霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第二章 大神人(だいしんじん)〔一二七六〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第49巻 真善美愛 子の巻 篇:第1篇 神示の社殿 よみ(新仮名遣い):しんじのしゃでん
章:第2章 大神人 よみ(新仮名遣い):だいしんじん 通し章番号:1276
口述日:1923(大正12)年01月16日(旧11月30日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1924(大正13)年11月5日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
天人や、神をよく理解した人間は、肉体の行為ではなく肉体を動作させる意志がどうであるかを観察するものである。意志は愛の情動から起こり、智性は信の真から発生する。人格は意志にあり、智性も意志と一致して活動するときに人格とみなされる。
愛は、第一に神を愛することであり、次に隣人を愛するのが正しい意志である。ただ神を信じるだけではとうてい神の愛に触れ、霊魂の幸福を得ることは不可能である。神に心かぎりの浄き宝を奉り、物品を奉納するのは愛の発露である。神はその愛によって人間に必要なものを常に与え玉ふ。人間は、その与えられたものによって生命を保ち、かつ人格を向上しつつあるのである。
無形の神に金銭物品を奉って神の歓心を得ようとするのは迷妄の極みだ、などと唱えるのは神を背にし光明を恐れ、地獄に向かって内底が開けている者である。
天国の全般を総称して大神人と神界で称えられている理由は、天界の形式はすべて一個人として統御されるからである。地の高天原も一個の大神人であり、その高天原を代表して愛善の徳と信真の光を照らし、迷える人間に智慧と証覚を与えようとする霊界の担当者は、すなわち大神人である。
そして一般の信とは、一個の大神人の体に有する心臓、肺臓、頭部、腰部、その他四肢の末端に至るまでの各個体である。これは現幽相応の理から見れば当然のことである。
大神は、このように天界を一個人の単元として統御し玉ふゆえに、人間は宇宙の縮図といい、小天地といい、また天地経綸の司宰者というのである。人間の身体組織は部分の中に部分はあれども、一個人として活動するときは、単元として動く。そのように、大神人の個体である各信者は、一個の単元である大神人の心をもって心となし、地上に天国を建設して地獄界を認めることのないよう努力すべきものである。
地上の高天原である綾の聖地には、大神の神格にみたされた聖霊が予言者に来たって、神の神格による愛善の徳を示し、信真の光を照らし、智慧証覚を与え、地上の蒼生を地の天人たらしめ、地上を天国ならしめる。
霊界に入っては、すべての人を天国の歓喜と悦楽に永住せしめるために努力させ玉ふのである。各宣伝使・信者は一致してこの大神業に参加すべき使命を持っているのである。
このように円満な団体の形式を作り得たときは、全般は部分のごとく、部分は全般のごとくになる。今日の聖地における状態はすべて個々分立して活躍し、全体は部分と和合せず、個人は各自の自然的観察を基点として光に背き愛に遠ざかっている。
これらの人間は地の高天原を汚す悪魔の影像であり、偽善者である。口に立派なことをいっても、その手足を動かさず、神に対する真心を実行せないものが大多数である。他人のために善を行うのは、他人・世間から聖人仁者と見られることを願う自愛である。自愛は地獄の愛である。
口述者の意志を無視したと思われたくないために、心ならずも五六七殿にこの物語を聴きに来る偽善者もたまにあるようであるが、そのような偽善的行為をやめて、主とするところの愛により、身魂相応の研究を自由にされることを希望する。
物語を聞くと寄席気分のようだと言っている者があるそうだが、喜びは天国を開くものである。神は歓喜をもって生命となし、愛の中に存在し玉ふものだからである。神の心はすべて一瞬の間も、人間を歓喜にみたしてすべての事業を楽しんで営ましめようとし玉ふものである。
綾の聖地に神の恵みによってひきつけられた人は、すべて大神の神格の中にある。しかし中に入ってしまうと尊さを認めえず、遠くへだててこれを望むときはその崇高さ偉大さがわかることもある。大神はときに一個の神人と現じ玉ふが、内分がふさがった人間は、神人に直接面接しその教えを聞きながら、自分より劣ったものとして遇するものである。
大神の愛の徳に離れた者には生命はない。大神の愛また神格から離れたときは、何事もなすことはできないのである。神諭にも、人間がこれほど善はないと思ってしていることも、神の許しがなければ皆悪になる、九分九厘で掌がかえる、と示されてある。
現代の人間は神にすがる者といえども、天界からの内流を裁断した者多いゆえに、見ることができない神を見ようとする。また物質欲にのみあくせくして人間が本来持っている証を滅却した地獄的人間は、神の存在を認めず、神を大いに嫌うものである。
人間の本来の証とは、天界から人間に流入する神格そのものである。なぜなら、人が生まれたのは現界のためではない。その目的は、天国の団体を円満ならしめるためだからである。何人も神格の概念なくしては天界に入ることはできないのである。
