霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第九章 童子教(どうじけう)〔六七一〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第20巻 如意宝珠 未の巻 篇:第3篇 三国ケ嶽 よみ(新仮名遣い):みくにがだけ
章:第9章 童子教 よみ(新仮名遣い):どうじきょう 通し章番号:671
口述日:1922(大正11)年05月14日(旧04月18日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1923(大正12)年3月15日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
宗彦、留公、田吾作に加えて、原彦が供をすることとなり、四人は三国ケ嶽の山麓までやってきた。四人は、山麓を流れる深谷川のほとりでひそびそ話にふけっている。
留公は寒気がすると弱音を吐いている。宗彦から、帰ってよいと言われ、田吾作と原彦に、一緒に帰ろうと誘うが、断られる。留公は二人を罵りながら去ってしまう。
田吾作は、留公がいつになく臆病な様子だったので、これはきっと、逃げた振りをして我々の先回りをし、鬼の真似でもして驚かそうといういたずらの魂胆でしょう、と流した。
三人が川を上っていくと、向こう岸に四五人の男女が、熊の皮を干しているのが見えた。原彦が、三国ケ嶽の鬼婆の岩屋を尋ねるが、皆言葉が話せない。ただ手振りで、川を渡って東へ行け、と指差している。
原彦が川を渡って向こう岸へ着くと、山人たちは逃げてしまった。田吾作は宗彦に勧めて、続いて向こう岸へ渡らせるが、渡った後に、実は登り道はこちらにあるのだ、とからかう。そして、熊の皮を全部取って来るようにと二人に言う。
仕方なく二人は、熊の皮を取って戻ってきた。三人は羊腸の小道を登っていくと、やや平坦な地点に着いた。すると突然、五六才と思しき三人の童子が現れた。一人は怒り、一人は泣き、一人は笑っている。
三人の童子の背後から五色の光明が輝いていた。田吾作はそれに気がつかず、原彦の手から熊の皮をひったくると、三人に着せて回った。三人は無言のまま、皮を脱ぐと下に敷いて座った。
宗彦は、三人が神様だと悟り、岩窟の鬼婆を言向け和すのに守護を頼んだ。しかし笑い童子はその依存心を笑い飛ばした。泣き童子は情けない、と泣いている。怒り童子は、難を避けて易きにつく心根を叱った。
三人は平伏して、取り違いを陳謝した。しかし三童子の説教は続き、三人が山人の熊の皮を奪ったことを責める。三人は平伏したまま返す言葉もなく、震えていた。半時ばかりして、麗しき音楽が聞こえてきたかと思い、ふと頭を上げると、童子の姿も熊の皮もなくなっていた。
さすがの田吾作も、反省の弁を口にする。宗彦は、三童子は我々の本守護神が現れて、戒めをなさったのだ、と説明した。田吾作と原彦はしばしおかしな問答を交わすが、宗彦に促されて山道を登っていった。
たちまち、右側の谷間から女の悲鳴が聞こえてくる。田吾作が様子を見に行くことになった。しかし戻ってきた田吾作によって、猿が喧嘩をしていただけだとわかり、三人は先に進むこととした。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ:木花姫命 カメリヲン(カメレオン) データ凡例: データ最終更新日:2026-06-18 15:20:29 文字数:12825 OBC :rm2009
愛善世界社版:185頁 八幡書店版:第4輯 217頁 修補版: 校定版:193頁 普及版:83頁 初版: ページ備考:
001九重(ここのへ)の花(はな)の都(みやこ)の山背(やまうしろ)
002畏(かしこ)き神代(かみよ)に近江路(あふみぢ)や
003色(いろ)も若狭(わかさ)に丹波(あかなみ)の
004三国(みくに)に跨(またが)る三国(みくに)ケ嶽(だけ)
005木立(こだち)の茂(しげ)みは大空(おほぞら)の
006月日(つきひ)を封(ふう)じて物凄(ものすご)く
007昼(ひる)さへ暗(くら)き大高峰(だいかうほう)
008鬼(おに)か大蛇(をろち)か魔(ま)か人(ひと)か
009見(み)るさへ凄(すご)き婆(ばば)一人(ひとり)
010聳(そび)えて高(たか)き岩(いは)の根(ね)に
011仮(かり)の庵(いほり)を結(むす)びつつ
012蛇(へび)や蛙(かはづ)を捕喰(とりくら)ひ
013其(その)日(ひ)を送(おく)る物凄(ものすご)さ
014此(この)山麓(さんろく)に立並(たちなら)ぶ
015形(かたち)ばかりの破(やぶ)れ家(や)の
016小(ちひ)さき棟(むね)も三四十(さんしじふ)
017浮世(うきよ)離(はな)れし別世界(べつせかい)
018老若(らうにやく)男女(なんによ)は谷川(たにがは)の
019蟹(かに)や蛙(かはづ)を漁(あさ)りつつ
020餌食(ゑじき)となして日(ひ)を送(おく)る
021鬼婆(おにばば)一人(ひとり)を棟梁(とうりやう)と
022仰(あふ)いで遠(とほ)く夜(よ)に紛(まぎ)れ
023山城(やましろ)丹波(たんば)近江路(あふみぢ)や
024若狭(わかさ)能登(のと)まで手(て)を延(の)ばし
025赤児(あかご)の声(こゑ)を探(さが)しつつ
026隙(すき)さへあらば引捉(ひつとら)へ
027山(やま)の尾(を)伝(づた)ひに逃(に)げ帰(かへ)り
028婆(ばば)の餌食(ゑじき)に奉(たてまつ)る
029此(この)曲津見(まがつみ)は何者(なにもの)か
030言向(ことむ)け和(やは)し世(よ)の中(なか)の
031悩(なや)みを払(はら)ひ救(すく)はむと
032神(かむ)素盞嗚(すさのをの)大神(おほかみ)の
033御言(みこと)畏(かしこ)み高天(たかあま)の
034原(はら)に現(あ)れます言依別(ことよりわけ)は
035聖地(せいち)に上(のぼ)り来(きた)りたる
036心(こころ)も清(きよ)き宗彦(むねひこ)に
037依(よ)さし玉(たま)へば喜(よろこ)びて
038一(いち)も二(に)もなく承諾(しようだく)し
039これぞ布教(ふけう)の初陣(うひぢん)と
040親兄妹(おやきやうだい)に暇乞(いとまごひ)
041明石峠(あかしたうげ)を乗越(のりこ)えて
042道(みち)の熊田(くまだ)の一(ひと)つ家(いへ)
043病(やまひ)に悩(なや)む原彦(はらひこ)が
044心(こころ)の迷(まよ)ひ吹(ふ)き払(はら)ひ
045奇(く)しき御稜威(みいづ)を現(あら)はして
046里(さと)の老若(らうにやく)男女(なんによ)をば
047三五教(あななひけう)の大道(おほみち)に
048一人(ひとり)も残(のこ)らず帰順(きじゆん)させ
049少時(しばし)足(あし)をば休(やす)めつつ
050原彦(はらひこ)、田吾作(たごさく)、留公(とめこう)の
051三人(みたり)の信者(しんじや)を伴(ともな)ひて
052青垣山(あをがきやま)を繞(めぐ)らせる
053平野(ひらの)の里(さと)や山国(やまぐに)の
054一本橋(いつぽんばし)を打渡(うちわた)り
055宮村(みやむら)、花瀬(はなせ)を後(あと)にして
056三国(みくに)ケ嶽(だけ)の山麓(さんろく)に
057四(よ)人(にん)は漸(やうや)く着(つ)きにける。
058 さしも三国(さんごく)に渡(わた)る大高山(だいかうざん)、059杉(すぎ)の木立(こだち)は鬱蒼(うつさう)として風(かぜ)を孕(はら)み、060咆哮(ほうかう)する声(こゑ)、061数百千(すうひやくせん)の獅子(しし)狼(おほかみ)が一度(いちど)に雄猛(をたけ)びする如(ごと)く聞(きこ)えて来(く)る。062夏(なつ)とは言(い)ひ乍(なが)ら何(なん)となく底(そこ)冷(つめ)たき空気(くうき)漂(ただよ)ひ、063谷川(たにがは)の音(おと)も何処(どこ)となく物(もの)凄(すご)く、064悪魔(あくま)の囁(ささや)くが如(ごと)く耳(みみ)を打(う)つ。065猿(さる)の群(むれ)は梢(こずゑ)を伝(つた)ひて、066キヤツキヤツと鳴(な)き叫(さけ)ぶ。067四(よ)人(にん)は山麓(さんろく)を流(なが)るる深谷川(ふかたにがは)の畔(ほとり)にドツカと坐(ざ)し、068旅(たび)の疲(つか)れを休(やす)め乍(なが)ら、069ヒソビソ話(ばなし)に耽(ふけ)つて居(を)る。
070留公(とめこう)『随分(ずゐぶん)薄気味(うすきみ)の悪(わる)い谷間(たにあひ)だないか。071山国(やまぐに)の丸木橋(まるきばし)を越(こ)えてからと云(い)ふものは、072人(ひと)の子(こ)一人(ひとり)出会(であ)つた事(こと)もなし、073時々(ときどき)左右(さいう)の密林(みつりん)から怪(あや)しの声(こゑ)、074どうしても此処(ここ)は大江山(おほえやま)以上(いじやう)の魔窟(まくつ)らしい。075オイ田吾作(たごさく)、076此処(ここ)までは喜(よろこ)び勇(いさ)んでやつて来(き)たものの、077首筋(くびすぢ)がゾウゾウとして、078何(な)んとも言(い)へぬ気分(きぶん)になつて了(しま)つたぢやないか』
