御神業とは筆先の三千世界を立替立直して、弥勒の世即ち地上に天国を建設し、皇祖皇宗の御遺訓に奉答し奉る謂である。御奉仕とは地上天国建設の御経綸に就て、無条件に其の御用を勤めさして頂く事であるから、私心私欲を去つて神の御為め君国の御為めに奉仕させて頂かねばならぬ。奉仕の原則としては、奉仕さして頂くのであつて仕てあげるのでは無い、御用してあげるにあらずして御用さして頂くのである。奉仕には必ず感謝の念を以て当らねばならぬ。又御用さして頂くことを無上の光栄と思惟せねばならぬ、仮にも報酬を望むが如き心、神に恩を売るが如き心が寸毫あつてはならぬ、全身全霊を御神業の為めに捧げ誠を尽す事である。にも拘らず神の目から視れば、皆が御神業ぢや御奉仕ぢやというて一生懸命やつて呉れては居るやうでも、それが御神業の御邪魔になつたり、御経綸を妨げたりして居るのが多いので実は難有迷惑である。それ等の裏面には必ず一種の野心を包蔵して居るか、慢心して居るか、功名心に駆られて居るか、我欲があるか、執着があるか、不平があるか、何れにしても決して純で無いものが働いて居る結果である。感謝と報恩の念を以て不惜身命的神第一信仰第一主義に誠でした仕事なれば必ず其結果は良いものである。
今の世の中の一般的制度の多くは官庁又は会社等の役員の如き大抵朝八時から夕の四時迄事務を執れば一日の勤務を終へた事になる、一般筋肉労働者は一日の労働時間を八時間にせよとて八ケ間敷く資本家側に要求して居るとか聞いて居る、又総ての仕事は分業的とでも云ふものか各々其係を定めて置いて分類的に処理して行く事になつて居るが為めに甲の係が非常に多忙を極め煙草一服する間も無く一生懸命やつて居つても、隣席を占めて居る乙の係は吾不関焉で少しも手伝ふともせず傍観して居るといふ有様で人物経済の上から視ても又百般の事務に通暁するといふ点からでも不利益だと思ふ。これが外国の行り方人業といふものだ。日本の行り方は時間によつて仕事をするのでは無い、朝日の出から夕日の入りまで労働するのだ、別に定まつた休日とては無い、外部の仕事は雨降りの日が休みだ、係とか役とかいふものは別に定めては無いけれど惟神に皆が信仰による誠でもつて御用に勤しむのであるから如何な仕事でも皆御神業であつて高卑の別は無い、だから互に助け合つて全力を注いですれば楽に出来る筈だ、そして其日の仕事は夜になつても其日に結末をつけて了ふのだ、明日に持越すといふ事をせぬのが原則だ。
大本の神業というものは決して大本自体の為にするのでなくして天下国家の為にして居るのだから其理由を能く理解して、御神業に尽す事は何れも皆世界の為に尽して居ると云ふ事になるのであつて、これ程神聖な事は他の何れに求めて無いのだから人間心を捨てて了うて総てを神に任して貰ひたい。経綸に就ては人間の常識で考へて成功と思ふものも神の方では不成功の事もあり不成功と思ふ事も大成功の場合もある、何としても天地に対する大経綸であるから皮相だけの観察では容易に判るべきものでは無いから、細工は流々仕上げを見て貰ひたい、後で判る仕組であるから。要は神を信ずると共に私を信じて、人の口車などに乗らず終始一貫して貰ひたい、それが一番神へ忠実である。
又奉仕には精神的と、物質的と、労務的といろいろあるけれど其心持は皆一様でなければならぬ。今度は苦労艱難誠の花の咲く世が来たのであるから眼前の小利小欲に捉はれずに大きな心になつてやつて貰ひたい、如何なる苦しい事も又如何に卑しい事でも御神業に奉仕さして頂いて居ると思へば感謝こそすれ不足などの心があらう道理は無い筈だ。不平の心が起きたり、仕事の高卑を気にしたりする内は未だ御神業といふ事も、御奉仕といふ意義も判つて居らぬというてもよいと思ふ。──(森良仁)