外分のみ開けた人間が天国の関門に近づくと、一種の反抗力と強い嫌悪の情を感じるものである。それは、天界を摂受すべき内分が、まだ高天原の形式に入っていないため、すべての関門が閉鎖されているからである。
もし強いてこの関門を突破して高天原に入ろうとすれば、その内分はますます固く閉ざされてしまう。無理に地の高天原に近づいて神に近く仕え親しく教えを聞いても、ますます内分が閉ざされて心身が混惑し、行いに地獄的活動が現れる者があるのは、この理に基づくのである。
大神を否み、大神の神格に充たされた神人を信じない者は、すべてこのような運命に陥るものである。人間の中にある天界の生涯とは、神の真にしたがい棲息するものであることをよく理解している精神状態をいうのである。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:0000-00-00 00:00:00 文字数:5832 OBC :rm4902
愛善世界社版:18頁 八幡書店版:第9輯 37頁 修補版: 校定版:19頁 普及版:9頁 初版: ページ備考:
派生[?]この文献を底本として書かれたと思われる文献です。[×閉じる]:出口王仁三郎全集 > 第一巻 皇道編 > 第七篇 高天原 > 第十六章 高天原と大神人
001 前節(ぜんせつ)に述(の)べたる如(ごと)く、002霊国(れいごく)や天国(てんごく)の諸団体(しよだんたい)に籍(せき)をおいたる天人(てんにん)及(および)地上(ちじやう)の天人(てんにん)即(すなは)ち神(かみ)を能(よ)く理解(りかい)せし人間(にんげん)の精霊(せいれい)は、003即(すなは)ち地上(ちじやう)の天人(てんにん)なるを以(もつ)て、004人間(にんげん)肉体(にくたい)の行為(かうゐ)に留意(りうい)することなく、005其(その)肉体(にくたい)を動作(どうさ)せしむる所(ところ)の意思(いし)如何(いかん)を観察(くわんさつ)するものである。006故(ゆゑ)に人間(にんげん)の吾(わが)長上(ちやうじやう)たると吾(わが)下僕(かぼく)たるとを問(と)はず、007其(その)行為(かうゐ)に就(つい)て善悪(ぜんあく)の批判(ひはん)を試(こころ)むるが如(ごと)き愚(おろか)なことは、008決(けつ)してせない。009天人(てんにん)の位地(ゐち)に進(すす)んだものは、010其(その)人格(じんかく)を以(もつ)て意思(いし)に存(そん)し、011決(けつ)して行為(かうゐ)其(その)物(もの)にあらざる事(こと)を洞察(どうさつ)するが故(ゆゑ)である。012其(その)智性(ちせい)も亦(また)人格(じんかく)の一部分(いちぶぶん)なれ共(ども)、013意思(いし)と一致(いつち)して活動(くわつどう)する時(とき)に限(かぎ)つて人格(じんかく)と見(み)なすのである。014意思(いし)は愛(あい)の情動(じやうだう)より起(おこ)り、015智性(ちせい)は信(しん)の真(しん)より発生(はつせい)するものである。016故(ゆゑ)に愛(あい)のなき信仰(しんかう)は決(けつ)して人格(じんかく)と見(み)なすことは出来(でき)ない。017愛(あい)は即(すなは)ち第一(だいいち)に神(かみ)を愛(あい)し、018次(つぎ)に隣人(りんじん)を愛(あい)する正(ただ)しき意思(いし)である。019只(ただ)神(かみ)を信(しん)ずるのみにては到底(たうてい)神(かみ)の愛(あい)に触(ふ)れ、020霊魂(れいこん)の幸福(かうふく)を得(う)ることは不可能(ふかのう)である。021愛(あい)は愛(あい)と和合(わがふ)し、022智(ち)は智(ち)と和合(わがふ)す。023神(かみ)に心(こころ)限(かぎ)りの浄(きよ)き宝(たから)を奉(たてまつ)り、024或(あるひ)は物品(ぶつぴん)を奉納(ほうなふ)するは所謂(いはゆる)愛(あい)の発露(はつろ)である。025神(かみ)は其(その)愛(あい)に仍(よ)つて人間(にんげん)に必要(ひつえう)なるものを常(つね)に与(あた)へ玉(たま)ふ。026人間(にんげん)は其(その)与(あた)へられたるものに仍(よ)つて生命(せいめい)を保(たも)ち、027且(かつ)人格(じんかく)を向上(かうじやう)しつつあるのである。028神(かみ)は無形(むけい)だとか、029気体(きたい)だとか、030無形(むけい)又(また)は気体(きたい)にましますが故(ゆゑ)に決(けつ)して現界人(げんかいじん)の如(ごと)き物質(ぶつしつ)を要求(えうきう)し玉(たま)はず、031金銭(きんせん)物品(ぶつぴん)を神(かみ)に献(たてまつ)つて神(かみ)の歓心(くわんしん)を得(え)むとするは迷妄(めいまう)の極(きよく)なり、032只(ただ)神(かみ)は信仰(しんかう)さへすればそれで可(い)い、033其(その)信仰(しんかう)も科学(くわがく)的(てき)知識(ちしき)に仍(よ)つて認(みと)め得(え)ない限(かぎ)りは、034泡沫(はうまつ)に等(ひと)しきものだ。035故(ゆゑ)に神(かみ)を信(しん)ずるに先(さき)だち科学(くわがく)的(てき)原則(げんそく)の上(うへ)に立脚(りつきやく)して、036而(しか)して後(のち)信(しん)ずべきものだ……などと唱(とな)ふる者(もの)は、037すべて八衢(やちまた)人間(にんげん)にして、038其(その)大部分(だいぶぶん)は神(かみ)を背(せな)にし光明(くわうみやう)を恐(おそ)れ、039地獄(ぢごく)に向(むか)つて内底(ないてい)の開(ひら)けゐる妖怪(えうくわい)である。