079田吾作(たごさく)『宇都山(うづやま)村(むら)で、080魚(さかな)を漁(と)つたり、081麦畠(むぎばたけ)に鍬杖(くはづゑ)ついて、082雲雀(ひばり)の糞(くそ)を頭(あたま)から浴(あ)びせられて居(ゐ)るのとは、083そりやチツとは骨(ほね)が有(あ)るワイ。084こんな山奥(やまおく)へ悪魔(あくま)退治(たいぢ)に来(き)たのだもの、085どうせ満足(まんぞく)に生命(いのち)を持(も)つて帰(かへ)れないのは、086出発(しゆつぱつ)の際(さい)から定(きま)りきつた話(はなし)だ。087貴様(きさま)宅(うち)を出(で)る時(とき)の勢(いきほひ)はどうだつた。088鬼(おに)でも大蛇(をろち)でも虎(とら)でも、089狼(おほかみ)でも、090何(なん)でも来(こ)い。091此(この)留公(とめこう)の腕(うで)には骨(ほね)が有(あ)ると、092力味(りきみ)返(かへ)つた時(とき)の事(こと)を考(かんが)へて見(み)よ。093こんな所(ところ)でそんな弱音(よわね)を吹(ふ)いて宣伝使(せんでんし)のお伴(とも)が出来(でき)ると思(おも)ふか』
094留公(とめこう)『そらそうだ。095併(しか)し乍(なが)らモウ少(すこ)し暖(あたた)かい山(やま)ぢやと思(おも)うて居(ゐ)たに、096夏(なつ)の最中(さなか)に斯(か)う寒(さむ)くつては耐(きば)れないぢやないか。097斯(こ)んな事(こと)と知(し)つたなら、098袷(あはせ)の一(いち)枚(まい)も持(も)つて来(く)るのだつたが、099薄(うす)い単衣(ひとへ)一(いち)枚(まい)では堪(こら)へられない。100俺(おれ)は一(ひと)つ、101宇都山(うづやま)村(むら)まで引返(ひきかへ)して、102着物(きもの)を着替(きがへ)て出直(でなほ)して来(く)るから、103お前(まへ)御(ご)苦労(くらう)だが、104宣伝使(せんでんし)の御(お)伴(とも)をしてボツボツ登(のぼ)りかけて呉(く)れ』
105田吾作(たごさく)『ハヽヽヽ、106隣近所(となりきんじよ)か何(なん)ぞの様(やう)に、107さう着々(ちやくちやく)と着替(きがへ)に帰(い)ねるものか。108巧(うま)い辞令(じれい)を作(つく)つて、109態(てい)よく遁走(とんそう)するつもりだらう。110口(くち)程(ほど)にもない代物(しろもの)だなア。111ヨー今(いま)からビリビリ慄(ふる)うて居(ゐ)よるなア』
112留公(とめこう)『何程(なにほど)留(と)めようと思(おも)つても、113ガチガチと歯(は)が拍子木(へうしぎ)を打(う)つものだから仕方(しかた)がないワ。114モシモシ宣伝使(せんでんし)様(さま)、115私(わたくし)を此処(ここ)から……実際(じつさい)の事(こと)言(い)へば、116帰(かへ)らして貰(もら)ひたいのです』
117宗彦(むねひこ)『それだから伴(つ)れて行(ゆ)かぬと言(い)ふのに、118お前(まへ)が無理(むり)に来(き)たのぢやないか。119宣伝使(せんでんし)は一人旅(ひとりたび)、120決(けつ)して同伴(つれ)はならぬのだ。121私(わし)に相談(そうだん)は要(い)らぬ、122自由(じいう)行動(かうどう)を取(と)つたがよからう』
123留公(とめこう)『ハイ有難(ありがた)う御座(ござ)います。124お蔭(かげ)で命(いのち)が助(たす)かりました。125あなた方(がた)も、126どうぞ無事(ぶじ)で帰(かへ)つて下(くだ)さいませ。127キツと、128私(わたくし)は此処(ここ)でお別(わか)れしても、129あなたの事(こと)は忘(わす)れませぬ。130お茶湯(ちやたう)でも献(あ)げて冥福(めいふく)を祈(いの)ります』
131田吾作(たごさく)『オイ留公(とめこう)、132冥福(めいふく)を祈(いの)るとは何(なん)だ。133死(し)ぬに定(きま)つた様(やう)な事(こと)を言(い)ひやがつて、134吾々(われわれ)の首途(かどで)を祝(しゆく)する事(こと)を措(お)いて、135貴様(きさま)は弔(とむら)ふのだな』
136留公(とめこう)『弔(とむら)ふのか、137呪(のろ)ふのか、138祝(いは)ふのか、139どつちか一(ひと)つの内(うち)だ。140エー長居(ながゐ)は恐(おそ)れ、141こんな生臭(なまぐさ)い風(かぜ)が吹(ふ)くからには、142太(ふと)い長(なが)い奴(やつ)がノロノロと今(いま)にやつて来(く)るだらう。143宣伝使(せんでんし)は一人(ひとり)と仰有(おつしや)つた。144遠慮(ゑんりよ)は要(い)らぬ、145原彦(はらひこ)、146お前(まへ)は先(さき)へ行(ゆ)け。147さうして田吾作(たごさく)は俺(おれ)の尻(しり)に従(つ)いて帰(かへ)るのだ。148サアサア帰(かへ)つたり帰(かへ)つたり』
149原彦(はらひこ)『私(わたくし)は生命(いのち)を助(たす)けて貰(もら)つた御(ご)恩返(おんがへ)しに、150御(ご)案内役(あんないやく)となつて来(き)たのですから、151宣伝使(せんでんし)の為(ため)に生命(いのち)を棄(す)てた所(ところ)で、152別(べつ)に欠損(けつそん)にもなりませぬ。153元々(もともと)です。154此(この)場(ば)に及(およ)んで男(をとこ)らしくもない、155帰(かへ)れますものか』
156留公(とめこう)『生命(いのち)の安(やす)い奴(やつ)は行(い)つたが宜(よ)からう。157……オイ田吾作(たごさく)、158貴様(きさま)は生命(いのち)が大事(だいじ)だらう。159お勝(かつ)の事(こと)もチツとは思(おも)うてやれ』
160田吾作(たごさく)『お勝(かつ)がなんだ。161神(かみ)様(さま)の御用(ごよう)のお伴(とも)をするのに、162そんなことを気(き)に掛(か)けて居(を)つて勤(つと)まるものかい。163貴様(きさま)勝手(かつて)にしたがよからう』
164 留公(とめこう)は、
165留公(とめこう)『蛙(かはづ)の行列(ぎやうれつ)向(むか)う見(み)ず、166生命(いのち)知(し)らずの馬鹿者(ばかもの)』
167と口(くち)ぎたなく罵(ののし)り乍(なが)ら、168坂路(さかみち)指(さ)して韋駄天(ゐだてん)走(ばし)りに、169霧(きり)の中(なか)に姿(すがた)を没(ぼつ)した。
170田吾作(たごさく)『ハヽヽヽ、171宣伝使(せんでんし)様(さま)、172随分(ずゐぶん)妙(めう)な活劇(くわつげき)否(いな)悲劇(ひげき)が演(えん)ぜられましたなア。173何(いづ)れ彼奴(あいつ)は今(いま)言(い)つた様(やう)な臆病者(おくびやうもの)ぢやないから、174先駆(さきが)けの功名(こうみやう)手柄(てがら)をやらかさうと思(おも)つて、175キツト単騎(たんき)登山(とざん)と道(みち)を変(か)へて出(で)かけやがつたのでせう。176途中(とちう)でアツと言(い)はせる様(やう)な芸当(げいたう)を演(えん)ずるのかも知(し)れませぬから、177怪(あや)しき者(もの)が出(で)たら油断(ゆだん)をなさいますなや。178キツト留公(とめこう)の化者(ばけもの)に定(きま)つてゐます。179彼奴(あいつ)は何時(いつ)でもああ云(い)ふ事(こと)をして喜(よろこ)ぶ癖(くせ)があるのです。180それで私(わたし)も勝手(かつて)に帰(い)んだがよからうと、181あなたの御(お)言葉(ことば)を幸(さいは)ひに帰(い)なしてやりました』
182宗彦(むねひこ)『面白(おもしろ)い男(をとこ)ですな。183何(いづ)れ岩窟(いはや)の附近(ふきん)まで往(い)つたら、184鬼婆(おにばば)の真似(まね)でもして現(あら)はれるのでせう。185原彦(はらひこ)さん、186サア案内(あんない)を頼(たの)みませう』
187原彦(はらひこ)『私(わたくし)も御(ご)案内(あんない)とは申(まを)しましたが、188実(じつ)は初(はじ)めての事(こと)で一向(いつかう)不案内(ふあんない)です。189併(しか)し私(わたくし)の通(とほ)る所(ところ)は貴方(あなた)も通(とほ)れるでせう。190露払(つゆばらひ)や蜘蛛(くも)の巣(す)払(ばらひ)に、191先(さき)へ行(ゆ)きますから、192従(つ)いて来(き)て下(くだ)さい』
193と不案内(ふあんない)の路(みち)を谷(たに)に沿(そ)うて、194トントンと登(のぼ)り行(ゆ)く。195二人(ふたり)は後(あと)を追(お)ふ。196前途(ぜんと)に激潭(げきたん)飛沫(ひまつ)の谷川(たにがは)が横(よこ)たはつて居(ゐ)る。197四五(しご)人(にん)の男女(なんによ)が熊(くま)の皮(かは)を洗(あら)ひ晒(さ)らして木(き)の梢(こずゑ)に架(か)け渡(わた)し風(かぜ)を当(あ)てて乾(かわ)かして居(ゐ)る。198さうして何(ど)れも此(こ)れも皆(みな)、199黒(くろ)い熊(くま)の皮(かは)や、200赤(あか)い猪(しし)の皮(かは)を身(み)に纏(まと)うて立働(たちはたら)いて居(ゐ)た。
201原彦(はらひこ)『オーイ、202オイ、203其処(そこ)に居(ゐ)る五六(ごろく)人(にん)の御(ご)連中(れんちう)さま、204三国(みくに)ケ嶽(だけ)の婆(ばば)アの岩窟(いはや)は、205どつちやへ行(い)つたら良(よ)いのかな』
206 川向(かはむか)ひの男(をとこ)、207無言(むごん)の儘(まま)、208指先(ゆびさき)で……此(この)谷川(たにがは)を渡(わた)り、209東(ひがし)へ指(さ)して行(ゆ)け……と手真似(てまね)で知(しら)して居(ゐ)る。
