霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第五章 言(ことば)の疵(きず)〔六七九〕

インフォメーション
著者:出口王仁三郎 巻:霊界物語 第21巻 如意宝珠 申の巻 篇:第1篇 千辛万苦 よみ(新仮名遣い):せんしんばんく
章:第5章 言の疵 よみ(新仮名遣い):ことばのきず 通し章番号:679
口述日:1922(大正11)年05月17日(旧04月21日) 口述場所: 筆録者:松村真澄 校正日: 校正場所: 初版発行日:1923(大正12)年4月5日
概要: 舞台: あらすじ[?]このあらすじはMさん作成です(一部加筆訂正してあります)。一覧表が「王仁DB」にあります。[×閉じる]:
玉治別の言葉によって六人の小盗人らは三五教に帰順し、宣伝使の供をすることとなった。
夜の山道にさしかかると、一行は狼の大群がやってくるのに出くわした。皆森林の中に逃げ込むが、玉治別だけは法螺を吹いて、狼たちの行く手に立ちはだかった。すると狼たちはその勢いに辟易したのか、向きを変えて行ってしまった。
玉治別は一人、山の上に登って行き、赤児岩と呼ばれる岩に腰を掛けていた。するとアルプス教の者と思しき二人がやってきて、玉治別を仲間と勘違いし、三五教の宣伝使をやっつける手はずの作戦書を渡して去って行った。
玉治別は書類を持ちながら歩いて行くと、谷底に人家の灯が見える。行くと、一軒の小さな木挽小屋があった。戸を叩くと杢助という男が出てきて、女房の通夜をしているという。
杢助は玉治別が宣伝使と見て取ると、通夜の番を頼んで用事を済ませに出て行ってしまった。玉治別は仕方なく死人の番をする。すると死人の蒲団から手を伸ばして、お供え物の握り飯を食べる者がある。
そこへ、竜国別と国依別ら一行がやってきて、玉治別と合流した。元盗人たちによると、木挽の杢助夫婦は腕力が強く、泥棒仲間も何度もひどい目に会わされて近づかないほどの剛の者だという。遠州ら元盗人たちは、恐れて小屋に入ろうとしない。
三人が話をしていると杢助が帰ってきた。すると死人の蒲団の中から、杢助の娘が出てきた。三人は杢助に頼まれて、死人にお経を上げる。
三人が帰ろうとすると、玉治別がアルプス教の者から受け取った包みに杢助が気づいた。中から、杢助の家の金子が出てきたことから、玉治別は泥棒の一味と間違えられてしまう。
杢助は鉞を振るって三人に襲い掛かるが、玉治別は天の数歌を唱えると、杢助は霊縛されてしまった。その間に玉治別は一部始終を物語り、誤解が解けた。
杢助の家から盗み出された金子はすべて杢助に返し、宣伝使たちはアルプス教の秘密書類だけを携えて、津田の湖に向かって進んで行った。
主な登場人物[?]【セ】はセリフが有る人物、【場】はセリフは無いがその場に居る人物、【名】は名前だけ出て来る人物です。[×閉じる]: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2021-05-07 19:48:55 文字数:7776 OBC :rm2105
愛善世界社版:94頁 八幡書店版:第4輯 299頁 修補版: 校定版:98頁 普及版:42頁 初版: ページ備考:
001 玉治別(たまはるわけ)が早速(さつそく)の頓智(とんち)に、002六(ろく)人(にん)の小盗人(こぬすと)は始(はじ)めて其(その)非(ひ)を悟(さと)り、003喜(よろこ)んで神(かみ)の道(みち)に帰順(きじゆん)し、004宣伝使(せんでんし)に従(したが)つて高春山(たかはるやま)に向(むか)ふ事(こと)となつた。005日(ひ)は漸(やうや)く暮(く)れかかり、006月背(つきしろ)と見(み)えて山(やま)と山(やま)とに囲(かこ)まれし谷道(たにみち)も、007どことなく明(あか)るくなつて来(き)た。008されど東西(とうざい)に高山(かうざん)を負(お)ひたる谷路(たにみち)には、009皎々(かうかう)たる月(つき)の影(かげ)は見(み)えなかつた。010暫(しばら)くすると怪(あや)しき唸(うな)り声(ごゑ)が前方(ぜんぱう)に聞(きこ)え、011次(つ)いで幾百(いくひやく)人(にん)とも知(し)れぬ人(ひと)の足音(あしおと)らしきもの、012刻々(こくこく)に聞(きこ)えて来(き)た。
013玉治別(たまはるわけ)『ヨー怪(あや)しき物音(ものおと)が聞(きこ)えて来(き)たぞ。014コレヤ大方(おほかた)山賊(さんぞく)の大集団(だいしふだん)の御(ご)通過(つうくわ)と見(み)える。015我々(われわれ)は此処(ここ)に待受(まちうけ)して、016片(かた)つ端(ぱし)から言向和(ことむけやは)し、017天晴(あつぱれ)大親分(おほおやぶん)となつてやらう。018アヽ面白(おもしろ)い面白(おもしろ)い。019天(てん)の時節(じせつ)が到来(たうらい)したか。020サア竜(たつ)、021国(くに)、022遠州(ゑんしう)、023其(その)他(た)の乾児(こぶん)共(ども)、024抜目(ぬけめ)なく準備(じゆんび)を致(いた)すのだよ』
