるか……と云(い)ふ事(こと)だ。755なア川獺(かはうそ)の先生(せんせい)』
756松鷹彦(まつたかひこ)『エー大人(おとな)嬲(なぶ)りの骨(ほね)なぶりだ。757グヅグヅ言(い)うと、758死(し)んだら目(め)が潰(つぶ)れて物(もの)が言(い)へなくなり、759身体(からだ)がビクとも動(うご)かなくなつて了(しま)ふぞ』
760 留公(とめこう)、761肩(かた)を上(あ)げ下(さ)げし、762鷹(たか)が羽(はね)を拡(ひろ)げた様(やう)な調子(てうし)で、763体(からだ)を揺(ゆす)り、764舌(した)を出(だ)し、
765留公(とめこう)『ウフヽヽヽ』
766と笑(わら)ふ。
767松鷹彦(まつたかひこ)『貴様(きさま)の其(その)状態(ざま)は何(なん)だ。768鳶(とんび)の様(やう)なスタイルをしやがつて……』
769留公(とめこう)『オイ、770お前(まへ)がバラモン教(けう)の駆落(かけおち)巡礼(じゆんれい)だなア。771何(なん)だ人気(ひとぎ)の悪(わる)い鯱面(しやちづら)をしよつて……此(この)川獺(かはうそ)先生(せんせい)の所(ところ)へ無心(むしん)に来(き)よつたのか。772……コリヤ此(この)村(むら)はバラモン教(けう)は禁物(きんもつ)だ。773布教(ふけう)禁制(きんせい)の場所(ばしよ)だぞ。774而(しか)も気楽(きらく)さうに女房(にようばう)を連(つ)れて何(なん)の事(こと)だい。775そんな事(こと)で神聖(しんせい)な神(かみ)様(さま)の御用(ごよう)が出来(でき)ると思(おも)うて居(ゐ)るのか。776一時(いつとき)も早(はや)う、777足許(あしもと)の明(あ)かるい間(うち)に帰(かへ)つて了(しま)へ。778帰(かへ)るのが厭(いや)なら、779此(この)川(かは)へドブンと飛(と)び込(こ)め。780さうすりや寧(いつそ)埒(らち)が明(あ)いて良(い)いワ』
781宗彦(むねひこ)『ハイハイ、782私(わたくし)は御存(ごぞん)じの通(とほ)りバラモン教(けう)のお経(きやう)を唱(とな)へて、783巡礼(じゆんれい)に廻(まは)つて居(ゐ)る者(もの)で吾(わが)子(こ)の冥福(めいふく)を祈(いの)る丈(だけ)の者(もの)、784人(ひと)さんに宣伝(せんでん)なぞは決(けつ)して致(いた)しませぬ。785私(わたし)の身体(からだ)には大変(たいへん)な地異(ちい)天変(てんぺん)が勃発(ぼつぱつ)したので、786何(なに)所(どころ)の騒(さわ)ぎじや御座(ござ)いませぬワイ。787女房(にようばう)が今(いま)となつて暇(ひま)を呉(く)れの、788何(なん)のと言(い)ふものだから…』
789留公(とめこう)『ハツハア、790地異(ちい)天変(てんぺん)て、791どんな事(こと)かと思(おも)へば、792嬶(かか)アにお尻(しり)を向(む)けられたのだなア、793そりや気(き)の毒(どく)だ。794俺(おれ)も覚(おぼ)えが有(あ)る。795それなら両手(りやうて)を挙(あ)げて同情(どうじやう)…否(いな)賛成(さんせい)だ。796オイオイ奥(おく)さま、797斯(こ)んな結構(けつこう)な、798青瓢箪(あをべうたん)然(ぜん)たるハズバンドを持(も)ち乍(なが)ら、799そんな綺麗(きれい)な顔(かほ)したナイスのお前(まへ)が、800こんな所(ところ)までやつて来(き)て、801肱鉄砲(ひぢでつぱう)を噛(か)ますとはチツト人情(にんじやう)に外(はづ)れては居(ゐ)やせぬかい』