210原彦(はらひこ)『アヽ此奴(こいつ)ア唖(おし)と見(み)えるワイ。211併(しか)し乍(なが)ら此(この)谷川(たにがは)を渡(わた)つて東(ひがし)の方(はう)へ行(ゆ)けと云(い)うたのだらう。212……モシモシ宣伝使(せんでんし)様(さま)、213私(わたくし)が一寸(ちよつと)瀬踏(せぶ)みをして見(み)ませう。214大変(たいへん)流(なが)れも急(きふ)なり、215水量(みづかさ)も多(おほ)いから、216万一(まんいち)私(わたくし)が死(し)ぬ様(やう)な事(こと)があつたら、217キツト渡(わた)らない様(やう)にして下(くだ)さい。218先(ま)づお毒見(どくみ)……否(いな)お水見(みづみ)を勤(つと)めませう』
219と尻(しり)を捲(まく)つて早(はや)くも谷川(たにがは)を渡(わた)らうとする。
220田吾作(たごさく)『オイ原彦(はらひこ)、221死(し)ぬのはチツと惜(を)しいぢやないか。222お水試(みづみ)なんかせなくとも分(わか)つてる。223どれ程(ほど)水(みづ)の達者(たつしや)な河童(かつぱ)の兄弟分(きやうだいぶん)でも、224此(この)急流(きふりう)がどうして渡(わた)れるものか。225マア危(あやふ)きに近寄(ちかよ)らんがよからうぞ』
226原彦(はらひこ)『私(わたくし)は命(いのち)を既(すで)に宣伝使(せんでんし)様(さま)に差上(さしあ)げてあるのだから、227運(うん)を天(てん)に任(まか)して渡(わた)つて見(み)る』
228と無理(むり)無体(むたい)に川瀬(かはせ)を横(よこ)ぎり、229漸(やうや)く辛(から)うじて対岸(むかうぎし)に着(つ)いた。230五(ご)人(にん)の男女(なんによ)は之(これ)を見(み)て驚(おどろ)き、231『ア、232ア、233アー』と声(こゑ)を立(た)て、234一目散(いちもくさん)に歩(あゆ)み慣(な)れし山(やま)の細路(ほそみち)を伝(つた)うて、235霧(きり)の林(はやし)に姿(すがた)を没(ぼつ)した。
236原彦(はらひこ)『ヤア有難(ありがた)い。237沢山(たくさん)な熊(くま)の皮(かは)が並(なら)べてある。238乾(かわ)いた奴(やつ)も相当(さうたう)に有(あ)るワイ。239サア此奴(こいつ)を一(ひと)つ身(み)に纏(まと)うて登(のぼ)つてやらう。240……オイオイ田吾作(たごさく)、241早(はや)う渡(わた)つた渡(わた)つた。242割(わり)とは浅(あさ)かつた。243大丈夫(だいぢやうぶ)だよ』
244田吾作(たごさく)『サア宗彦(むねひこ)さま、245お渡(わた)りなさいませ。246私(わたし)が後(あと)から従(つ)いて行(ゆ)きます。247もしも誤(あやま)つて水(みづ)の藻屑(もくづ)にならしやつた所(ところ)が、248義理(ぎり)の兄弟(きやうだい)の私(わたし)が、249決(けつ)して棄(す)てては置(お)きませぬ。250キツト死骸(しがい)は拾(ひろ)つてあげます。251サアあなたからお先(さき)へお渡(わた)りお渡(わた)り』
252宗彦(むねひこ)『そこまで徹底(てつてい)的(てき)に受合(うけあ)つて貰(もら)へば、253私(わたし)も安心(あんしん)だ』
254と戯談(じやうだん)半分(はんぶん)に喋舌(しやべ)り乍(なが)ら、255尻(しり)を捲(まく)つて漸(やうや)く対岸(むかうぎし)に着(つ)いた。256田吾作(たごさく)は手(て)を拍(う)つて、
257田吾作(たごさく)『アハヽヽヽ、258本当(ほんたう)の登(のぼ)り路(みち)は此方(こちら)にあるのだ。259そんな方(はう)へ行(ゆ)かうものなら、260近江(あふみ)の国(くに)へ往(い)つて了(しま)ふぞ』
261 原彦(はらひこ)は川(かは)の向(むか)うから大(おほ)きな声(こゑ)を出(だ)して、
262原彦(はらひこ)『コレ田吾作(たごさく)、263そんな事(こと)が分(わか)つて居(ゐ)るのなら何故(なぜ)早(はや)くに知(し)らして下(くだ)さらぬのだ』
264田吾作(たごさく)『知(し)らしてなるものか。265俺(おれ)のお土産(みやげ)に其(その)猪(しし)の皮(かは)を全部(ぜんぶ)ひつ抱(かか)へて此方(こちら)へ渡(わた)るのだ。266宣伝使(せんでんし)様(さま)も四五(しご)枚(まい)掻攫(かつさら)へてお帰(かへ)りなさい。267其(その)為(ため)に此(この)田吾作(たごさく)が計略(けいりやく)で、268向(むか)ふへ渡(わた)らしたのだ』
269宗彦(むねひこ)『ハヽハア、270一杯(いつぱい)喰(く)はされましたな。271併(しか)し失敗(しつぱい)が幸(さいは)ひになるとは茲(ここ)の事(こと)だ。272何(いづ)れ他人(ひと)にも要(い)るだらうし、273原彦(はらひこ)さま、274お前(まへ)と二人(ふたり)、275持(も)てる丈(だけ)持(も)つて向(むか)ふへ渡(わた)らうかな』
276と大(おほ)きな熊(くま)の皮(かは)をひん抱(だ)き谷川(たにがは)に足(あし)を入(い)れる。277原彦(はらひこ)も体(からだ)一面(いちめん)に熊(くま)の皮(かは)をくくりつけ、278漸(やうや)くにして再(ふたた)び谷川(たにがは)を渡(わた)り、279田吾作(たごさく)の前(まへ)に引返(ひきかへ)して来(き)た。
280田吾作(たごさく)『皆(みな)さま大(いか)い御(ご)苦労(くらう)で御座(ござ)いました。281お土産(みやげ)に一番(いちばん)飛切(とびきり)の上等(じやうとう)を頂戴(ちやうだい)致(いた)しませう』
282原彦(はらひこ)『イエイエ是(こ)れは私(わたくし)の分(ぶん)丈(だけ)だ。283生命(いのち)も危(あぶ)ない此(この)谷川(たにがは)を、284どうして二人前(ふたりまへ)も背負(せお)うて渡(わた)れるものか、285お前(まへ)の分(ぶん)はチヤンと向(むか)ふに、286屑(くづ)ばつかり残(のこ)してある。287人(ひと)の苦労(くらう)で徳(とく)を取(と)るといふ事(こと)は、288神(かみ)様(さま)の大変(たいへん)に戒(いまし)め玉(たま)ふ所(ところ)だ。289サアサア自分(じぶん)の物(もの)は自分(じぶん)で処置(しよち)をつけるのだよ』
290田吾作(たごさく)『そんな事(こと)は、291遠(とほ)の昔(むかし)から御存(ごぞん)じの田吾作(たごさく)だ。292釈迦(しやか)に経(きやう)を説(と)く様(やう)な事(こと)を言(い)うて貰(もら)ふまいかい』
293 早(はや)くもザブザブと対岸(むかうぎし)へ渡(わた)り、294洗(あら)ひ立(た)ての選(よ)り残(のこ)りのヅクヅクばつかり引抱(ひつかか)へ、
295田吾作(たごさく)『ヤア重(おも)い奴(やつ)ばつかり除(の)けて置(お)きやがつた。296併(しか)し己(おの)れの欲(ほつ)する所(ところ)能(よ)く人(ひと)に施(ほどこ)せ。297欲(ほつ)せざる所(ところ)は人(ひと)に施(ほどこ)す勿(なか)れと云(い)ふ事(こと)が有(あ)るなア』
298とワザと大音声(だいおんじやう)に呼(よば)はり乍(なが)ら、299藤蔓(ふぢつる)に残(のこ)らず縛(しば)りつけ、300自分(じぶん)の腰(こし)に結(いは)ひ、301ザアザアと引(ひき)ずり乍(なが)ら帰(かへ)つて来(き)た。
302田吾作(たごさく)『宣伝使(せんでんし)さま、303私(わたし)の智慧(ちゑ)は大(たい)したものでせう。304神智(しんち)神策(しんさく)、305水(みづ)も洩(も)らさぬ所(とこ)まで水(みづ)を利用(りよう)し、306此(この)通(とほ)り沢山(たくさん)の獲物(えもの)を占領(せんりやう)して来(き)ました。307ヤツパリ役者(やくしや)が七八(しちはち)枚(まい)も上(うへ)だ。308千(せん)両(りやう)役者(やくしや)だからなア』
309と独(ひと)り悦(えつ)に入(い)つて居(を)る。
310原彦(はらひこ)『チツと絞(しぼ)つてあげませうか。311こりや干(ほ)さねば重(おも)たくて持(も)つて往(ゆ)けますまい』
312田吾作(たごさく)『不言(ふげん)実行(じつかう)だよ』
313原彦(はらひこ)『不言(ふげん)実行(じつかう)とは初(はじ)めて聞(き)きますが、314どう云(い)ふ意味(いみ)ですか。315言(い)つて下(くだ)さいな』
316田吾作(たごさく)『言(い)はないのに気(き)がついて実行(じつかう)するのが不言(ふげん)実行(じつかう)だ。317言(い)つてやるとよいが、318天機(てんき)を洩(も)らすと雨(あめ)が降(ふ)る。319不言(ふげん)の教(をしへ)無為(むゐ)の化(くわ)だ。320マアマア考(かんが)へて社会(しやくわい)奉仕(ほうし)を励(はげ)むが、321御(お)神徳(かげ)の入口(いりぐち)だな、322アハヽヽヽ』
323原彦(はらひこ)『宣伝使(せんでんし)様(さま)、324不言(ふげん)実行(じつかう)の訳(わけ)を聞(き)かして下(くだ)さいませぬか』
325 宗彦(むねひこ)は黙々(もくもく)として、326濡(ぬ)れた皮(かは)を取(と)り上(あ)げ、327一生(いつしやう)懸命(けんめい)に絞(しぼ)つては木(き)の枝(えだ)に引(ひ)つかける。328原彦(はらひこ)も黙(だま)つて見(み)て居(ゐ)る訳(わけ)にも行(ゆ)かず、329同(おな)じく皮(かは)を絞(しぼ)つては懸(か)け、330絞(しぼ)つては懸(か)けて風(かぜ)に乾(かわ)かさうと、331車輪(しやりん)の活動(くわつどう)を行(や)つて居(を)る。332田吾作(たごさく)は、