040 霊国(れいごく)天国(てんごく)の天人(てんにん)が天界(てんかい)を見(み)て一個(いつこ)の形式(けいしき)となすのは、041其(その)全般(ぜんぱん)に行(ゆき)わたつてのことではない。042如何(いか)なる証覚(しようかく)の開(ひら)けた天人(てんにん)の眼界(がんかい)と雖(いへど)も、043高天原(たかあまはら)の全般(ぜんぱん)を測(はか)り知(し)ることは出来(でき)ない。044されど天人(てんにん)は数百(すうひやく)又(また)は数千(すうせん)の天人(てんにん)より成(な)れる団体(だんたい)を遠隔(ゑんかく)の位地(ゐち)より見(み)て、045人間(にんげん)的(てき)形式(けいしき)をなせる一団(いちだん)と感(かん)ずる事(こと)がある位(くらゐ)なものである。046故(ゆゑ)に未(ま)だ中有界(ちううかい)に迷(まよ)へる八衢(やちまた)人間(にんげん)の分際(ぶんざい)としては到底(たうてい)、047天人(てんにん)の善徳(ぜんとく)や信真(しんしん)や証覚(しようかく)に及(およ)ばないことは無論(むろん)である。
048 斯(かく)の如(ごと)く如何(いか)なる天人(てんにん)と雖(いへど)も、049高天原(たかあまはら)の全体(ぜんたい)を見極(みきは)め、050神(かみ)の経綸(けいりん)を熟知(じゆくち)し、051且(かつ)他(た)の諸団体(しよだんたい)を詳(くは)しく見聞(けんぶん)し能(あた)はざる位(くらゐ)のものであるに、052自然界(しぜんかい)の我利(がり)我欲(がよく)にひたり、053自愛(じあい)と世間愛(せけんあい)のみを以(もつ)て最善(さいぜん)の道徳律(だうとくりつ)となし、054善人面(ぜんにんづら)をさげ、055漸(やうや)く神(かみ)の方向(はうかう)を認(みと)めたる位(くらゐ)の八衢(やちまた)人間(にんげん)が到底(たうてい)神(かみ)の意思(いし)の測知(そくち)し得(え)らるべき道理(だうり)はないのである。056天国(てんごく)の全般(ぜんぱん)を総称(そうしよう)して大神人(だいしんじん)と神界(しんかい)にては称(とな)へらるる理由(りいう)は、057天界(てんかい)の形式(けいしき)は凡(すべ)て一個人(いちこじん)として統御(とうぎよ)さるるからである。058故(ゆゑ)に地(ち)の高天原(たかあまはら)は一個(いつこ)の大神人(だいしんじん)であり、059其(その)高天原(たかあまはら)を代表(だいへう)して愛善(あいぜん)の徳(とく)と信真(しんしん)の光(ひかり)を照(て)らし、060暗(やみ)に迷(まよ)へる人間(にんげん)に智慧(ちゑ)と証覚(しようかく)を与(あた)へむとする霊界(れいかい)の担当者(たんたうしや)は、061即(すなは)ち大神人(だいしんじん)である。062神人(しんじん)の大本(おほもと)か大本(おほもと)の神人(しんじん)か……と云(い)ふべき程(ほど)のものである。063之(これ)は現幽(げんいう)相応(さうおう)の理(り)より見(み)れば、064決(けつ)して架空(かくう)の言(げん)でもない。065又(また)一般(いつぱん)の信徒(しんと)は所謂(いはゆる)一個(いつこ)の大神人(だいしんじん)の体(たい)に有(いう)する心臓(しんざう)、066肺臓(はいざう)、067頭部(とうぶ)、068腰部(えうぶ)、069其(その)他(た)四肢(しし)の末端(まつたん)に至(いた)る迄(まで)の各個体(かくこたい)である。
070 天界(てんかい)を大神(おほかみ)は斯(かく)の如(ごと)く一個人(いちこじん)として、071即(すなは)ち単元(たんげん)として之(これ)を統御(とうぎよ)し玉(たま)ふのである。072故(ゆゑ)に人間(にんげん)は宇宙(うちう)の縮図(しゆくづ)といひ、073小天地(せうてんち)と云(い)ひ、074天地(てんち)経綸(けいりん)の司宰者(しさいしや)と云(い)ふ。075人間(にんげん)の身体(しんたい)は、076其(その)全分(ぜんぶん)にあつても、077其(その)個体(こたい)に在(あ)つても、078千態(せんたい)万様(ばんやう)の事物(じぶつ)より組織(そしき)されたるは、079人(ひと)の能(よ)く知(し)る所(ところ)である。080即(すなは)ち全分(ぜんぶん)より見(み)れば、081肢節(しせつ)あり、082気管(きくわん)あり、083臓腑(ざうふ)あり、084個体(こたい)の上(うへ)より観(み)れば、085繊維(せんゐ)あり、086神経(しんけい)あり、087血管(けつくわん)あり、088かくて肢体(したい)の内(うち)に肢体(したい)あり、089部分(ぶぶん)の中(うち)に部分(ぶぶん)あれ共(ども)、090一個人(いちこじん)として活動(くわつどう)する時(とき)は、091単元(たんげん)として活動(くわつどう)するものである。