802お勝(かつ)『妾(わたし)は訳(わけ)を聞(き)いて貰(もら)はねば分(わか)りませぬが、803あまりの事(こと)で、804モウ見切(みき)りを付(つ)けました。805同(おな)じ事(こと)なら…あの…見(み)た様(やう)な何々(なになに)に、806何々(なになに)したう御座(ござ)います』
807と笠(かさ)に顔(かほ)を隠(かく)す。
808留公(とめこう)『ハツハツハア、809分(わか)つた。810お前(まへ)のホの字(じ)とレの字(じ)は、811トの字(じ)とメの字(じ)の付(つ)く男(をとこ)に秋波(しうは)を送(おく)つて居(ゐ)るのだな。812生憎(あいにく)様(さま)乍(なが)らトーさまには、813立派(りつぱ)な烏(からす)の様(やう)な色(いろ)の黒(くろ)いおからと云(い)ふ奥(おく)さまが御座(ござ)んすわいな』
814お勝(かつ)『イエイエ妾(わたし)は若(わか)い人(ひと)や、815土臭(つちくさ)い蛙切(かはづき)りは虫(むし)がすきませぬ。816同(おな)じ添(そ)ふのなら此(この)お爺(ぢい)さまの女房(にようばう)になりたいのですよ。817年(とし)は老(と)つて居(を)られても、818どこともなしに崇高(すうかう)な御(ご)容貌(ようばう)、819今年(ことし)で三(さん)年(ねん)が間(あひだ)、820広(ひろ)い世界(せかい)を股(また)にかけて探(さが)して見(み)ましたが、821こんな立派(りつぱ)な気品(きひん)の高(たか)いお方(かた)に逢(あ)うた事(こと)は有(あ)りませぬ。822まるで太公望(たいこうばう)の様(やう)な御(お)方(かた)ですワ。823此処(ここ)へ来(く)るなり、824宅(うち)のハズバンドが厭(いや)になつて了(しま)つたのですよ、825ホヽヽヽヽ』
826留公(とめこう)『是(こ)れは又(また)エライ物好(ものずき)も有(あ)つたものだナア、827ヘーン』
828と言(い)つた限(き)り、829舌(した)を斜(はす)かひに噛(か)み出(だ)し、830白眼(しろめ)を剥(む)いて、831両手(りやうて)の遣(や)り場(ば)が無(な)い様(やう)な調子(てうし)で、832下前方(かぜんぱう)へ俯向(うつむ)けに手(て)を垂(た)らしシユーツと延(の)ばし、833呆(あき)れたふりをして見(み)せる。
834田吾作(たごさく)『わしは未(ま)だ独身(ひとりみ)だがなア。835アーアどつかに合口(あひくち)があつたら、836一(ひと)つ買(か)ひたいものだ』
837留公(とめこう)『コリヤコリヤ短刀(あひくち)なんか買(か)つて如何(どう)するのだい。838過激派(くわげきは)取締(とりしまり)の喧(やかま)しい時(とき)に、839そんな物(もの)でも買(か)ひに往(い)かうものなら、840それこそポリスに追跡(つゐせき)され、841終局(しまひ)には高等(かうとう)警察(けいさつ)要視察人(えうしさつにん)簿(ぼ)に登録(とうろく)されて了(しま)ふぞ』
842田吾作(たごさく)『女房(にようばう)を貰(もら)つて、843警察(けいさつ)につけられるのなら、844村中(むらぢう)の奴(やつ)ア、845みんな高警(かうけい)要(えう)視察人(しさつにん)ぢやないか』
846留公(とめこう)『貴様(きさま)も訳(わけ)の分(わか)らぬ奴(やつ)ぢやなア。847……破(わ)れ鍋(なべ)に綴蓋(とぢぶた)と云(い)つて、848それ相当(さうたう)の女房(にようばう)を持(も)たねば、849遂(つひ)には破鏡(はきやう)の悲(かな)しみを味(あぢ)ははねばならぬぞ。850こんな立派(りつぱ)なナイスに対(たい)して秋波(しうは)を送(おく)るのは、851チツと提灯(ちやうちん)に釣鐘(つりがね)だ。852併(しか)しお爺(ぢい)さま、853枯木(かれき)に花(はな)が咲(さ)いたやうなものだ。854流石(さすが)はエライ。855それなれば私(わたし)も賛成(さんせい)だ。856貰(もら)ひなさい。857其(その)代(かは)りに私(わたし)がチヨイチヨイと水(みづ)汲(く)み位(くらゐ)、858手伝(てつだ)ひに来(き)てあげるワ』