333田吾作(たごさく)『アヽそれが不言(ふげん)実行(じつかう)だよ。334分(わか)つたか』
335原彦(はらひこ)『まだ分(わか)りませぬ』
336田吾作(たごさく)『分(わか)らなくても、337実地(じつち)さへ出来(でき)ればよいのだ。338現今(いま)の奴(やつ)は宣伝(せんでん)だけは立派(りつぱ)だが少(すこ)しも実行(じつかう)が伴(ともな)はない。339併(しか)しマアマア漸(やうや)く及第点(きふだいてん)に達(たつ)した。340宗彦(むねひこ)様(さま)は率先(そつせん)して不言(ふげん)実行(じつかう)をやられたから六十五(ろくじふご)点(てん)、341お前(まへ)は漸(やうや)く四十五(しじふご)点(てん)だ。342五点(ごてん)の事(こと)で落第点(らくだいてん)になる所(ところ)だよ』
343原彦(はらひこ)『ますます分(わか)りませぬ』
344田吾作(たごさく)『原(はら)の腹(はら)が暗(くら)くつて、345胸(むね)が開(ひら)けぬから、346実地(じつち)の事(こと)が目(め)が有(あ)つても見(み)えず、347田吾作(たごさく)の立派(りつぱ)な生(い)きた教(をしへ)が耳(みみ)へ這入(はい)らず、348嗅出(かぎだ)す事(こと)も出来(でき)ず、349舌(した)は有(あ)つても味(あぢ)はふ事(こと)が出来(でき)ないのだ。350斯(か)う思(おも)へば何(なん)にも知(し)らずに実行(じつかう)する者(もの)位(くらゐ)幸福(かうふく)な者(もの)はないワイ』
351宗彦(むねひこ)『有難(ありがた)う御座(ござ)いました。352お蔭(かげ)で田吾作(たごさく)の宣伝使(せんでんし)より六十五(ろくじふご)点(てん)頂戴(ちやうだい)しました。353サア是(こ)れでモウ三十五(さんじふご)点(てん)頂戴(ちやうだい)致(いた)しませうか』
354と一番(いちばん)立派(りつぱ)な熊(くま)の皮(かは)を選(よ)り出(だ)して、355田吾作(たごさく)の背中(せなか)に着(き)せる。
356田吾作(たごさく)『ヨシヨシ、357モウ試験済(しけんずみ)だ。358希望(きばう)通(どほ)り三十五(さんじふご)点(てん)を与(あた)へる。359これで満点(まんてん)だ。360満天下(まんてんか)に神教(しんけう)を宣伝(せんでん)しても恥(は)ぢることなき大(だい)宣伝使(せんでんし)だ。361お芽出(めで)たう。362銀(ぎん)のセコンドでも賞与(しやうよ)に与(や)りたいのだが、363生憎(あいにく)持(も)つて居(ゐ)ないから、364親譲(おやゆづ)りのヘソンドで辛抱(しんばう)するのだなア、365これでも十二(じふに)時(じ)が来(く)るとよく知(し)つて居(ゐ)る』
366原彦(はらひこ)『私(わたくし)にも、367せめて二十点(にじつてん)下(くだ)さいな』
368と自分(じぶん)の攫(さら)へて来(き)た中(なか)より、369最(もつと)も優(すぐ)れたる毛皮(けがは)を取(と)り出(だ)し、370田吾作(たごさく)の背中(せなか)に乗(の)せる。
371田吾作(たごさく)『ヨシヨシ、372物品(ぶつぴん)一点(いつてん)俺(おれ)に呉(く)れたから、373一点(いつてん)を増(ま)してやらう。374総計(そうけい)四十六(しじふろく)点(てん)だ、375アハヽヽヽ』
376 田吾作(たごさく)は原彦(はらひこ)の顔(かほ)を眺(なが)め乍(なが)ら、377又(また)もや、
378田吾作(たごさく)『不言(ふげん)実行(じつかう) 不言(ふげん)実行(じつかう) 不言(ふげん)実行(じつかう)』
379と節(ふし)をつけて謡(うた)ふ様(やう)に繰返(くりかへ)して居(ゐ)る。380原彦(はらひこ)は狼狽(うろた)へて、381彼方(あちら)の皮(かは)をかやして見(み)、382此方(こちら)の皮(かは)を嬲(なぶ)つて見(み)、383田吾作(たごさく)の背中(せなか)を撫(な)でて見(み)るやら、384宣伝使(せんでんし)の足許(あしもと)の草鞋(わらぢ)が切(き)れて居(ゐ)るのではなからうかと、385キリキリ舞(ま)ひをして居(ゐ)る。386田吾作(たごさく)は一層(いつそう)大(おほ)きな声(こゑ)で、387節(ふし)をつけて、
388田吾作(たごさく)『不言(ふげん)実行(じつかう) 不言(ふげん)実行(じつかう) 不言(ふげん)実行(じつかう)』
389を又(また)もや繰返(くりかへ)して居(ゐ)る。390原彦(はらひこ)はハツと膝(ひざ)を叩(たた)いて、391片方(かたへ)に落(お)ちてゐた棒(ぼう)の様(やう)な木切(きぎれ)を拾(ひろ)ひ、392毛皮(けがは)を両端(りやうはし)に括(くく)りつけ、393肩(かた)に担(かつ)いで、
394原彦(はらひこ)『サア私(わたくし)が不言(ふげん)実行(じつかう)のお伴(とも)を致(いた)します。395不言(ふげん)菩薩(ぼさつ)に実行(じつかう)菩薩(ぼさつ)様(さま)、396サアお出(い)でなさいませ』
397田吾作(たごさく)『普賢(ふげん)菩薩(ぼさつ)は聞(き)いた事(こと)があるが、398実行(じつかう)菩薩(ぼさつ)は聞(き)き始(はじ)めだ』
399原彦(はらひこ)『実行(じつかう)菩薩(ぼさつ)といへば、400ミロク様(さま)の事(こと)だよ。401瑞(みづ)の御霊(みたま)の大神(おほかみ)さまだ。402本当(ほんたう)に月光(げつくわう)(結構(けつこう))な神(かみ)さまと云(い)ふ事(こと)だよ』
403田吾作(たごさく)『アハー月光(ぐわつくわう)菩薩(ぼさつ)の洒落(しやれ)だな。404洒落(しやれ)所(どころ)かい、405是(これ)から先(さき)は不言(ふげん)実行(じつかう)で勝(か)つのだ。406最前(さいぜん)の五(ご)人(にん)の男女(だんぢよ)を見(み)い。407一口(ひとくち)も言(い)はず、408不言(ふげん)実行(じつかう)の標本(へうほん)を示(しめ)して、409手早(てばや)く逃(に)げやがつたぢやないか。410あれ位(くらゐ)慈悲(じひ)深(ぶか)い奴(やつ)は有(あ)つたものぢやない。411其(その)お蔭(かげ)で吾々(われわれ)は月光(げつくわう)な恩恵(おんけい)に浴(よく)したのだ、412アハヽヽヽ、413ドレ田吾作(たごさく)も不言(ふげん)実行(じつかう)菩薩(ぼさつ)と出(で)かけようかい』
414と先(さき)に立(た)ちて羊腸(やうちやう)の小径(こみち)を辿(たど)り辿(たど)り進(すす)んで行(ゆ)く。415田吾作(たごさく)は歩(あゆ)み減(へ)らした細(ほそ)い路(みち)を、416曲々(きよくきよく)と舞(ま)ひ乍(なが)ら、417先(さき)に立(た)ちて稍(やや)平坦(へいたん)な地点(ちてん)に着(つ)いた。
418田吾作(たごさく)『アヽ不言(ふげん)実行組(じつかうぐみ)は何(なに)をして居(ゐ)るのか。419足(あし)の遅(おそ)い事(こと)だなア』
420と呟(つぶや)いて居(を)る。421そこへ横合(よこあひ)から三(さん)人(にん)の五六(ごろく)才(さい)と覚(おぼ)しき男(をとこ)の子(こ)、422一人(ひとり)は赤裸(まつぱだか)となり顔(かほ)に手(て)を当(あ)てて泣(な)いて居(ゐ)る。423一人(ひとり)は裸(はだか)の儘(まま)で面(つら)ふくらして怒(おこ)つて居(を)る。424一人(ひとり)はニヤニヤと笑(わら)ふ。
425田吾作(たごさく)『ヤア此奴(こいつ)ア三国(みくに)ケ嶽(だけ)の化物(ばけもの)だな。426こんな所(ところ)で三(さん)人(にん)上戸(じやうご)が出(で)て来(き)やがつて、427酒(さけ)でも有(あ)つたら不言(ふげん)実行(じつかう)してやるのだが。428生憎(あいにく)酒(さけ)もなし……ハヽハ赤裸(まつぱだか)だ。429ヨシヨシ考(かんが)へがある。430早(はや)く原彦(はらひこ)の奴(やつ)、431毛皮(けがは)を持(も)つて来(き)やがると良(い)いのだけれどなア』
432と云(い)ふ折(をり)しもハアハアと息(いき)を喘(はず)ませ、433両人(りやうにん)は登(のぼ)つて来(き)た。434田吾作(たごさく)は物(もの)をも言(い)はず、435原彦(はらひこ)の担(かつ)いで居(を)る荷(に)をボツタクり、436手早(てばや)くほどいて、437其(その)中(なか)の小(ちひ)ささうな皮(かは)を選(え)り別(わ)け出(だ)した。438原彦(はらひこ)は、
439原彦(はらひこ)『不言(ふげん)実行(じつかう)だつて、440泥棒(どろばう)まで実行(じつかう)して良(よ)いのか』
441と脹(ふく)れる。442田吾作(たごさく)は三(さん)人(にん)の童子(どうじ)を指(さ)し示(しめ)した。443宗彦(むねひこ)、444原彦(はらひこ)は見(み)るより『ヤア』と倒(たふ)れむばかりに驚(おどろ)いた。445よくよく見(み)れば三(さん)人(にん)の童子(どうじ)の背後(はいご)から五色(ごしき)の光明(くわうみやう)が輝(かがや)き、446麗(うるは)しき霊衣(れいい)に包(つつ)まれて居(ゐ)る。447田吾作(たごさく)は少(すこ)しも気(き)が付(つ)かず、448慌(あわ)てまはして、449適当(てきたう)の毛皮(けがは)を取(と)り出(だ)し、450三(さん)人(にん)に一々(いちいち)着(き)せて廻(まは)つた。451三(さん)人(にん)は黙(だま)つて毛皮(けがは)を取(と)り外(はづ)し、452大地(だいち)にパツと敷(し)いて、453各自(めいめい)其(その)上(うへ)に行儀(ぎやうぎ)よくキチンと坐(すわ)つた。