025国依別(くによりわけ)『ハハア、026又(また)商売替(しやうばいがへ)ですかな』
027玉治別(たまはるわけ)『機(き)に臨(のぞ)み変(へん)に応(おう)ずるは英雄(えいゆう)豪傑(がうけつ)の本能(ほんのう)だよ』
028遠州(ゑんしう)『モシモシあの足音(あしおと)は人間(にんげん)ぢやありませぬ。029あれは千匹狼(せんびきおほかみ)と云(い)つて、030時々(ときどき)此(この)路(みち)を通過(つうくわ)する猛獣(まうじう)です。031何程(なにほど)英雄(えいゆう)豪傑(がうけつ)でも、032千匹狼(せんびきおほかみ)にかかつては叶(かな)ひませぬ。033サアサア皆(みな)さま、034散(ち)り散(ぢ)りバラバラになつて、035山林(さんりん)に姿(すがた)を隠(かく)して下(くだ)さい。036余(あま)り密集(みつしふ)して居(を)ると狼(おほかみ)の目(め)に付(つ)いたら大変(たいへん)です』
037玉治別(たまはるわけ)『ナアニ、038善言(ぜんげん)美詞(びし)の言霊(ことたま)を以(もつ)て、039狼(おほかみ)の奴(やつ)残(のこ)らず言向(ことむ)け和(やは)すのだ』
040竜国別(たつくにわけ)『そんな馬鹿(ばか)言(い)つてる所(どころ)か、041サア早(はや)く、042各自(めいめい)に覚悟(かくご)をせよ。043畜生(ちくしやう)に相手(あひて)になつて堪(たま)るものかい。044怪我(けが)でもしたら、045それこそ犬(いぬ)に咬(か)まれた様(やう)なものだ……否(いや)狼(おほかみ)に咬(か)まれては損害(そんがい)賠償(ばいしやう)を訴(うつた)へる訳(わけ)にも行(ゆ)かず、046治療代(ちれうだい)もどつからも出(で)やせぬぞ。047オイ国依別(くによりわけ)、048遠州(ゑんしう)、049駿州(すんしう)、050一同(いちどう)、051玉公(たまこう)の言(い)ふ事(こと)を聞(き)くに及(およ)ばぬ。052今日(けふ)は俺(おれ)が臨時(りんじ)の大将(たいしやう)だ。053サア早(はや)く早(はや)く』
054と傍(かたはら)の樹木(じゆもく)密生(みつせい)せる森林(しんりん)の中(なか)へ駆込(かけこ)む。055国依別(くによりわけ)外(ほか)六(ろく)人(にん)は竜国別(たつくにわけ)と行動(かうどう)を共(とも)にした。056玉治別(たまはるわけ)は依然(いぜん)として路上(ろじやう)に立(た)ち、
057玉治別(たまはるわけ)『アハヽヽヽ、058何奴(どいつ)も此奴(こいつ)も弱(よわ)い奴(やつ)だなア。059多寡(たくわ)が知(し)れた四(よ)つ足(あし)の千匹(せんびき)万匹(まんびき)何(なに)が怖(こは)いのだ。060オイ狼(おほかみ)の奴(やつ)、061幾(いく)らでも出(で)て来(こ)い』
062と呶鳴(どな)つて居(を)る。063狼(おほかみ)は五六間(ごろくけん)前(まへ)まで列(れつ)を組(く)んでやつて来(き)たが、064路(みち)の真(ま)ん中(なか)に立(た)ちはだかり、065捻鉢巻(ねぢはちまき)をしながら噪(はし)やいで居(ゐ)る玉治別(たまはるわけ)の勢(いきほひ)に辟易(へきえき)したか、066途(みち)を転(てん)じて谷(たに)の向側(むかふがは)の山(やま)を目(め)がけ、067ガサガサと音(おと)させ乍(なが)ら、068風(かぜ)の如(ごと)くに過(す)ぎ去(さ)つて了(しま)つた。069玉治別(たまはるわけ)は、
070玉治別『アハヽヽヽ、071弱(よわ)い奴(やつ)だな。072そんな事(こと)で高春山(たかはるやま)の猛悪(まうあく)な鬼婆(おにばば)が、073どうして退治(たいぢ)が出来(でき)るかい。074エーいい足手纏(あしてまと)ひだ、075単騎(たんき)進軍(しんぐん)と出(で)かけよう』
076と四辺(あたり)に聞(きこ)ゆる様(やう)にワザと大声(おほごゑ)で喚(わめ)き乍(なが)ら峠(たうげ)を登(のぼ)り行(ゆ)く。077竜国別(たつくにわけ)外(ほか)七(しち)人(にん)は早(はや)くも山(やま)を一生(いつしやう)懸命(けんめい)に駆(かけ)あがり、078向側(むかふがは)に姿(すがた)を隠(かく)して居(ゐ)た。079為(ため)に玉治別(たまはるわけ)の声(こゑ)も聞(きこ)えなかつた。080玉治別(たまはるわけ)は鼻唄(はなうた)を唄(うた)ひ乍(なが)ら、081峠(たうげ)の頂上(ちやうじやう)に達(たつ)し赤児岩(あかごいは)と云(い)ふ赤子(あかご)の足型(あしがた)の一面(いちめん)に出来(でき)た、082カナリ大(おほ)きな岩石(がんせき)が突(つ)き出(で)て居(ゐ)るのを見付(みつ)け、