092故(ゆゑ)に個体(こたい)たる各信者(かくしんじや)は一個(いつこ)の単元体(たんげんたい)たる大神人(だいしんじん)の心(こころ)を以(もつ)て心(こころ)となし、093地上(ちじやう)に天国(てんごく)を建設(けんせつ)し、094地獄界(ぢごくかい)の片影(へんえい)をも留(とど)めざらしむる様(やう)、095努力(どりよく)すべきものである。096大神(おほかみ)が高天原(たかあまはら)を統御(とうぎよ)し玉(たま)ふも亦(また)之(これ)と同様(どうやう)である。097故(ゆゑ)に地上(ちじやう)の高天原(たかあまはら)たる綾(あや)の聖地(せいち)には、098大神(おほかみ)の神格(しんかく)にみたされたる聖霊(せいれい)が予言者(よげんしや)に来(きた)つて、099神(かみ)の神格(しんかく)に仍(よ)る愛善(あいぜん)の徳(とく)を示(しめ)し、100信真(しんしん)の光(ひかり)を照(て)らし、101智慧(ちゑ)証覚(しようかく)を与(あた)へて、102地上(ちじやう)の蒼生(さうせい)をして地的(ちてき)天人(てんにん)たらしめ、103且(かつ)又(また)地上(ちじやう)一切(いつさい)をして天国(てんごく)ならしめ、104霊界(れいかい)に入(い)りては、105凡(すべ)ての人(ひと)を天国(てんごく)の歓喜(くわんき)と悦楽(えつらく)に永住(えいぢゆう)せしめむが為(ため)に努力(どりよく)せしめ玉(たま)ふたのである。106其(その)単元(たんげん)なる神人(しんじん)を一個人(いちこじん)の全般(ぜんぱん)と見做(みな)し、107各(かく)宣伝使(せんでんし)信者(しんじや)は個体(こたい)となつて、108上下(じやうか)和合(わがふ)し、109賢愚(けんぐ)一致(いつち)して此(この)大神業(だいしんげふ)に参加(さんか)すべき使命(しめい)を有(も)つてゐるのである。
110 斯(かく)の如(ごと)くして円満(ゑんまん)なる団体(だんたい)の形式(けいしき)を造(つく)り得(う)る時(とき)は即(すなは)ち全般(ぜんぱん)は部分(ぶぶん)の如(ごと)く、111部分(ぶぶん)は全般(ぜんぱん)の如(ごと)くにて其(その)両者(りやうしや)の相違点(さうゐてん)は、112只(ただ)其(その)分量(ぶんりやう)の上(うへ)にのみ存(そん)するばかりである。113今日(こんにち)の聖地(せいち)に於(お)ける状態(じやうたい)は、114すべて個々(ここ)分立(ぶんりつ)して活躍(くわつやく)し、115全体(ぜんたい)は分体(ぶんたい)と和合(わがふ)せむとしてなす能(あた)はず、116分体(ぶんたい)たる個人(こじん)は各自(かくじ)の自然(しぜん)的(てき)観察(くわんさつ)を基点(きてん)として、117思(おも)ひ思(おも)ひに光(ひかり)に反(そむ)き愛(あい)に遠(とほ)ざかり、118最(もつと)も秀(すぐ)れたる者(もの)は中有界(ちううかい)に迷(まよ)ひ、119劣(おと)れる者(もの)は地獄(ぢごく)の団体(だんたい)に向(むか)つて秋波(しうは)を送(おく)る者(もの)のみである。120故(ゆゑ)に此(これ)等(ら)の人間(にんげん)は大神(おほかみ)の聖場(せいぢやう)、121地(ち)の高天原(たかあまはら)を汚(けが)す所(ところ)の悪魔(あくま)の影像(えいざう)であり、122且(かつ)個人(こじん)としては偽善者(ぎぜんしや)である。123偽善者(ぎぜんしや)なる者(もの)は時(とき)としては善(ぜん)を語(かた)り、124又(また)善(ぜん)を教(をし)へ、125善(ぜん)を行(おこな)へども、126何事(なにごと)につけても自己(じこ)の愛(あい)を先(さき)にするものである。127大神(おほかみ)の御(ご)神格(しんかく)及(および)高天原(たかあまはら)の状態(じやうたい)、128愛(あい)の徳(とく)及(および)信(しん)の道理(だうり)並(ならび)に高天原(たかあまはら)の将来(しやうらい)などに付(つ)いて、129人(ひと)に語(かた)り伝(つた)ふること、130最(もつとも)深(ふか)く、131天人(てんにん)の如(ごと)く、132聖人(せいじん)君子(くんし)の如(ごと)く、133偶(たま)には見(み)ゆるものあり、134又(また)其(その)口(くち)にする所(ところ)を心言行(しんげんかう)一致(いつち)と云(い)つて、135行為(かうゐ)に示(しめ)さむとし、136能(よ)く其(その)行(おこな)ひを飾(かざ)つて、137人(ひと)の模範(もはん)とならむとする者(もの)あれ共(ども)、138其(その)人間(にんげん)が実際(じつさい)に思惟(しゐ)する所(ところ)のものは必(かなら)ずや人(ひと)に知(し)られむ為(ため)、139或(あるひ)は褒(ほ)められむ為(ため)にする者(もの)が多(おほ)い。140此(これ)等(ら)は未(ま)だ偽善者(ぎぜんしや)の中(うち)でも今日(こんにち)の処(ところ)では、141余程(よほど)上等(じやうとう)の部分(ぶぶん)にして、142俗眼(ぞくがん)より見(み)れば真(しん)に神(かみ)を理解(りかい)し、143言心行(げんしんかう)の一致(いつち)の清(きよ)き信者(しんじや)と見得(みう)る者(もの)である。