454宗彦(むねひこ)『これはこれは何神(なにがみ)様(さま)かは知(し)りませぬが、455よくマア現(あら)はれて下(くだ)さいました。456私(わたくし)は是(こ)れより山頂(さんちやう)の岩窟(いはや)に割拠(かつきよ)する鬼婆(おにばば)を言向(ことむ)け和(やは)す為(ため)に参(まゐ)ります。457どうぞ御(ご)守護(しゆご)を御(お)願(ねが)ひ致(いた)します』
458笑童子(わらひどうじ)『アハヽヽヽ、459七(しち)尺(しやく)の男子(だんし)が……而(しか)も宣伝使(せんでんし)の肩書(かたがき)を持(も)ち、460岩窟(がんくつ)の鬼婆(おにばば)を退治(たいぢ)せむと、461此処(ここ)まで勇(いさ)み進(すす)んで登(のぼ)り来(き)乍(なが)ら、462人(ひと)の助(たす)けを借(か)らうとするのか。463ハツハツハ可笑(をか)しい可笑(をか)しい、464依頼心(いらいしん)の強(つよ)い男(をとこ)だなア』
465宗彦(むねひこ)『恐(おそ)れ入(い)りました。466モウ決(けつ)して依頼(いらい)は致(いた)しませぬ。467何(いづ)れの神(かみ)様(さま)か知(し)りませぬが、468ついお頼(たの)み申(まを)すとか、469御(ご)守護(しゆご)を願(ねが)ひますとか云(い)ふ事(こと)が、470吾々(われわれ)の常套語(じやうたうご)になつて居(ゐ)ますので心(こころ)にもなき卑怯(ひけふ)な事(こと)を申(まを)したので御座(ござ)います。471どうぞ見直(みなほ)し聞直(ききなほ)して下(くだ)さいませ』
472泣童子(なきどうじ)『アンアンアン、473情(なさけ)無(な)い宣伝使(せんでんし)ぢやなア。474三(さん)人(にん)も荒男(あらをとこ)が、475たつた一人(ひとり)の婆(ばば)アを当(あて)に出(で)て来(き)よつて、476何(なん)の態(ざま)ぢや。477斯(こ)んな事(こと)でどうして三五教(あななひけう)の神徳(しんとく)が現(あら)はれようぞ。478思(おも)へば思(おも)へば厭(いや)になつて来(き)た。479これでは国治立(くにはるたちの)大神(おほかみ)様(さま)、480素盞嗚(すさのをの)尊(みこと)様(さま)が何程(なにほど)骨(ほね)を折(を)り、481心(こころ)を砕(くだ)かしやつても、482こんなガラクタ宣伝使(せんでんし)ばつかりでは、483神政(しんせい)成就(じやうじゆ)も覚束(おぼつか)無(な)いわいの、484……オンオンオン』
485宗彦(むねひこ)『どうぞモウ見直(みなほ)し聞直(ききなほ)し下(くだ)さいませ。486是(これ)からキツと勇猛心(ゆうまうしん)を発揮(はつき)し、487婆(ばば)アの千匹(せんびき)や万匹(まんびき)は、488善言(ぜんげん)美詞(びし)の言霊(ことたま)の神力(しんりき)に依(よ)つて吹(ふ)き散(ち)らしますから、489どうぞ泣(な)いて下(くだ)さいますな』
490泣童子(なきどうじ)『捕(と)らぬ狸(たぬき)の皮算用(かはざんよう)をしよつて、491当(あて)もない事(こと)に威張(ゐば)つて居(を)る……其(その)心根(こころね)が可憐(いぢ)らしい。492一寸先(いつすんさき)は暗(やみ)の世(よ)ぢや。493なんにも知(し)らぬ人民(じんみん)は、494足許(あしもと)に火(ひ)が燃(も)えて来(く)る迄(まで)分(わか)らないのか。495アヽア可哀相(かはいさう)なものぢや。496どうして人間(にんげん)は是(こ)れ丈(だけ)、497物(もの)が分(わか)らぬのだらうな……オンオンオン』
498宗彦(むねひこ)『誠(まこと)に汗顔(かんがん)の至(いた)りで御座(ござ)います。499さう仰(おつ)しやれば……さうですが、500何事(なにごと)も神(かみ)様(さま)にお任(まか)せ致(いた)して進(すす)むので御座(ござ)います』
501 怒(おこ)つた顔(かほ)の童子(どうじ)、502面(つら)ふくらし目(め)を剥(む)き、
503童子(どうじ)『惟神(かむながら)、504惟神(かむながら)と口癖(くちぐせ)の様(やう)に言(い)ひやがつて、505難(なん)を避(さ)け易(やす)きに就(つ)き、506自分(じぶん)の責任(せきにん)を神(かみ)様(さま)に転嫁(てんか)し、507惟神(かむながら)中毒病(ちうどくびやう)を起(おこ)し、508大(おほ)きな面(つら)をして天下(てんか)を股(また)にかけ、509濁(にご)つた言霊(ことたま)の宣伝歌(せんでんか)を謡(うた)ひ、510折角(せつかく)の結構(けつこう)な世(よ)の中(なか)を濁(にご)す奴(やつ)は貴様(きさま)の様(やう)な代物(しろもの)だ。511チツとも足元(あしもと)に目(め)が付(つ)かず、512尻(しり)が結(むす)べぬ馬鹿者(ばかもの)だ。513それでも誠(まこと)の道(みち)の宣伝使(せんでんし)かい。514貴様(きさま)の様(やう)な穀潰(ごくつぶ)しが沢山(たくさん)に世(よ)の中(なか)に、515ウヨウヨと発生(わき)やがるものだから、516世界(せかい)の人民(じんみん)が苦(くるし)むのだ、517エーエー腹立(はらだ)たしい。518神(かみ)を笠(かさ)に着(き)たり、519杖(つゑ)に突(つ)いたり、520尻敷(しりしき)にしたり、521汚(けが)らはしい、522盗(ぬす)んで来(き)た熊(くま)の皮(かは)を俺(おれ)達(たち)の背中(せなか)に乗(の)せよつて、523ケツケツけがらはしいワイ。524尻敷(しりしき)にしてやつてもまだ虫(むし)が承知(しようち)せないのだ。525コラ斯(か)う小(ちひ)さい子供(こども)の様(やう)に見(み)えても、526至大(しだい)無外(むぐわい)、527至小(しせう)無内(むない)、528千変(せんぺん)万化(ばんくわ)の結構(けつこう)な神(かみ)様(さま)のお使(つか)ひだぞ。529貴様(きさま)の量見(りやうけん)次第(しだい)で、530閻魔(えんま)ともなれば、531鬼(おに)ともなり、532大蛇(をろち)ともなつて喰(く)て了(しま)うてやらうか。533イヤ背筋(せすぢ)を立(た)ち割(わ)り鉛(なまり)の熱湯(ねつたう)を流(なが)し込(こ)んで、534制敗(せいばい)をしてやらうか。535三国(みくに)ケ岳(だけ)に大蛇(をろち)が居(を)るの、536鬼婆(おにばば)が居(を)るのと吐(ぬか)して、537言向(ことむ)け和(やは)すの、538征服(せいふく)するのとは何(なん)の事(こと)だい。539鬼婆(おにばば)も大蛇(をろち)も、540鬼(おに)も悪魔(あくま)も、541貴様(きさま)の胸(むね)に割拠(かつきよ)して居(ゐ)るのを知(し)らぬのか。542鬼婆(おにばば)を言向(ことむ)け和(やは)さうと思(おも)へば、543貴様(きさま)達(たち)の腹(はら)の中(なか)の鬼婆(おにばば)から先(さき)へ改心(かいしん)さして出(で)て行(ゆ)きやがれ。544大(おほ)馬鹿者(ばかもの)奴(め)。545ウーン』
546と目(め)を剥(む)き出(だ)し、547大(おほ)きな口(くち)を開(あ)け、548咬(かぶ)り付(つ)く様(やう)な勢(いきほひ)で、549突(つ)つ立(た)ち上(あが)り、550三(さん)人(にん)の顔(かほ)をギヨロギヨロと睨(ね)めまはす。551三(さん)人(にん)は一度(いちど)に大地(だいち)に頭(かしら)を下(さ)げ、
552三(さん)人(にん)『誠(まこと)に取違(とりちが)ひを致(いた)して居(を)りました。553イヤもう結構(けつこう)な御(ご)神徳(しんとく)を戴(いただ)きました。554モウこれから改心(かいしん)を致(いた)します』
555笑童子(わらひどうじ)『アハヽヽヽ、556一寸(ちよつと)よいと得意(とくい)がつて無暗(むやみ)に噪(はし)やぎ、557一寸(ちよつと)叱言(こごと)を聞(き)いては直(すぐ)に悄気(しよげ)返(かへ)るカメリヲンの様(やう)な男(をとこ)だな。558大(おほ)きな図体(づうたい)をして、559こんなチツポケな子供(こども)に叱(しか)られて、560それが怖(こは)いのかい。561神界(しんかい)にはそんな妙(めう)な弱(よわ)い弱(よわ)い人足(にんそく)は一人(ひとり)も居(を)りはせぬぞや。562神界(しんかい)の喜劇(きげき)よりも、563よつぽど面白(おもしろ)い面白(おもしろ)い。564アハヽヽヽアハヽヽヽ』
565と臍(へそ)を抱(かか)へて笑(わら)ひ転(こ)ける。