083玉治別『アヽ結構(けつこう)な天然(てんねん)椅子(いす)が人待顔(ひとまちがほ)にチヨコナンとやつて居(ゐ)るワイ。084オイ岩椅子(いはいす)先生(せんせい)、085貴様(きさま)は余程(よほど)幸福(かうふく)な奴(やつ)だ。086三五教(あななひけう)の大(だい)宣伝使(せんでんし)兼(けん)山賊(さんぞく)の大親分(おほおやぶん)たる玉治別(たまはるわけの)命(みこと)又(また)の御名(みな)は田吾作(たごさく)大明神(だいみやうじん)が、087少時(しばらく)尻(しり)をおろして休息(きうそく)してやらう。088此(この)光栄(くわうえい)を堅磐(かきは)常磐(ときは)に、089此(この)岩(いは)の粉微塵(こなみじん)になる千万劫(せんまんがふ)の後(のち)迄(まで)も忘(わす)れてはならぬぞよ。090躓(つま)づく石(いし)も縁(えん)の端(はし)、091腰掛(こしか)け岩(いは)椅子(いす)もヤツパリ縁(えん)の端(はし)だ。092……ヤア始(はじ)めてお月様(つきさま)のお顔(かほ)を拝(をが)んだ。093実(ほん)に立派(りつぱ)な美(うつく)しい御(お)姿(すがた)だなア』
094と独(ひとり)ごちつつ少(すこ)しく眠気(ねむけ)を催(もよほ)し、095フラフラと体(からだ)を揺(ゆす)つて居(ゐ)る。096其処(そこ)へスタスタと上(あが)つて来(き)た二人(ふたり)の荒男(あらをとこ)、
097甲(かふ)『ヤア来(き)て居(を)る来(き)て居(を)る』
098乙(おつ)『居眠(ゐねむ)つて居(ゐ)るぢやないか。099大分(だいぶん)に草臥(くたび)れよつたと見(み)えるワイ。100オイ源州(げんしう)、101貴様(きさま)はこれを持(も)つて、102テーリスタンに渡(わた)すのだ。103俺(おれ)は今(いま)三五教(あななひけう)の宣伝使(せんでんし)が沢山(たくさん)な乾児(こぶん)を連(つ)れて、104高春山(たかはるやま)へやつて来(き)よるから、105其(その)準備(じゆんび)の為(ため)に行(ゆ)くのだから、106貴様(きさま)は此処(ここ)に金(かね)もあれば、107一切(いつさい)の作戦(さくせん)計画(けいくわく)を記(しる)した人名簿(じんめいぼ)もある…しつかりと渡(わた)して呉(く)れよ』
108 玉治別(たまはるわけ)はワザとに声(こゑ)をも出(だ)さず、109首(くび)を二三度(にさんど)上下(じやうげ)に振(ふ)つて包(つつ)みを受取(うけと)つた。110二人(ふたり)の荒男(あらをとこ)は追手(おつて)にでも追(お)ひかけられたやうな調子(てうし)で、111峠(たうげ)を南(みなみ)へ地響(ぢひび)きさせ乍(なが)ら、112巨岩(きよがん)が山上(さんじやう)から落下(らくか)する様(やう)な勢(いきほひ)で駆下(かけくだ)り行(ゆ)く。
113玉治別(たまはるわけ)『彼奴(あいつ)はアルプス教(けう)の……部下(ぶか)の者(もの)と見(み)えるな。114俺(おれ)を味方(みかた)と見違(みちが)へて、115大切(たいせつ)な物(もの)を預(あづ)けて行(ゆ)きよつた。116ヤツパリ、117アルプス教(けう)の奴(やつ)も巡礼姿(じゆんれいすがた)になつて居(ゐ)るのがあると見(み)えるワイ。118併(しか)し乍(なが)ら此処(ここ)に居(を)つては、119又(また)やつて来(き)よつて発覚(はつかく)されては面白(おもしろ)くない。120なんとか位置(ゐち)を転(てん)じて、121ユツクリと中(なか)の書類(しよるゐ)を調(しら)べて見(み)ようかな』
122と小声(こごゑ)に言(い)ひ乍(なが)ら、123二三十(にさんじつ)間(けん)許(ばか)り山(やま)の尾(を)を踏(ふ)んで、124月(つき)の光(ひかり)を賞(ほ)めつつ歩(あゆ)み出(だ)した。125谷底(たにそこ)に当(あた)つて幽(かす)かな火(ひ)が、126木(こ)の間(ま)に瞬(またた)いて居(ゐ)る。127これを眺(なが)めた玉治別(たまはるわけ)は、
128玉治別『アヽ此(この)山奥(やまおく)に火(ひ)を点(とも)して居(を)るのは、129此奴(こいつ)ア不思議(ふしぎ)だ。130ヒヨツとしたら山賊(さんぞく)の棲家(すみか)か、131但(ただし)は樵夫(きこり)か。132何(なに)は兎(と)もあれ、133あの火光(くわくわう)を目当(めあて)に近寄(ちかよ)つて、134様子(やうす)を窺(うかが)うて見(み)よう。135旅(たび)と云(い)ふものは随分(ずゐぶん)面白(おもしろ)いものだなア』