144次(つぎ)に今(いま)綾(あや)の聖地(せいち)に於(お)ける最上等(さいじやうとう)の部分(ぶぶん)に属(ぞく)する人(ひと)の心性(しんせい)を霊眼(れいがん)によつて即(すなは)ち内的(ないてき)観察(くわんさつ)に仍(よ)つて見(み)る時(とき)は、145未(ま)だ天界(てんかい)の消息(せうそく)にも詳(つまびらか)ならず、146其(その)自愛(じあい)及(および)世間愛(せけんあい)と雖(いへど)も、147未(ま)だ徹底(てつてい)せず、148天人(てんにん)の存在(そんざい)を半信(はんしん)半疑(はんぎ)の態度(たいど)を以(もつ)て批判(ひはん)し、149或(あるひ)は死後(しご)の生涯(しやうがい)などに就(つい)て語(かた)る共(とも)、150只(ただ)真理(しんり)に明(あか)き哲人(てつじん)と人(ひと)に見(み)られむが為(ため)に、151真実(しんじつ)に吾(わが)心(こころ)に摂受(せつじゆ)せざる所(ところ)を、152能(よ)く知(し)れるが如(ごと)くに語(かた)り伝(つた)ふる位(くらゐ)が上等(じやうとう)の部分(ぶぶん)である。153而(しか)して口(くち)には極(きは)めて立派(りつぱ)なことを言(い)つても、154其(その)手足(てあし)を動(うご)かし、155額(ひたひ)に汗(あせ)し、156以(もつ)て神(かみ)に対(たい)する真心(まごころ)を実行(じつかう)せない者(もの)が大多数(だいたすう)である。157斯(こ)の如(ごと)き人(ひと)は神(かみ)の教(をしへ)を伝(つた)へ、158又(また)は神(かみ)に奉仕(ほうし)する祭官(さいくわん)などは、159俗事(ぞくじ)に鞅掌(おうしやう)し或(あるひ)は田園(でんえん)を耕(たがや)し、160肥料(ひれう)などの汚穢物(をゑぶつ)を手(て)にするは、161所謂(いはゆる)神(かみ)を汚(けが)すものと誤解(ごかい)してゐる八衢(やちまた)人間(にんげん)や、162或(あるひ)は怠惰(たいだ)の為(ため)、163筋肉(きんにく)労働(らうどう)を厭(いと)うて、164宣伝使(せんでんし)又(また)は祭官(さいくわん)の美名(びめい)にかくるる横着者(わうちやくもの)である。165此(これ)等(ら)は何(いづ)れも神(かみ)の前(まへ)にあつて、166天人(てんにん)の一人(ひとり)をも霊的(れいてき)に認(みと)むることなく、167又(また)体的(たいてき)にも感(かん)ずる能(あた)はず、168遂(つひ)には神仏(しんぶつ)を種(たね)にして、169自利(じり)を貪(むさぼ)る地獄道(ぢごくだう)の餓鬼(がき)となつてゐる者(もの)である。170かくの如(ごと)き心性(しんせい)を以(もつ)て神(かみ)の教(をしへ)を説(と)き、171神(かみ)に近(ちか)く奉仕(ほうし)するは、172全(まつた)く神(かみ)を冒涜(ばうとく)する罪人(ざいにん)である。
173 斯(か)くの如(ごと)き人間(にんげん)は神(かみ)の言葉(ことば)を売薬(ばいやく)の能書(のうがき)位(くらゐ)に心得(こころえ)、174何事(なにごと)をも信(しん)ぜず、175又(また)自己(じこ)を外(ほか)にして徳(とく)を行(おこな)ふの念(ねん)なく、176人(ひと)の見(み)ざる所(ところ)に於(おい)て善(ぜん)をなすことを忌(い)み、177悪(あく)を人(ひと)の前(まへ)に秘(ひ)し、178善(ぜん)は如何(いか)なる小(ちひ)さきことと雖(いへど)も、179必(かなら)ず人(ひと)の前(まへ)に現(あら)はさむことを願(ねが)ふ。180故(ゆゑ)に彼(かれ)等(ら)がもし万一(まんいち)善(ぜん)なる行(おこな)ひをなしたりとせば、181それは皆(みな)自己(じこ)の為(ため)になす所(ところ)あるによる。182又(また)他人(たにん)の為(ため)に善(ぜん)を行(おこな)ふことあれば、183それは他人(たにん)及(および)世間(せけん)より聖人(せいじん)或(あるひ)は仁者(じんしや)と見(み)られむことを願(ねが)ふに過(す)ぎない。184斯(かく)の如(ごと)き人(ひと)のなすことはすべて自愛(じあい)の為(ため)である。185自愛(じあい)は所謂(いはゆる)地獄(ぢごく)の愛(あい)である。
186 心(こころ)ならずも五六七(みろく)殿(でん)に此(この)物語(ものがたり)を聞(き)きに来(き)てゐる偽善者(ぎぜんしや)も偶(たま)にはあるやうだ。187それは折角(せつかく)昼夜(ちうや)艱苦(かんく)して口述(こうじゆつ)編纂(へんさん)した『霊界(れいかい)物語(ものがたり)』を毎夜(まいよ)捧読(ほうどく)して、188霊界(れいかい)の消息(せうそく)を、189迷(まよ)へる人々(ひとびと)に説(と)き示(しめ)さむとする口述者(こうじゆつしや)の意思(いし)を無視(むし)したと思(おも)はれてはならないから……といふ位(くらゐ)な考(かんが)へで、190厭々(いやいや)聞(き)きに来(く)る人(ひと)もあるのである。