566泣童子(なきどうじ)『アーア情(なさけ)無(な)い事(こと)を見(み)せられたものだ。567これでも現界(げんかい)では選(よ)りに選(よ)つて選(えら)まれた特別(とくべつ)選手(せんしゆ)ぢやさうなが、568其(その)他(た)は推(お)して知(し)るべしだ。569瑞(みづ)の御霊(みたま)の祖神(おやがみ)様(さま)も嘸(さぞ)御(お)骨(ほね)の折(お)れる事(こと)だらう。570オイオイオイ。571あまり悲(かな)しうて涙(なみだ)も出(で)やせぬわいなア。572宣伝使(せんでんし)と云(い)ふ者(もの)は、573何(なん)とした腑甲斐(ふがひ)ないものだらう。574蛸(たこ)の様(やう)に骨(ほね)も何(なに)も有(あ)りやせぬワ。575こんな事(こと)で、576どうして八岐(やまた)の大蛇(をろち)が退治(たいぢ)が出来(でき)るものか、577世(よ)の中(なか)は益々(ますます)悪鬼(あくき)羅刹(らせつ)の横行(わうかう)濶歩(くわつぽ)を擅(ほしいまま)にさせるのみだ。578どうして現界(げんかい)には誠(まこと)らしい者(もの)が無(な)いのだらうか、579アンアンアン』
580田吾作(たごさく)『モシモシ子供(こども)の神(かみ)さま、581さうお歎(なげ)きなさいますな。582広(ひろ)い世界(せかい)には一人(ひとり)や二人(ふたり)は立派(りつぱ)な者(もの)が無(な)いとも言(い)へませぬ。583現(げん)に此処(ここ)に唯(ただ)一人(ひとり)有(あ)るぢやありませぬか。584さう取越(とりこ)し苦労(くらう)をして、585泣(な)くものぢやありませぬ。586世(よ)の中(なか)は何事(なにごと)も善言(ぜんげん)美詞(びし)に宣(の)り直(なほ)すのが天地(てんち)の御(ご)規則(きそく)だ。587泣(な)いて暮(くら)すも一生(いつしやう)なら、588笑(わら)つて暮(くら)すも一生(いつしやう)だ。589結構(けつこう)な此(この)世(よ)の中(なか)に、590何(なに)が不足(ふそく)でメソメソと泣(な)くのだ。591わしは「悔(くや)み事(ごと)と泣(な)き事(ごと)は大(だい)の嫌(きら)ひであるぞよ。592勇(いさ)んで暮(くら)して下(くだ)されよ」と云(い)ふ神(かみ)様(さま)の教(をしへ)を守(まも)つて、593世(よ)の中(なか)を大楽観(だいらくくわん)して活動(くわつどう)して居(を)るのだ。594お前(まへ)さまもチツとは思(おも)ひ直(なほ)して改心(かいしん)なさつたらどうだ。595「悔(くや)めば悔(くや)む事(こと)が出来(でき)て来(く)るぞよ」……と云(い)ふ事(こと)を知(し)つとりますか。596ヤ、597まだ子供(こども)だから分(わか)らぬのも無理(むり)はない』
598泣童子(なきどうじ)『わしも朝(あさ)から晩(ばん)まで泣(な)いて暮(くら)した事(こと)はない。599今日(けふ)初(はじ)めて泣(な)かねばならぬ事(こと)が出来(でき)たのだわいのう…アンアンアンアン…折角(せつかく)骨(ほね)折(を)つて、600生命(いのち)懸(が)けで熊(くま)を捕(と)り、601皮(かは)を綺麗(きれい)に洗(あら)ひ、602爺(ぢい)さま婆(ば)アさまの着物(きもの)にしようと思(おも)つて、603楽(たの)しんで居(を)つた人間(にんげん)の物品(ぶつぴん)を、604横奪(わうだつ)した泥棒(どろばう)根性(こんじやう)の宣伝使(せんでんし)に説教(せつけう)を聞(き)かされるかと思(おも)へば、605残念(ざんねん)で残念(ざんねん)で、606是(これ)が泣(な)かずに居(を)られようか。607モウどうぞ今日(けふ)限(かぎ)り泥棒(どろばう)根性(こんじやう)はやめて下(くだ)さい……アンアンアン…それに付(つ)けても言依別(ことよりわけの)神(かみ)様(さま)から、608大切(たいせつ)な御(ご)命令(めいれい)を受(うけ)た宗彦(むねひこ)のデモ宣伝使(せんでんし)、609二人(ふたり)の奴(やつ)が盗人(ぬすびと)をするのに、610なぜ黙(だま)つて居(を)つたか、611…イヤ自分(じぶん)から率先(そつせん)して泥棒(どろばう)の手本(てほん)を見(み)せよつたぢやないか。612斯(こ)んな事(こと)でどうして誠(まこと)の道(みち)が開(ひら)けると思(おも)ふか。613アーア日(ひ)暮(く)れて道(みち)遠(とほ)しの感(かん)益々(ますます)深(ふか)しだ。614どうしたら人間(にんげん)らしい人間(にんげん)が、615一人(ひとり)でも出来(でき)るだらう。616泥棒(どろばう)に聖山(せいざん)を汚(けが)されて取返(とりかへ)しのならぬ事(こと)をした哩(わい)……アンアンアンアン』
617宗彦(むねひこ)『イヤ決(けつ)して決(けつ)して泥棒(どろばう)をすると云(い)ふ様(やう)な考(かんが)へはチツとも有(あ)りませぬ。618あの様(やう)な所(ところ)に棄(す)てておいては、619又(また)泥棒(どろばう)が攫(さら)へて行(い)つちやならない………それよりも吾々(われわれ)が暫(しばら)く拝借(はいしやく)して、620又(また)帰(かへ)りがけにや、621旧(もと)の所(ところ)へ御(お)返(かへ)しをして帰(かへ)る積(つも)りだつた。622世(よ)の中(なか)は相身(あひみ)互(たがひ)だからと思(おも)つて、623一寸(ちよつと)借(か)つたのですよ。624心(こころ)の底(そこ)から泥棒(どろばう)する根性(こんじやう)は有(あ)りませぬ』
625怒童子(おこりどうじ)『エーつべこべと此(この)期(ご)に及(およ)んで卑怯(ひけふ)未練(みれん)な言(い)ひ訳(わけ)をするのが気(き)に喰(く)はぬワイ。626貴様(きさま)は女殺(をんなごろ)しの後家倒(ごけたふ)し、627其(その)上(うへ)嬶泣(かかあな)かせの家潰(いへつぶ)し、628沢山(たくさん)な人(ひと)を泣(な)かして来(き)た揚句(あげく)、629不知(しらず)不識(しらず)とは云(い)ひながら、630平気(へいき)の平三(へいざ)でお勝(かつ)と〇〇になつて居(ゐ)た汚(けが)れた人足(にんそく)だ。631何程(なにほど)言依別(ことよりわけの)神(かみ)様(さま)から大任(たいにん)を仰(あふ)せ付(つ)けられたと言(い)つて、632一(いち)も二(に)もなく御(お)受(う)けして来(く)ると云(い)ふ事(こと)が有(あ)るものか。633貴様(きさま)はそれでも清浄(せいじやう)潔白(けつぱく)な人間(にんげん)だと思(おも)うて居(を)るのか。634此(こ)の岩窟(いはや)の鬼婆(おにばば)よりも、635モ一(ひと)つ悪(わる)い奴(やつ)だ。636心(こころ)の底(そこ)から改心(かいしん)すればよし、637マゴマゴして居(を)ると、638天狗風(てんぐかぜ)を吹(ふ)かして吹(ふ)き飛(と)ばしてやるぞ。639天下(てんか)の娑婆塞(しやばふさ)ぎ奴(め)。640ここを何処(どこ)だと心得(こころえ)てゐる。641貴様(きさま)の目(め)には悪神(あくがみ)の巣窟(さうくつ)と見(み)えるであらうが、642誠(まこと)の神(かみ)の目(め)から見(み)れば、643どこもかしこも皆(みんな)天国(てんごく)浄土(じやうど)だ。644貴様(きさま)の心(こころ)に地獄(ぢごく)が築(きづ)かれ、645鉄条網(てつでうまう)が張(は)られ、646鬼(おに)が巣(す)を組(く)んで居(を)るのが分(わか)らぬか』
647 三(さん)人(にん)は頭(あたま)を鉄槌(てつつゐ)にて打砕(うちくだ)かるる様(やう)な心地(ここち)し、648一言(いちごん)も発(はつ)し得(え)ず、649大地(だいち)にピタリと鰭伏(ひれふ)し、650暫(しばら)くは頭(かしら)を得上(えあ)げず、651慄(ふる)ひ戦(をのの)いて居(ゐ)た。652半時(はんとき)ばかり経(た)ちしと思(おも)ふ頃(ころ)、653得(え)も謂(い)はれぬ美(うる)はしき天然(てんねん)の音楽(おんがく)耳(みみ)を澄(す)まして響(ひび)きわたる。654三(さん)人(にん)はフト頭(かしら)を擡(もた)げ四辺(あたり)を見(み)れば、655童子(どうじ)の影(かげ)もなく又(また)一(いち)枚(まい)の獣皮(けがは)も無(な)くなつて居(ゐ)る。
656田吾作(たごさく)『神(かみ)様(さま)から大変(たいへん)なお目玉(めだま)を頂戴(ちやうだい)したものだ。657原彦(はらひこ)の奴(やつ)率先(そつせん)して不言(ふげん)窃盗(せつとう)をやるものだから、658斯(こ)んな目(め)に遭(あ)つたのだよ。659併(しか)し乍(なが)らマアマア結構(けつこう)な教訓(けうくん)を受(う)けたものだ。660先(ま)づ自分(じぶん)の心(こころ)の中(なか)の鬼婆(おにばば)を征服(せいふく)して掛(かか)らねば、661何程(なにほど)努力(どりよく)しても駄目(だめ)だワイ』
662原彦(はらひこ)『三(さん)人(にん)の愁笑怒(しうせうど)の神(かみ)様(さま)が現(あら)はれて、663噛(か)んで呑(の)む様(やう)に、664詳細(しやうさい)に堂々(だうだう)と教(をし)へて下(くだ)さるのに、665お前(まへ)が口答(くちごた)へをするものだから、666到頭(たうとう)怒鳴(どな)りつけられ、667縮(ちぢ)みあがつて、668大(おほ)きな七(しち)尺(しやく)の男(をとこ)が斯(こ)んな馬鹿(ばか)な態(ざま)を見(み)たのだ。669チツト是(こ)れから言霊(ことたま)を控(ひか)へて貰(もら)はねば、670此(この)先(さき)はどんな事(こと)が突発(とつぱつ)するか分(わか)つたものぢやありませぬワイ。671ナア宗彦(むねひこ)の宣伝使(せんでんし)様(さま)』
672宗彦(むねひこ)『何事(なにごと)も神(かみ)様(さま)のなさる事(こと)。673惟神(かむながら)に我々(われわれ)は任(まか)すより仕方(しかた)が有(あ)りませぬ』