136と一点(いつてん)の火(ひ)を目標(めあて)に、137樹木(じゆもく)茂(しげ)れる嶮(けは)しき山(やま)を、138谷底(たにそこ)目蒐(めが)けて下(くだ)りついた。139見(み)れば笹(ささ)や木(き)の皮(かは)をもつて屋根(やね)を蔽(おほ)ひたる、140小(ちひ)さき木挽(こびき)小屋(ごや)である。141中(なか)には男(をとこ)のしはぶき[※「しはぶき」とは、咳、咳払いのこと。]が聞(きこ)えて居(ゐ)る。
142玉治別(たまはるわけ)『モシモシ、143私(わたくし)は巡礼(じゆんれい)で御座(ござ)いますが、144道(みち)に踏(ふ)みまよひ、145行手(ゆくて)は分(わか)らず、146幽(かす)かな火(ひ)を目(め)あてに此処(ここ)まで参(まゐ)りました。147どうぞ、148怪(あや)しい者(もの)ではありませぬから、149一晩(ひとばん)泊(と)めて下(くだ)さいな』
150 中(なか)より男(をとこ)の声(こゑ)、
151男(杢助)『ハイハイ、152此処(ここ)は御存(ごぞん)じの通(とほ)り、153穢苦(むさくる)しい木挽(こびき)小屋(ごや)で御座(ござ)いますが、154巡礼(じゆんれい)様(さま)なれば大変(たいへん)結構(けつこう)で御座(ござ)います。155どうぞ御(お)這入(はい)り下(くだ)さいませ』
156と快(こころよ)く荒(あら)くたい戸(と)を、157中(なか)からガタつかせ乍(なが)ら漸(やうや)く開(ひら)いて、158奥(おく)に案内(あんない)する。159玉治別(たまはるわけ)は案内(あんない)に連(つ)れて、160一寸(ちよつと)した山中(さんちう)に似合(にあ)はぬ美(うつく)しい座敷(ざしき)に通(とほ)つた。
161玉治別『此(この)深山(しんざん)にお前(まへ)さま、162たつた一人(ひとり)暮(くら)して居(ゐ)るのかい。163門(かど)にて聞(き)けば男(をとこ)の泣(な)き声(ごゑ)がして居(を)つたやうだが、164アレヤ一体(いつたい)、165誰(たれ)が泣(な)いてゐたのですか』
166男(をとこ)(杢助)『私(わたくし)は木挽(こびき)の杢助(もくすけ)で御座(ござ)いますが、167家内(かない)のお杉(すぎ)が二時(ふたとき)許(ばか)り前(まへ)に国替(くにがへ)を致(いた)しまして、168それが為(ため)に死人(しにん)の枕許(まくらもと)で、169此(この)世(よ)の名残(なごり)に女房(にようばう)に向(むか)つて泣(な)いてやりました。170併(しか)し乍(なが)ら俄(にはか)やもをでどうする事(こと)も出来(でき)ず、171霊前(れいぜん)に供(そな)へる物(もの)もないので、172握飯(にぎりめし)を拵(こしら)へて霊前(れいぜん)に供(そな)へ、173戒名(かいみやう)の代(かは)りに板切(いたぎ)れを削(けづ)つて、174斯(か)うして祀(まつ)つて置(お)きましたが、175あなたは巡礼(じゆんれい)様(さま)ぢやと聞(き)きましたが、176どうぞ私(わたくし)がお供(そな)へ物(もの)の準備(じゆんび)や、177其(その)外(ほか)親友(しんいう)や寺(てら)の坊(ばう)さまに知(し)らして来(く)る間(あひだ)、178此処(ここ)に留守(るす)して居(ゐ)て下(くだ)さいますまいか。179一寸(ちよつと)行(い)つて参(まゐ)りますから……』
180玉治別(たまはるわけ)『ヘエそれは真(まこと)にお気(き)の毒(どく)な事(こと)ですな。181私(わたし)も急(いそ)ぐ旅(たび)ではあるが、182これを見(み)ては、183見棄(みす)てておく訳(わけ)にも行(ゆ)かぬ。184死人(しにん)の夜伽(よとぎ)をして居(を)るから、185サアサア早(はや)く行(い)て来(き)なさい』
186杢助(もくすけ)『是(こ)れで安心(あんしん)致(いた)しました。187どうぞ宜(よろ)しうお願(ねがひ)致(いた)します』
188とイソイソ戸外(こぐわい)に駆出(かけだ)して了(しま)つた。189玉治別(たまはるわけ)は、
190玉治別『エー仕方(しかた)がない。191偶(たまたま)家(いへ)があると思(おも)へば死人(しにん)の夜伽(よとぎ)を命(めい)ぜられ、192あんまり気分(きぶん)の良(い)いものぢやないワ。193それよりも千匹狼(せんびきおほかみ)と戦争(せんそう)する方(はう)が、194なんぼ気(き)が勇(いさ)んで、195心持(こころもち)が良(い)いか知(し)れない。196併(しか)しこれも時(とき)の廻(まは)り合(あは)せだ。197泥棒(どろばう)から金(かね)を貰(もら)ひ、198秘密(ひみつ)書類(しよるゐ)を巧(うま)く手(て)に入(い)れたと思(おも)へば、199一時(ひととき)経(た)つか経(た)たぬ間(ま)に、200忽(たちま)ち坊主(ばうず)の代(かは)りだ。201蚊(か)の喰(く)ふのに蚊帳(かや)も吊(つ)らずに、202こんな所(ところ)にシヨビンと残(のこ)されて、203蚊(か)の施行(せぎやう)を今晩(こんばん)はやらねばならぬか。204どこぞ此処(ここ)らに湯(ゆ)でも沸(わ)いては居(を)りませぬかな』