859お勝(かつ)『オホヽヽヽ』
860 宗彦(むねひこ)はクルクルと着物(きもの)を脱(ぬ)ぎ棄(す)て、861褌(まはし)まで除(と)つて、862川(かは)の早瀬(はやせ)へ惜(を)し気(げ)も無(な)く、863笠(かさ)も蓑(みの)も杖(つゑ)も一緒(いつしよ)に投(な)げ込(こ)んで了(しま)つた。
864宗彦(むねひこ)『ヤアお爺(ぢい)さま、865モウ是(こ)れでバラモン教(けう)のレツテルを残(のこ)らず剥(は)がし、866生(うま)れ赤児(あかご)になつて了(しま)つた。867どうぞお前(まへ)さまの弟子(でし)にして下(くだ)さい。868さうして女房(にようばう)は貰(もら)つてやつて下(くだ)さいませ。869今日(けふ)からは女房(にようばう)をあなたの奥(おく)さまとして敬(うやま)ひます。870ナアお勝(かつ)、871遠慮(ゑんりよ)は要(い)らぬから宗々(むねむね)と呼(よ)びつけにするのだよ』
872 お勝(かつ)は又(また)もやクルクルと下帯(したおび)まで脱(ぬ)ぎ棄(す)て、873同(おな)じく蓑(みの)も笠(かさ)も、874金剛杖(こんがうづゑ)も一括(ひとまとめ)にしてザンブとばかり投(な)げ込(こ)んだ。
875宗彦(むねひこ)『アヽやつぱり女房(にようばう)は女房(にようばう)だ。876斯(か)うなるとチツとチツと、877ミとレンが残(のこ)つとる様(やう)な気(き)がする。878併(しか)し乍(なが)らお爺(ぢい)さま、879着物(きもの)を私(わたし)に恵(めぐ)んで下(くだ)さい。880何(なん)でも宜(よろ)しいから……』
881松鷹彦(まつたかひこ)『さうだと云(い)つて、882わしも北国雷(ほくこくかみなり)ぢやないが着(き)たなりだ。883山椒(さんせう)の木(き)に飯粒(めしつぶ)で、884着(き)の実(み)着(き)の儘(まま)、885どうする事(こと)も出来(でき)やしない。886先祖(せんぞ)譲(ゆづ)りの洋服(やうふく)で、887二人(ふたり)共(とも)暫(しばら)く辛抱(しんばう)するのだなア』
888留公(とめこう)『ヤア宅(うち)の嬶(かか)アの着物(きもの)を、889俺(おれ)が取(と)つて来(き)て、890裸(はだか)ナイスに進上(しんじやう)しよう。891田吾作(たごさく)、892貴様(きさま)はお前(まへ)の一張羅(いつちやうら)を献上(けんじやう)せい』
893田吾作(たごさく)『貰(もら)うて下(くだ)さるだらうかな。894わしはチツと背(せ)が低(ひく)いから、895身(み)に合(あ)ふだらうか』
896留公(とめこう)『合(あ)うても合(あ)はいでも、897無(な)いより優(ま)しだ』
898松鷹彦(まつたかひこ)『ヤア留(とめ)さま田吾作(たごさく)さま、899世(よ)の中(なか)は相身互(あひみたが)ひぢや。900さうなくてはならぬ。901是(こ)れもヤツパリ三五教(あななひけう)の感化力(かんくわりよく)のお神徳(かげ)だ……』
902(大正一一・五・一三 旧四・一七 松村真澄録)
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