191決(けつ)して左様(さやう)な御(お)気遣(きづかひ)は無用(むよう)である。192何程(なにほど)内底(ないてい)の天(てん)に向(むか)つて閉塞(へいそく)したる人々(ひとびと)の身魂(みたま)に流入(りうにふ)し或(あるひ)は伝達(でんたつ)せむとするも、193到底(たうてい)駄目(だめ)である。194故(ゆゑ)にどうしても此(この)物語(ものがたり)の気(き)にくはぬ人(ひと)は、195かかる偽善(ぎぜん)的(てき)行為(かうゐ)を止(や)めて、196所主(しよしゆ)の愛(あい)に仍(よ)り、197身魂(みたま)相応(さうおう)の研究(けんきう)を自由(じいう)にされむことを希望(きばう)する。198決(けつ)して物語(ものがたり)の聴聞(ちやうもん)や購読(こうどく)を強(しひ)るものではない。
199 経(たて)の神諭(しんゆ)は拝聴(はいちやう)すると、200涙(なみだ)が出(で)る様(やう)だが、201緯(よこ)の物語(ものがたり)を聞(き)くと少(すこ)しも真味(しんみ)な所(ところ)がなく、202可笑(をか)しくなつてドン・キホーテ式(しき)の物語(ものがたり)か又(また)は寄席(よせ)気分(きぶん)のやうだと云(い)つてゐる立派(りつぱ)な人格者(じんかくしや)があるさうだ。203之(こ)れも身魂(みたま)相応(さうおう)の理(り)に仍(よ)るものだから、204如何(いかん)ともすることは出来(でき)ない。205併(しか)し乍(なが)ら悲(かな)しみの極(きよく)は喜(よろこ)びであり、206喜(よろこ)びの極(きよく)は悲(かな)しみであることは自然界(しぜんかい)学者(がくしや)もよく称(とな)ふる所(ところ)である。207而(しか)して悲(かな)しみは天国(てんごく)を閉(と)ぢ歓(よろこ)びは天国(てんごく)を開(ひら)くものである。208人間(にんげん)が他愛(たあい)もなく笑(わら)ふ時(とき)は決(けつ)して悲(かな)しみの時(とき)ではない、209面白(おもしろ)可笑(をか)しく歓喜(くわんき)に充(み)ちた時(とき)である。210神(かみ)は歓喜(くわんき)を以(もつ)て生命(せいめい)となし、211愛(あい)の中(うち)に存在(そんざい)し玉(たま)ふものである。212赤子(あかご)が泣(な)いた時(とき)は其(その)母親(ははおや)が慌(あわ)てて乳(ちち)を呑(の)ませ、213其(その)子(こ)の笑顔(ゑがほ)を見(み)て喜(よろこ)ぶのは即(すなは)ち愛(あい)である。214吾(わが)子(こ)を泣(な)かせ、215又(また)は悲(かな)しましめて快(こころよ)しと思(おも)ふ親(おや)はない。216神(かみ)の心(こころ)はすべて一瞬(いつしゆん)の間(ま)も、217人間(にんげん)を歓喜(くわんき)にみたしすべての事業(じげふ)を楽(たの)しんで営(いとな)ましめむとし玉(たま)ふものである。218此(この)物語(ものがたり)が真面目(まじめ)を欠(か)いて笑(わら)はせるのが不快(ふくわい)に感(かん)ずる人(ひと)あらば、219それは所謂(いはゆる)精神(せいしん)上(じやう)に欠陥(けつかん)のある人(ひと)であつて、220癲狂者(てんきやうしや)か或(あるひ)は偽善者(ぎぜんしや)である。221先代(せんだい)萩(はぎ)の千松(せんまつ)の言(い)つたやうに……お腹(なか)がすいてもひもじうない……といふ虚偽(きよぎ)虚飾(きよしよく)の態度(たいど)である。222かくの如(ごと)き考(かんが)へを捨(す)てざる限(かぎ)り、223人(ひと)は何程(なにほど)神(かみ)の前(まへ)に礼拝(れいはい)し、224神(かみ)を讃美(さんび)し、225愛(あい)を説(と)くと雖(いへど)も、226到底(たうてい)天国(てんごく)に入(い)ることは出来(でき)ない。227努(つと)めて地獄(ぢごく)の門(もん)に押入(おしい)らむとする痴呆者(ちはうしや)である。
228 凡(すべ)て綾(あや)の聖地(せいち)に、229神(かみ)の恵(めぐみ)に仍(よ)つて引(ひき)つけられたる人(ひと)、230及(および)此(この)教(をしへ)に信従(しんじゆう)する各地(かくち)の信者(しんじや)は、231すべて大神(おほかみ)の神格(しんかく)の中(うち)にあるものである。232然(しか)るに灯台(とうだい)下暗(もとくら)しとか云(い)つて、233之(これ)を認(みと)め得(え)ざるものは天人(てんにん)(人間(にんげん)と同様(どうやう)の形態(けいたい))の人格(じんかく)を保(たも)つことは出来(でき)ないものである。234富士(ふじ)へ来(き)て富士(ふじ)を尋(たづ)ねつ富士詣(ふじまう)で……と云(い)ふ様(やう)に、235富士山(ふじさん)の中(なか)へ入(はい)つて了(しま)へば、236他(た)に秀(すぐ)れて尊(たふと)き霊山(れいざん)たることを知(し)らず、237普通(ふつう)の山(やま)と見(み)ゆるものである。