205と其処辺(そこら)中(ぢう)を探(さが)して見(み)ると、206口(くち)の欠(か)けた土瓶(どびん)が一(ひと)つ手(て)に触(さは)つた。
207玉治別『ヨー、208水(みづ)も大分(だいぶん)に汲(く)んであるワイ。209一層(いつそ)のこと、210土瓶(どびん)に湯(ゆ)でも沸(わ)かして飲(の)んでやらうかな』
211と木(き)の破片(はつり)屑(くづ)[※「はつり」は「斫(はつ)り」で、何かを壊したり削ったりすること。]を拾(ひろ)うて竈(かまど)に土瓶(どびん)を懸(か)け、212コトコトと焚(た)き出(だ)した。213瞬(またた)く間(うち)に湯(ゆ)は沸騰(たぎ)つた。
214玉治別『サアこれでも飲(の)んで、215一(ひと)つ夜(よ)を徹(あ)かさうかな』
216 フト女房(にようばう)の死骸(しがい)の方(はう)に目(め)を注(つ)けると、217頭(あたま)の先(さき)に無字(むじ)の位牌(ゐはい)を据(す)ゑ、218線香(せんかう)を立(た)て、219其(その)前(まへ)に握(にぎ)り飯(めし)が供(そな)へてある。220蒲団(ふとん)の中(なか)から細(ほそ)い手(て)を出(だ)して握(にぎ)り飯(めし)をグツと掴(つか)んでは取(と)り、221又(また)掴(つか)んでは取(と)るものがある。
222玉治別(たまはるわけ)『エー幽霊(いうれい)の奴(やつ)、223供(そな)へてある握(にぎ)り飯(めし)を喰(くら)つて居(ゐ)やがる。224此奴(こいつ)ア、225胃病(ゐびやう)かなんぞで死(し)んだ奴(やつ)だらう。226喰物(くひもん)に執着心(しふちやくしん)の深(ふか)い亡者(まうじや)だなア。227何(なん)だか首(くび)の辺(あた)りがゾクゾクと寒(さむ)うなつて来居(きを)つた。228エー構(かま)はぬ、229熱(あつ)い湯(ゆ)でも呑(の)んで元気(げんき)でも出(だ)さうかい』
230と口(くち)の焼(や)ける様(やう)な湯(ゆ)を、231欠(か)けた茶碗(ちやわん)に注(つ)いで、232フウフウと吹(ふ)きもつて飲(の)み始(はじ)め、
233玉治別『ヤア何(なん)だ。234ここの水(みづ)は炭酸(たんさん)でも含(ふく)んで居(を)るのか、235怪体(けつたい)な臭気(にほひ)がするぞ。236大方(おほかた)女房(にようばう)が薬入(くすりい)れか、237炭酸(たんさん)曹達(そうだ)でも入(い)れて居(を)つた土瓶(どびん)かも知(し)れないぞ。238あんまり慌(あわ)てて中(なか)を調査(しらべ)るのを忘(わす)れて居(を)つた。239ヤア何(なん)だか粘(ねば)つくぞ。240大変(たいへん)に粘着性(ねんちやくせい)のある水(みづ)だなア』
241と明(あか)りに透(す)かして見(み)ると、242燻(くすぶ)つた中(なか)からホンノリと文字(もじ)が浮(う)いて居(ゐ)る。243よくよく見(み)れば「お杉(すぎ)の痰壺(たんつぼ)代用(だいよう)」としてある。
244玉治別『エー怪(け)つ体(たい)の悪(わる)い、245此奴(こいつ)ア失策(しくじ)つた。246幽霊(いうれい)は細(ほそ)い手(て)を出(だ)して握(にぎ)り飯(めし)を食(く)ふ、247此方(こちら)は痰(たん)を呑(の)まされる、248怪(け)つ体(たい)なこともあればあるものだ。249……コレヤ最前(さいぜん)の男(をとこ)が俺(おれ)に与(く)れた此(この)包(つつ)みもヒヨツトしたら蜈蚣(むかで)か何(なに)かが出(で)て来(く)るのぢやあるまいかな。250一度(いちど)ある事(こと)は三度(さんど)あると云(い)ふから、251ウツカリ此奴(こいつ)は手(て)が付(つ)けられぬぞ。252開(あ)けたが最後(さいご)、253爆裂弾(ばくれつだん)でも這入(はい)つて居(を)つたら大変(たいへん)だ。254ヤア厭(いや)らしい、255又(また)細(ほそ)い手(て)で握(にぎ)り飯(めし)を掴(つか)んで居(ゐ)やがる。256大方(おほかた)喰(く)うて了(しま)ひよつた。257此奴(こいつ)ア、258中有(ちうう)なしに直(すぐ)に餓鬼道(がきだう)へ落(お)ちた精霊(せいれい)と見(み)えるワイ。259こんな所(とこ)に厭(いや)らしうて居(を)れるものぢやない。260併(しか)し一旦(いつたん)男(をとこ)が留守(るす)してやらうと請合(うけあ)つた以上(いじやう)は、261卑怯(ひけふ)にも逃(に)げ出(だ)す訳(わけ)にも行(ゆ)くまい。262やがて帰(かへ)つて来(く)るだらう。263それまで其処辺(そこら)の林(はやし)をぶらついて、264お月様(つきさま)のお顔(かほ)でも拝(をが)んで来(こ)よう。265斯(か)うなると、266我々(われわれ)に同情(どうじやう)を表(へう)して呉(く)れるのはお月様(つきさま)丈(だけ)ぢや。267竜国別(たつくにわけ)、268国依別(くによりわけ)其(その)他(た)の腰抜(こしぬけ)は、269どつかへ滅尽(めつじん)して了(しま)ひ、270寂(さび)しい事(こと)になつて来(き)たワイ』