674田吾作(たごさく)『それ又(また)覚(おぼ)えの悪(わる)い、675今(いま)惟神(かむながら)と云(い)つて怒(おこ)られたぢやありませぬか。676惟神(かむながら)中毒(ちうどく)をすると、677怒(おこ)り神(がみ)さんが又(また)現(あら)はれますぞや。678貴方(あなた)こそ慎(つつし)んで貰(もら)はねばなりませぬ』
679宗彦(むねひこ)『さうだと云(い)つて、680我々(われわれ)は惟神(かむながら)の道(みち)に仕(つか)へて居(を)る者(もの)だ。681惟神(かむながら)を言(い)はなければ、682宣伝(せんでん)も何(なに)も出来(でき)ぬぢやないか。683鶏(にはとり)にコケコーと鳴(な)くな、684烏(からす)にカアカア囀(さへづ)るな、685釣鐘(つりがね)になんぼ敲(たた)かれてもゴンゴンと鳴(な)らずに沈黙(ちんもく)せよと云(い)ふ様(やう)な註文(ちうもん)だないか。686そんな天地(てんち)不自然(ふしぜん)な事(こと)がどうして実行(じつかう)出来(でき)るものかい』
687田吾作(たごさく)『惟神(かむながら)、688不言(ふげん)実行(じつかう)さへすれば良(い)のですよ。689何事(なにごと)も心(こころ)と行(おこな)ひを惟神(かむながら)にして、690口(くち)だけは暫(しばら)く言(い)はない方(はう)が宜(よろ)しかろ。691材木(ざいもく)でもカンナがらをかけて見(み)なさい、692一遍(いつぺん)々々(いつぺん)細(ほそ)くなるぢやないか。693あまり執拗(しつか)うカンナがらを使(つか)つて居(を)ると、694結局(しまひ)にや糸(いと)の様(やう)になつて、695結構(けつこう)な宣伝使(せんでんし)神柱(かむばしら)の資格(しかく)が消滅(せうめつ)して了(しま)ひますワ』
696宗彦(むねひこ)『ハヽヽヽ、697余程(よほど)怒(おこ)り神(かみ)様(さま)の御(お)言(ことば)が感応(こた)へたと見(み)えるワイ。698ありや一体(いつたい)どこから来(き)た神(かみ)様(さま)だと思(おも)つて居(を)るのだ』
699田吾作(たごさく)『神界(しんかい)の事(こと)は我々(われわれ)に分(わか)るものぢや有(あ)りませぬが、700マア天(てん)から天降(あまくだ)られたと云(い)ふより仕方(しかた)が有(あ)りますまい』
701宗彦(むねひこ)『馬鹿(ばか)言(い)ふな、702あの怒(おこ)り神(がみ)さまは宗彦(むねひこ)さまの本(ほん)守護神(しゆごじん)だ。703泣神(なきがみ)さまが貴様(きさま)の本(ほん)守護神(しゆごじん)、704笑(わら)ひ神(がみ)さまが留公(とめこう)の守護神(しゆごじん)だ。705チツト貴様(きさま)改心(かいしん)せぬとあの通(とほ)り守護神(しゆごじん)がベソを掻(か)いて居(を)るぢやないか』
706田吾作(たごさく)『そりやチト違(ちが)ひませう。707笑(わら)つて居(を)るのが私(わたし)の守護神(しゆごじん)、708怒(おこ)つて居(を)るのがあなたの守護神(しゆごじん)、709泣(な)いとる奴(やつ)が留公(とめこう)の守護神(しゆごじん)に違(ちが)ひありませぬワイ。710結構(けつこう)な御用(ごよう)を仰(あふ)せ付(つ)かり乍(なが)ら、711お前(まへ)さまはまだ腹(はら)の底(そこ)に曇(くも)りがあると見(み)えて、712本(ほん)守護神(しゆごじん)が怒(おこ)つて居(を)るのだ。713良(い)い加減(かげん)に改心(かいしん)をしなさらぬと、714どんな地異(ちい)天変(てんぺん)がおこつておこつて、715おこりさがすか知(し)れませぬぞ。716お前(まへ)さまの大将面(たいしやうづら)して威張(ゐば)つて歩(ある)くのがあまり可笑(をか)しうて、717田吾(たご)さんの本(ほん)守護神(しゆごじん)が笑(わら)つて居(を)るのだ』
718宗彦(むねひこ)『どうでも良(い)いぢやないか。719怒(おこ)る神(かみ)もあれば笑(わら)ひ神(がみ)もあり、720泣(な)き神(がみ)もある。721実際(じつさい)のこたア、722三柱(みはしら)の神(かみ)共(とも)共通(きようつう)的(てき)に守護(しゆご)して御座(ござ)るのだ』
723原彦(はらひこ)『モシモシ私(わたくし)丈(だけ)は本(ほん)守護神(しゆごじん)がどうなりました』
724田吾作(たごさく)『お前(まへ)の本(ほん)守護神(しゆごじん)はまだ現(あら)はれる幕(まく)ぢやない、725地平線(ちへいせん)下(か)の身魂(みたま)だから、726土(つち)の上(うへ)へ出(で)る所(とこ)へは往(い)かぬ。727併(しか)し乍(なが)ら孟宗竹(まうそうだけ)でさへも土(つち)を割(わ)つてニユーと首(くび)を突出(つきだ)すのだから、728どつか其辺(そこら)に頭(あたま)をあげかけてゐるかも分(わか)らぬぞ。729チツト探(さが)して見(み)たらどうだ』
730原彦(はらひこ)『アハヽヽヽ、731身魂(みたま)と筍(たけのこ)と一(ひと)つに見(み)られちや、732原彦(はらひこ)も迷惑(めいわく)だ。733丸(まる)でドクトルの身魂(みたま)の様(やう)に、734田吾(たご)さんが仰(おつ)しやいますワイ。735疑(うたが)ふのぢやありませぬけれど、736随分(ずゐぶん)道理(だうり)に違(ちが)うた事(こと)を言(い)ふお方(かた)ですな。
737「竹(たけ)の子(こ)の番人(ばんにん)見(み)れば藪(やぶ)にらみ」
738アハヽヽヽ、739オイ藪(やぶ)にらみの田吾竹(たごたけ)さま』
740田吾作(たごさく)『議論(ぎろん)は後(あと)にせい。741筍(たけのこ)の身魂(みたま)と云(い)ふ事(こと)は、742モウつい、743日日薬(ひにちくすり)で竹々(ちくちく)と分(わか)つて来(く)る。744チクと身魂(みたま)を練薬(ねりやく)して、745俺(おれ)の言(い)ふ事(こと)を膏薬(かうやく)(後学(こうがく))の為(ため)に聞(き)いて置(お)くのだな。746……エー何(なに)を薬々(くすりくすり)と笑(わら)ふのだい。747薬価(やくか)い(厄介(やくかい))者(もの)奴(め)、748それよりも身魂(みたま)の煎薬(せんやく)(洗濯(せんたく))が一等(いつとう)だぞ』
749原彦(はらひこ)『これはこれはイカい(医界(いかい))お世話(せわ)になりました。750漸(やうや)く医師(いし)(意思(いし))が疎通(そつう)しました。751モウ此(この)上(うへ)決(けつ)して、752医(い)(異(い))議(ぎ)は申(まを)しませぬ』
753田吾作(たごさく)『キツト医薬(いやく)(違約(ゐやく))をするでないぞ。754俺(おれ)の云(い)ふ事(こと)を守(まも)れば、755キツト薬(くすり)九層倍(くそうばい)の報(むく)いが出(で)て来(く)る。756力(ちから)一杯(いつぱい)薬(やく)(約(やく))を守(まも)つて、757此(この)上(うへ)は口答(くちごた)へをしてはならぬぞ。758俺(おれ)の云(い)ふ事(こと)はチツトは苦(にが)い事(こと)もある。759併(しか)し良薬(りやうやく)は口(くち)に苦(にが)しだ。760薬(やく)(厄(やく))雑(ざ)魂(だましひ)を下痢(げり)させて、761神霊(しんれい)の注射(ちうしや)を為(な)し、762身体(からだ)一面(いちめん)何(なん)の医(い)(異(い))状(じやう)もないとこまで清(きよ)めて、763是(こ)れから悪魔(あくま)征伐(せいばつ)に向(むか)ふのだ。764心(こころ)に煩(わづら)ひのある時(とき)は病(やまひ)が起(おこ)ると云(い)ふ、765其(その)病(やまひ)の問屋(とんや)が山(やま)の神(かみ)を置去(おきざ)りにして、766斯(こ)んな深(ふか)い山(やま)い(病(やまひ))あがつて来(く)るものだから、767到頭(たうとう)逆上(ぎやくじやう)して不健(ふけん)窃盗病(せつたうびやう)が勃発(ぼつぱつ)するのだ、768アハヽヽヽ』
769宗彦(むねひこ)『サアもう行(ゆ)こう。770グヅグヅして居(を)ると、771中途(ちうと)で日(ひ)が暮(く)れて薬鑵(やくわん)が風(かぜ)を引(ひ)いて了(しま)ふぞ』
772 二人(ふたり)は黙(だま)つて座(ざ)を立(た)ち、773宗彦(むねひこ)の後(あと)よりエチエチと小柴(こしば)を分(わ)け、774這(は)ふ様(やう)にして胸突坂(むねつきざか)を掻(か)きあがる。775忽(たちま)ち右方(うはう)の谷間(たにま)に当(あた)つて女(をんな)の悲鳴(ひめい)が聞(きこ)えて来(き)た。
776田吾作(たごさく)『イヨー怪(あや)しい声(こゑ)がするぞ。777婆(ばば)アの声(こゑ)にしては少(すこ)し若(わか)い様(やう)だ。778併(しか)し婆(ばば)ア許(ばか)りぢやない、779沢山(たくさん)な女(をんな)も居(ゐ)るであらうから、780一(ひと)つ声(こゑ)を当(あて)に実地(じつち)検分(けんぶん)と出(で)かけたらどうでせう。781ナア宗彦(むねひこ)さま』
782宗彦(むねひこ)『追々(おひおひ)と叫(さけ)び声(ごゑ)が高(たか)くなつて来(く)るやうです。783何(なに)か此(これ)には秘密(ひみつ)が伏蔵(ふくざう)されて居(を)るでせう。784私(わたし)は此処(ここ)に原彦(はらひこ)さまと待(ま)つて居(を)るから、785一寸(ちよつと)偵察(ていさつ)して来(き)て貰(もら)へませぬかなア』