238併(しか)し遠(とほ)くへだてて之(これ)を望(のぞ)む時(とき)は、239実(じつ)に其(その)清(きよ)き姿(すがた)は雲表(うんぺう)に屹立(きつりつ)し、240鮮岳(せんがく)清山(せいざん)を圧(あつ)して立(た)てる其(その)崇高(すうかう)と偉大(ゐだい)さを見(み)ることを得(う)る様(やう)に、241却(かへつ)て遠(とほ)く道(みち)をはなれ、242教(をしへ)に入(い)らざりし者(もの)が、243色眼鏡(いろめがね)を外(はづ)して見(み)る時(とき)は、244其(その)概要(がいえう)を知(し)り全般(ぜんぱん)を伺(うかが)ふことが出来(でき)る様(やう)に、245却(かへつ)て未(ま)だ一言(いちごん)も教(をしへ)を聞(き)かず、246一歩(ひとあし)も圏内(けんない)に足(あし)をふみ入(い)れざる人(ひと)の方(はう)が其(その)真相(しんさう)を知(し)る者(もの)である。247又(また)大神(おほかみ)は時(とき)によつて一個(いつこ)の天人(てんにん)と天国(てんごく)にては現(げん)じ玉(たま)ひ、248現界(げんかい)即(すなは)ち地(ち)の高天原(たかあまはら)にては一個(いつこ)の神人(しんじん)と現(げん)じ玉(たま)ふ。249されど斯(かく)の如(ごと)く内分(ないぶん)の塞(ふさ)がつた人間(にんげん)は神人(しんじん)に直接(ちよくせつ)面接(めんせつ)し且(かつ)其(その)教(をしへ)を聴(き)き乍(なが)ら、250之(これ)を普通(ふつう)の凡夫(ぼんぶ)とみなし、251或(あるひ)は自分(じぶん)に相当(さうたう)の人格者(じんかくしや)又(また)は少(すこ)しく秀(すぐ)れたる者(もの)となし、252或(あるひ)は自分(じぶん)より劣(おと)りし者(もの)となして、253之(これ)を遇(ぐう)するものである。254かくの如(ごと)き人間(にんげん)は八衢(やちまた)所(どころ)か、255已(すで)に地獄(ぢごく)の大門(おほもん)に向(むか)つて、256爪先(つまさき)を向(む)けてゐるものである。257真(しん)の智慧(ちゑ)と証覚(しようかく)とを欠(か)いた者(もの)は、258総(すべ)て地獄(ぢごく)に没入(ぼつにふ)するより道(みち)はない。259故(ゆゑ)にかかる人間(にんげん)は天人(てんにん)又(また)は神人(しんじん)の目(め)より見(み)る時(とき)は、260何程(なにほど)形態(けいたい)は立派(りつぱ)に飾(かざ)り立(た)て、261何程(なにほど)人品(じんぴん)骨格(こつがら)はよく見(み)えても、262殆(ほとん)ど其(その)内分(ないぶん)は人間(にんげん)の相好(さうがう)が備(そな)はつてゐないのである。263彼(かれ)等(ら)は罪悪(ざいあく)と虚偽(きよぎ)とに居(を)るを以(もつ)て、264従(したが)つて神(かみ)の智慧(ちゑ)と証覚(しようかく)に反(そむ)いてゐる。265恰(あだか)も妖怪(えうくわい)の如(ごと)く餓鬼(がき)の如(ごと)く、266其(その)醜状(しうじやう)目(め)も当(あ)てられぬばかりである。267斯(かく)の如(ごと)き肉体(にくたい)の人間(にんげん)を称(しよう)して、268神界(しんかい)にては生命(せいめい)といはず、269之(これ)を霊的(れいてき)死者(ししや)と称(とな)ふるのである。270又(また)は娑婆(しやば)亡者(まうじや)或(あるひ)は我利(がり)我利(がり)亡者(まうじや)ともいふ。
271 斯(かく)の如(ごと)き大神(おほかみ)の愛(あい)の徳(とく)に離(はな)れたる者(もの)は生命(せいめい)なるものはない。272而(しか)して大神(おほかみ)の愛(あい)又(また)は神格(しんかく)に離(はな)れた時(とき)は、273何事(なにごと)もなし能(あた)はざるものである。274故(ゆゑ)に大本(おほもと)神諭(しんゆ)にも……神(かみ)の守護(しゆご)と許(ゆる)しがなければ、275何事(なにごと)も成就(じやうじゆ)せぬぞよ。276九分(くぶ)九厘(くりん)いつた所(ところ)でクレンとかへるぞよ。277人間(にんげん)がこれ程(ほど)善(ぜん)はないと思(おも)ふて致(いた)して居(を)ることが、278神(かみ)の許(ゆる)しなきものは皆(みな)悪(あく)になるぞよ。279九分(くぶ)九厘(くりん)で手(て)の掌(ひら)がかへり、280アフンと致(いた)すぞよ……と示(しめ)されてあるのを伺(うかが)ひ奉(たてまつ)つても、281此(この)間(かん)の消息(せうそく)が分(わか)るであらう。282人間(にんげん)は自然界(しぜんかい)の自愛(じあい)に仍(よ)つて、283或(ある)程度(ていど)までは妖怪(えうくわい)的(てき)に、284惰性(だせい)的(てき)に出来得(できう)るものだが、285決(けつ)して有終(いうしう)の美(び)をなすことは出来(でき)ない、286今日(こんにち)自愛(じあい)と世間愛(せけんあい)より成(な)れる、287すべての銀行(ぎんかう)会社(くわいしや)及(および)其(その)他(た)の諸団体(しよだんたい)の実状(じつじやう)を見(み)れば、288何(いづ)れも最初(さいしよ)の所期(しよき)に反(はん)し、289其(その)内部(ないぶ)には、290魑魅(ちみ)魍魎(まうりやう)の徘徊(はいくかい)跳梁(てうりやう)して、291妖怪(えうくわい)変化(へんげ)の巣窟(さうくつ)となり、292目(め)もあてられぬ醜状(しうじやう)を包蔵(はうざう)してゐる。293そして強食(きやうしよく)弱肉(じやくにく)優勝(いうしやう)劣敗(れつぱい)の地獄道(ぢごくだう)が、294遺憾(ゐかん)なく現実(げんじつ)してゐるではないか。