271と門口(かどぐち)を跨(また)げ、272何時(いつ)とはなしに二三丁(にさんちやう)も歩(あゆ)み出(だ)し、273谷水(たにみづ)の流(なが)れに水(みづ)を掬(すく)ひ、274口(くち)に含(ふく)んで盛(さかん)に、275家鶏(にはとり)が水(みづ)を飲(の)む様(やう)に、276一口(ひとくち)入(い)れては首(くび)を挙(あ)げ、277ガラガラガラ ブーブーと吹(ふ)き、278又(また)一口(ひとくち)飲(の)んでは仰向(あふむ)き、279ガラガラガラガラ、280ブーブーブーと、281幾度(いくど)ともなく繰返(くりかへ)して居(ゐ)る。
282 火影(ほかげ)を目標(めあて)に探(さぐ)つて来(き)た竜国別(たつくにわけ)、283国依別(くによりわけ)、284遠州(ゑんしう)、285武州(ぶしう)外(ほか)四(よ)人(にん)は、286玉治別(たまはるわけ)の姿(すがた)を夜目(よめ)に見(み)て、287怪(あや)しき者(もの)と木蔭(こかげ)に佇(たたず)み、288様子(やうす)を窺(うかが)つて居(ゐ)る。
289遠州(ゑんしう)『モシ宣伝使(せんでんし)様(さま)、290ガラガラブーブーが現(あら)はれました。291ここは一(ひと)つ家(や)の木挽(こびき)小屋(ごや)、292何(なに)が出(で)るやら知(し)れませぬ。293アレヤきつと化州(ばけしう)でせう』
294国依別(くによりわけ)『ナニ幽霊(いうれい)が水(みづ)を飲(の)んでゐるのだ。295つまり含嗽(うがひ)をしてるのだよ。296貴様(きさま)行(い)つてしらべて来(こ)い』
297 玉治別(たまはるわけ)は木蔭(こかげ)にヒソビソ語(かた)る人声(ひとごゑ)を聞(き)きつけ、
298玉治別『オイ何処(どこ)の何者(なにもの)か知(し)らぬが、299俺(おれ)も連(つ)れがなくて、300淋(さび)しくつて困(こま)つて居(を)るのだ。301狼(おほかみ)でも泥棒(どろばう)でも何(なん)でも構(かま)はぬ。302遠慮(ゑんりよ)は要(い)らぬ。303這入(はい)つて、304マア湯(ゆ)が沸(わ)かしてあるから、305ゆつくりと飲(の)んだがよからうよ』
306竜国別(たつくにわけ)『アヽあの声(こゑ)は玉治別(たまはるわけ)によく似(に)て居(ゐ)るぢやないか』
307国依別(くによりわけ)『左様(さう)々々(さう)、308大方(おほかた)玉公(たまこう)の先生(せんせい)でせう……オイ玉(たま)ぢやないか』
309玉治別『その声(こゑ)は国(くに)だなア。310好(い)い所(とこ)へ来(き)て呉(く)れた。311マア面白(おもしろ)い見(み)せ物(もの)も見(み)ようと儘(まま)だし、312湯(ゆ)も沢山(たくさん)に沸(わ)いてるから、313トツトと俺(おれ)に従(つ)いて来(こ)い。314今日(けふ)は山中(さんちう)の一(ひと)つ家(や)の臨時(りんじ)御(ご)主人公(しゆじんこう)だ。315サア此方(こちら)へ……』
316と手招(てまね)きし乍(なが)ら、317月光(げつくわう)漏(も)るる谷路(たにみち)を帰(かへ)つて行(ゆ)く。
318遠州(ゑんしう)『ヤア此家(ここ)は杢助(もくすけ)と云(い)ふ強力者(ちからづよ)の住(す)まつて居(ゐ)る木挽(こびき)小屋(ごや)です。319彼奴(あいつ)に随分(ずゐぶん)、320我々(われわれ)の仲間(なかま)は酷(えら)い目(め)に遭(あ)うたものです。321剣術(けんじゆつ)、322柔術(じうじゆつ)の達人(たつじん)で、323三十(さんじふ)人(にん)や五十(ごじふ)人(にん)は手毬(てまり)の様(やう)に投(な)げ付(つ)ける奴(やつ)ですよ。324さうして立派(りつぱ)な嬶(かか)アを持(も)つて居(ゐ)るのです。325その嬶(かか)アが又(また)中々(なかなか)の強者(しれもの)で、326杢助(もくすけ)に相当(さうたう)した腕力(わんりよく)を持(も)つて居(を)るのだから、327誰(たれ)も此処(ここ)ばつかりは、328怖(こは)くてよう窺(うかが)はなかつた所(ところ)です。329私(わたくし)等(ら)は顔(かほ)をこれまでに見(み)られて居(を)るから剣呑(けんのん)です。330貴方(あなた)がたどうぞお這入(はい)り下(くだ)さいませ。331暫時(しばらく)木蔭(こかげ)で待(ま)つて居(ゐ)ますから』