786田吾作(たごさく)『ハイ診察(しんさつ)して参(まゐ)ります。787探険家(たんけんか)のオーソリチーの田吾作(たごさく)ですよ』
788と早(はや)くも小柴(こしば)の中(なか)に姿(すがた)を隠(かく)した。789宗彦(むねひこ)は、
790宗彦(むねひこ)『アハヽヽヽ、791口(くち)も達者(たつしや)な男(をとこ)だが、792随分(ずゐぶん)足(あし)も達者(たつしや)だ…ヨウヨウ、793一人(ひとり)の声(こゑ)かと思(おも)へば大勢(おほぜい)らしいぞ。794こりや安閑(あんかん)としては居(を)られない。795私(わたし)も行(い)つて調(しら)べて見(み)ようかな』
796と首(くび)を傾(かた)げて居(ゐ)る。797原彦(はらひこ)は、
798原彦『マア少時(しばらく)御(お)待(ま)ちなさいませ。799今(いま)に田吾(たご)さまが帰(かへ)へつて来(く)れば、800様子(やうす)が分(わか)りませうから、801大方(おほかた)最前(さいぜん)出(で)た泣(な)きの守護神(しゆごじん)が極端(きよくたん)に泣(な)きの本性(ほんしやう)を発揮(はつき)してるのかも知(し)れませぬぜ。802最前(さいぜん)の様(やう)なお叱言(こごと)を頂戴(ちやうだい)すると困(こま)りますから、803マアゆつくりと此処(ここ)に待(ま)ちませうかい』
804宗彦(むねひこ)『そうだな。805待(ま)つてもよいが、806併(しか)し何(なん)だか気(き)がイライラして来(き)た。807田吾作(たごさく)一人(ひとり)遣(や)つて置(お)くのも心許(こころもと)ない。808………そんなら此処(ここ)に待(ま)つて居(を)るから、809原(はら)さま、810お前(まへ)往(い)つて来(き)て呉(く)れないか』
811原彦(はらひこ)『ハイ、812そりやモウさうです。813あまり何(なん)ですから、814何(なん)となく気分(きぶん)が何(なに)しませぬ。815ならう事(こと)なら、816何々(なになに)様(さま)と御(ご)一緒(いつしよ)に願(ねが)ひたいものですなア』
817宗彦(むねひこ)『分(わか)つたやうな分(わか)らぬやうな事(こと)を云(い)ふぢやないか。818ハツキリと言(い)つたらどうだ』
819原彦(はらひこ)『現在(げんざい)私(わたくし)の心(こころ)が、820あなたには分(わか)りませぬか。821天眼通(てんがんつう)、822天耳通(てんじつう)、823漏尽通(ろじんつう)、824宿命通(しゆくめいつう)、825自他神通(じたしんつう)、826感通(かんつう)に天言通(てんげんつう)、827七神通(しちじんつう)の阿羅耶(あらや)識(しき)を得(え)たと云(い)ふ宣伝使(せんでんし)ぢやありませぬか、828「一(いち)を聞(き)いて十(じふ)を知(し)る身魂(みたま)でないと、829誠(まこと)の御用(ごよう)は出来(でき)ぬぞよ」……と神(かみ)様(さま)が仰有(おつしや)いませう。830さうすれば貴方(あなた)は最前(さいぜん)の百点(ひやくてん)を返上(へんじやう)なさらねばならぬ破目(はめ)に陥(おちい)りますよ』
831宗彦(むねひこ)『俺(おれ)は天言通(てんげんつう)はお神徳(かげ)を戴(いただ)いて居(を)るが、832どうもまだ人語通(じんごつう)は得(え)て居(ゐ)ないのだ。833況(ま)して曇(くも)つた身魂(みたま)の囁(ささや)きは尚更(なほさら)判別(はんべつ)がつきかねる。834何程(なにほど)近(ちか)くに居(を)つても、835御(ご)神諭(しんゆ)の通(とほ)り「灯台下(とうだいもと)は真暗(まつくら)がり、836遠国(ゑんごく)からわかりて来(く)るぞよ」……と云(い)ふのが本当(ほんたう)だからなア』
837原彦(はらひこ)『左様(さやう)か、838左様(さやう)ならばあなたも何々(なになに)の割(わり)とは何々(なになに)ですな。839私(わたくし)は今迄(いままで)チツト許(ばか)り八丁笠(ばつちやうがさ)を買(か)ひ被(かぶ)つて居(を)りました』
840宗彦(むねひこ)『さうだらう、841御(お)互(たがひ)様(さま)だ。842お前(まへ)もモウチツト勇気(ゆうき)が有(あ)るかと思(おも)へば、843実(じつ)に脆(もろ)いものだ、844田吾作(たごさく)でさへも、845一人(ひとり)で探険(たんけん)にいつたのに、846わしの側(そば)にくつついて、847慄(ふる)うて居(を)るとは実(じつ)に見上(みあ)げたものだ。848生命(いのち)を宣伝使(せんでんし)に差上(さしあ)げると云(い)つた癖(くせ)に、849ヤツパリ生命(いのち)が惜(をし)いと見(み)えるワイ。850きつく俺(おれ)も買(か)ひ被(かぶ)つたものだワイ』
851原彦(はらひこ)『初(はじ)めに言(い)つたのは、852アラ見本(みほん)ですよ。853見本通(みほんどほり)の物品(ぶつぴん)を製造(せいざう)して輸出(ゆしゆつ)でもしようものなら、854海関税(かいくわんぜい)を沢山(たくさん)取(と)られて、855今日(こんにち)の烈(はげ)しい商業(しやうげふ)戦争(せんそう)に零敗(ゼロはい)を取(と)りますワ』
856宗彦(むねひこ)『アハヽヽヽ、857お前(まへ)は口(くち)ばつかりの男(をとこ)だなア』
858原彦(はらひこ)『さうですとも、859ハラから出口(でぐち)の神(かみ)が表(おもて)に現(あら)はれて、860此(この)世(よ)を悪(あく)に立直(たてなほ)し、861善(ぜん)の身魂(みたま)を改心(かいしん)させるお役(やく)ですもの……』
862宗彦(むねひこ)『悪(あく)に立直(たてなほ)し、863善(ぜん)の身魂(みたま)を改心(かいしん)さすとは、864そら何(なに)を言(い)ふのだ』
865原彦(はらひこ)『イヤ一寸(ちよつと)違(ちが)ひました。866「ニ」と「ヲ」との配置(はいち)を誤(あやま)つたのです。867悪(あく)を立直(たてなほ)し、868善(ぜん)の身魂(みたま)に改心(かいしん)させるのです。869上(うへ)に付(つ)くか、870下(した)に付(つ)くか、871「に」……にか、872「を」にか、873どつちやにせよ、874チツト許(ばか)りの間違(まちが)ひだ。875さう一字(いちじ)や二字(にじ)配置(はいち)が違(ちが)つたと言(い)つて、876気(き)の小(ちひ)さい事(こと)を言(い)ふものぢやありませぬワ。877アハヽヽヽ』
878 俄(にはか)に傍(そば)の小柴(こしば)の中(なか)よりガサガサと音(おと)を立(た)て、879現(あら)はれて来(き)たのは田吾作(たごさく)であつた。
880宗彦(むねひこ)『ヤア田吾作(たごさく)か、881様子(やうす)はどうだなア』
882田吾作(たごさく)『最早(もはや)讐敵(かたき)は攻(せ)め寄(よ)せて候(さふら)へば、883あなたに代(かは)つて一戦(ひといくさ)、884御(おん)身(み)は早(はや)く此(この)場(ば)を遁(のが)れて下(くだ)さりませ……と口(くち)には言(い)へど御(おん)名残(なごり)……チヽヽヽヽヽヽチンチンだ』
885宗彦(むねひこ)『ハヽヽヽヽ、886そんな冗談(ぜうだん)言(い)つてる所(ところ)ぢやなからう。887どんな事(こと)が起(おこ)つて居(を)つたか、888早(はや)く聞(き)かして呉(く)れい』
889田吾作(たごさく)『ハイ申上(まをしあ)げます。890一方(いつぱう)の大将(たいしやう)は大岩石(だいがんせき)を楯(たて)に取(と)り、891一丈(いちぢやう)有余(いうよ)の大木(たいぼく)の小枝(こえだ)に甲冑(かつちう)を鎧(よろ)ひ、892一生(いつしやう)懸命(けんめい)に阿修羅(あしゆら)王(わう)の如(ごと)く荒(あ)れ狂(くる)ひ、893采配(さいはい)採(と)つて号令(がうれい)をなすあり、894此方(こちら)の谷間(たにま)よりは、895又(また)古今(ここん)無双(むさう)の豪傑(がうけつ)樹上(じゆじやう)に陣取(ぢんど)り、896負(まけ)ず劣(おと)らず声(こゑ)を限(かぎ)りにキヤツ キヤツ キヤツ キヤツの言霊戦(ことたません)、897勇(いさ)ましかりける次第(しだい)なり、898ハアハアハアハアだ。899ウツフツフツ ウツフツフツフウ』
900宗彦(むねひこ)『なアンだ、901ちツとも分(わか)らぬぢやないか』
902田吾作(たごさく)『ソラさうでせうとも。903実地(じつち)目撃(もくげき)した私(わたし)でさへも、904テンと了解(れうかい)の出来(でき)ない、905猿芝居(さるしばゐ)、906否(いな)猿合戦(さるがつせん)ですもの……』
907宗彦(むねひこ)『ハヽヽヽヽ、908千匹猿(せんびきざる)の喧嘩(けんくわ)だつたのか。909なアーンだ、910しやうもない。911……サアサア愚図(ぐづ)々々(ぐづ)しては居(を)られまいぞ。912此(この)前途(さき)で又々(またまた)大蛇(をろち)の芝居(しばゐ)か、913熊(くま)のダンスでも開演(かいえん)されて居(を)るだらう、914面白(おもしろ)い無料(むれう)観覧(くわんらん)と出(で)かけよう』
915(大正一一・五・一四 旧四・一八 松村真澄録)
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