295 現代(げんだい)に於(おい)ても心(こころ)の直(すぐ)なる者(もの)の胸中(きようちう)に見(み)る所(ところ)の神(かみ)は、296太古(たいこ)の人(ひと)の形(かたち)なれ共(ども)、297自得提(じとくてい)の智慧(ちゑ)及(および)罪悪(ざいあく)の生涯(しやうがい)に在(あ)つて天界(てんかい)よりの内流(ないりう)を裁断(さいだん)したる者(もの)は斯(かく)の如(ごと)き本然(ほんぜん)の所証(しよしよう)を滅却(めつきやく)し了(れう)せるものである。298斯(か)かる盲目者(まうもくしや)は見(み)る可(べか)らざる神(かみ)を見(み)むとし、299又(また)罪悪(ざいあく)の生涯(しやうがい)にて所証(しよしよう)を滅却(めつきやく)せし者(もの)は、300神(かみ)を決(けつ)して求(もと)めない者(もの)である。301故(ゆゑ)に現代(げんだい)の人間(にんげん)は神(かみ)にすがる者(もの)と雖(いへど)も、302すべて天界(てんかい)よりの内流(ないりう)を裁断(さいだん)したる者(もの)多(おほ)き故(ゆゑ)に、303見(み)る可(べか)らざる神(かみ)を見(み)むとし、304又(また)物質欲(ぶつしつよく)のみに齷齪(あくせく)して、305本然(ほんぜん)の所証(しよしよう)を滅却(めつきやく)した地獄(ぢごく)的(てき)人間(にんげん)は、306神(かみ)の存在(そんざい)を認(みと)めず、307又(また)神(かみ)を大(おほい)に嫌(きら)ふものである。308すべて天界(てんかい)よりして先(ま)づ人間(にんげん)に流入(りうにふ)する所(ところ)の神格(しんかく)其(その)者(もの)は実(じつ)に此(この)本来(ほんらい)の所証(しよしよう)である。309何(なん)となれば、310人(ひと)の生(うま)れたるは、311現界(げんかい)の為(ため)にあらず、312其(その)目的(もくてき)は天国(てんごく)の団体(だんたい)を円満(ゑんまん)ならしむる為(ため)である。313故(ゆゑ)に何人(なんぴと)も神格(しんかく)の概念(がいねん)なくしては天界(てんかい)に入(い)ることは出来(でき)ないのである。
314 高天原(たかあまはら)及(および)天国(てんごく)霊国(れいごく)の団体(だんたい)を成(な)す所(ところ)の神格(しんかく)の何者(なにもの)たるを知(し)らざる者(もの)は、315高天原(たかあまはら)の第一(だいいち)関門(くわんもん)にさへも上(のぼ)ることを得(え)ない。316かくの如(ごと)き外分(ぐわいぶん)のみ開(ひら)けたる人間(にんげん)がもし誤(あやま)つて天国(てんごく)の関門(くわんもん)に近付(ちかづ)かむとすれば、317一種(いつしゆ)の反抗力(はんかうりよく)と強(つよ)き嫌悪(けんを)の情(じやう)を感(かん)ずるものである。318そは天界(てんかい)を摂受(せつじゆ)すべき彼(かれ)の内分(ないぶん)が未(いま)だ高天原(たかあまはら)の形式中(けいしきちう)に入(い)らざるを以(もつ)て、319すべての関門(くわんもん)が閉鎖(へいさ)さるるに仍(よ)るからである。320もし強(しひ)て此(この)関門(くわんもん)を突破(とつぱ)し、321高天原(たかあまはら)に進(すす)み入(い)らむとすれば、322其(その)内分(ないぶん)はますます固(かた)く閉(と)ざされて如何(いかん)ともす可(べか)らざるに至(いた)るものである。323信者(しんじや)の中(なか)には無理(むり)に地(ち)の高天原(たかあまはら)に近付(ちかづ)き来(きた)り、324神(かみ)に近(ちか)く仕(つか)へ親(した)しく教(をしへ)を聞(き)いてからますます其(その)内分(ないぶん)が固(かた)く閉(と)ざされて、325心身(しんしん)混惑(こんわく)し、326信仰(しんかう)以前(いぜん)に劣(おと)りし精神(せいしん)状態(じやうたい)となり、327且(かつ)又(また)其(その)行(おこな)ひの上(うへ)に非常(ひじやう)な地獄(ぢごく)的(てき)活動(くわつどう)の現(あら)はるるものがあるのは此(この)理(り)に基(もとづ)くのである。328大神(おほかみ)を否(いな)み、329大神(おほかみ)の神格(しんかく)に充(みた)されたる神人(しんじん)を信(しん)ぜざる者(もの)は、330凡(すべ)てかくの如(ごと)き運命(うんめい)に陥(おちい)るものである。331人間(にんげん)の中(うち)にある天界(てんかい)の生涯(しやうがい)とは即(すなは)ち神(かみ)の真(まこと)に従(したが)ひて、332棲息(せいそく)せるものなることを知悉(ちしつ)せる精神(せいしん)状態(じやうたい)をいふのである。333惟神(かむながら)霊(たま)幸倍(ちはへ)坐世(ませ)。
334(大正一二・一・一六 旧一一・一一・三〇 松村真澄録)
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