332竜国別(たつくにわけ)『何(なに)、333我々(われわれ)が付(つ)いて居(を)れば大丈夫(だいぢやうぶ)だ。334遠慮(ゑんりよ)は要(い)らぬ。335今日(けふ)は玉公(たまこう)親分(おやぶん)の家長権(かちやうけん)を持(も)つて居(を)る日(ひ)だから、336トツトと這入(はい)つたがよからう』
337遠州(ゑんしう)『それでもあんまり閾(しきゐ)が高(たか)く跨(またが)れませぬワ』
338竜国別(たつくにわけ)『ハハア、339ヤツパリお前(まへ)にも羞悪(しうを)の心(こころ)がどつかに残(のこ)つて居(を)るな。340そんなら暫(しばら)く泥棒組(どろばうぐみ)は木蔭(こかげ)に待(ま)つて居(ゐ)て呉(く)れ』
341遠州(ゑんしう)『泥棒組(どろばうぐみ)とは酷(ひど)いぢやありませぬか。342最早(もはや)我々(われわれ)はピユリタン組(ぐみ)とは違(ちが)ひますかいな』
343竜国別(たつくにわけ)『ピユリタン組(ぐみ)でも泥棒組(どろばうぐみ)でも良(い)いワ。344暫(しばら)く其処辺(そこら)へドロンと消(き)えて、345待(ま)つてゐるのだよ』
346と云(い)ひ棄(す)て、347竜(たつ)、348国(くに)の両人(りやうにん)はヌツと家中(うち)に這入(はい)り、
349竜国別、国依別『ヤア割(わ)りとは山中(さんちう)に似(に)ず、350小瀟洒(こざつぱり)とした家(いへ)だなア』
351玉治別『エヽ定(きま)つた事(こと)だい。352俺(おれ)が家長権(かちやうけん)を握(にぎ)つた大家庭(だいかてい)だから、353隅(すみ)から隅(すみ)まで能(よ)く行届(ゆきとど)いて居(を)らうがな。354併(しか)し俺(おれ)の嬶(かかあ)が俄(にはか)の罹病(わづらひ)で死亡(しぼう)しよつたのだ。355就(つい)ては俺(おれ)に恋着心(れんちやくしん)が残(のこ)つたと見(み)えて、356死(し)んでからでも細(ほそ)い手(て)を出(だ)して、357十(とを)許(ばか)りの握(にぎ)り飯(めし)を既(すで)に八(やつ)つ許(ばか)り平(たひ)らげて了(しま)ひよつたのだ。358マア湯(ゆ)でも呑(の)んでユツクリと嬶(かか)アの夜伽(よとぎ)をしてやつて呉(く)れ』
359国依別(くによりわけ)『又(また)しても、360しようもない。361本当(ほんたう)に当家(たうけ)に死人(しにん)があつたのか。362貴様(きさま)泥棒(どろばう)の臨時(りんじ)親方(おやかた)になつたと思(おも)うて、363強盗(がうたう)をやつて此家(ここ)の大切(たいせつ)な嬶(かか)アを殺(ころ)したのぢやないか』
364玉治別(たまはるわけ)『若(わか)い時(とき)から、365女殺(をんなごろ)しの後家倒(ごけだふ)し、366姫殺(ひめごろ)しと綽名(あだな)を取(と)つた玉治別(たまはるわけ)ぢや。367口(くち)でも殺(ころ)せば、368目(め)でも殺(ころ)すと云(い)ふ業平(なりひら)朝臣(あそん)だから、369女(をんな)の一人(ひとり)位(くらゐ)、370強盗(がうたう)になつて殺(ころ)すのは当然(あたりまへ)だよ』
371竜国別(たつくにわけ)『マサカ人(ひと)の女房(にようばう)を殺(ころ)す様(やう)な、372貴様(きさま)も悪人(あくにん)ではなかつたが、373三国(みくに)ケ嶽(だけ)の鬼婆(おにばば)の霊(れい)でも憑(つ)きよつたのかなア。374エライ事(こと)をして呉(く)れたものだワイ』
375玉治別『マアどうでも良(い)い。376湯(ゆ)が沸(わ)いて居(を)るから一杯(いつぱい)飲(の)んだらどうだ。377これも玉治公(たまはるこう)がお手(て)づからお沸(わか)し遊(あそ)ばした結構(けつこう)なお湯(ゆ)だ。378チヨツと毒試(どくみ)をして見(み)たが、379随分(ずゐぶん)セキタン臭(くさ)い水(みづ)だ。380併(しか)し胃病(ゐびやう)の薬(くすり)には良(い)いかも知(し)れないわ』
381国依別(くによりわけ)『一寸(ちよつと)其(その)土瓶(どびん)を俺(おれ)に貸(か)して呉(く)れ。382調査(しらべ)る必要(ひつえう)があるから。383ウツカリ知(し)らぬ宅(うち)へ来(き)て、384湯(ゆ)でも飲(の)まうものなら、385どんな毒薬(どくやく)が仕込(しこ)んであるか分(わか)つたものぢやないわ』
386玉治別『ナアニ、387抜目(ぬけめ)のない玉治公(たまはるこう)がチヤンと査(しら)べてある。388決(けつ)して毒(どく)ぢやない。389これは宝丹(はうたん)の入(い)れ物(もの)だ。390それで宝丹(はうたん)の匂(にほ)ひが少(すこ)しはして居(を)る』
391とニヤリと笑(わら)ふ。392国依別(くによりわけ)は、
393国依別『ナニ放痰(はうたん)、394いやマスマス怪(あや)しいぞ』
395と無理(むり)に取(と)り上(あ)げ、396灯(ひ)にすかして見(み)て、
397国依別『ヤア何(なん)だか印(しるし)が付(つ)いて居(ゐ)る……お杉(すぎ)の痰壺(たんつぼ)代用(だいよう)……エイ胸(むね)の悪(わる)い』
398と云(い)ひなり、399不潔(きたな)さうに土瓶(どびん)を握(にぎ)つた手(て)を放(はな)した。400土瓶(どびん)は庭(には)にバタリと落(お)ちて滅茶(めつちや)々々(めつちや)に破(わ)れ、401煮湯(にえゆ)はパツと四方(しはう)に飛(と)び散(ち)り、402三(さん)人(にん)の顔(かほ)に熱(あつ)い臭(くさ)い奴(やつ)が、403厭(いや)と云(い)ふ程(ほど)御(お)見舞(みまひ)申(まを)した。
404竜国別(たつくにわけ)『サツパリ男(をとこ)の顔(かほ)に墨(すみ)ではなうて、405痰(たん)を塗(ぬ)りやがつたな。406ヤアヤア死人(しにん)がムクムクと動(うご)き出(だ)したぢやないか。407永久(えいきう)の死人(しにん)ぢやあるまい。408夜分(やぶん)になつたら臨時死(りんじし)ぬると云(い)ふ睡眠(すゐみん)状態(じやうたい)だらう』
409玉治別(たまはるわけ)『そんな死方(しにかた)なら、410誰(たれ)でも毎晩(まいばん)やつて居(ゐ)るぢやないか。411お前(まへ)達(たち)の様(やう)な怠惰者(なまくらもの)は日(ひ)が永(なが)いとか云(い)つて、412木(き)の蔭(かげ)で一時(ひととき)も二時(ふたとき)も、413チヨコチヨコ死(し)ぬぢやないか。414そんな死(し)にやうとはチツト違(ちが)ふのだい。415徹底(てつてい)的(てき)の永(なが)き眠(ねむり)に就(つ)いて十万(じふまん)億土(おくど)へ精霊(せいれい)の旅立(たびだち)の最中(さいちう)だ』
416竜国別(たつくにわけ)『それにしては、417細(ほそ)い手(て)を出(だ)して飯(めし)を掴(つか)んで食(く)つたり、418ムクムク動(うご)いて居(を)るぢやないか』
419玉治別(たまはるわけ)『オイ国依別(くによりわけ)、420お前(まへ)は宗彦(むねひこ)と云(い)つて、421随分(ずゐぶん)に嬶(かか)アを沢山(たくさん)に泣(な)かしたり、422殺(ころ)したと云(い)ふ事(こと)だが、423大方(おほかた)其(その)亡念(まうねん)が此家(ここ)の死人(しにん)に憑(つ)いて居(を)るのかも知(し)れないぞ』
424国依別(くによりわけ)『何(なん)にしても気分(きぶん)の悪(わる)い家(うち)だ。425さうして此家(ここ)の主人(しゆじん)は何処(どこ)へ行(い)つたのだい』
426玉治別(たまはるわけ)『一寸(ちよつと)買物(かひもの)に行(い)つて来(く)るから、427帰(かへ)るまで留守(るす)を頼(たの)むと云(い)つて出(で)たなり、428まだ帰(かへ)つて来(こ)ないのだ。429随分(ずゐぶん)暇(ひま)の要(い)る事(こと)だなア』
430 死人(しにん)を寝(ね)かした夜具(やぐ)は、431ムクムクと動(うご)き出(だ)した。432五(いつ)つ六(むつ)つの女(をんな)の児(こ)がムクツと起(お)きあがり……
433子供(こども)『お父(とう)さん お父(とう)さん お父(とう)さん』
434と四辺(あたり)をキヨロキヨロ見廻(みまは)して居(ゐ)る。435三(さん)人(にん)はヤツと胸(むね)撫(な)でおろし、
436三(さん)人(にん)『ヤアこれで細(ほそ)い手(て)も、437握(にぎ)り飯(めし)掴(つか)みも解決(かいけつ)がついた』
438 斯(か)かる所(ところ)へスタスタと帰(かへ)つて来(き)たのは主人(しゆじん)の杢助(もくすけ)、
439杢助(もくすけ)『巡礼(じゆんれい)さま、440エライ御(ご)厄介(やくかい)になりました。441何分(なにぶん)急(いそ)いで行(い)つたのですけれど、442夜分(やぶん)の事(こと)とて先(さき)が容易(ようい)に起(お)きてくれませぬので、443つい手間取(てまど)りまして、444エライ御(ご)迷惑(めいわく)を掛(か)けました』
445玉治別(たまはるわけ)『エー滅相(めつさう)な、446どう致(いた)しまして……ここに二人(ふたり)居(を)りますのは、447我々(われわれ)の兄弟分(きやうだいぶん)で御座(ござ)います。448どうぞお見知(みし)り置(お)かれますやうに』
449 子供(こども)は、
450子供(お初)『お父(とう)さん』
451と走(はし)つて抱(だ)きつく。
452杢助(もくすけ)『アーお前(まへ)は賢(かしこ)い子(こ)だ。453よう留守(るす)をして居(を)つた。454あんな死(し)んだお母(か)アの側(はた)に黙(だま)つて寝(ね)て居(ゐ)るとは、455肝(きも)の太(ふと)い奴(やつ)だ。456世(よ)の中(なか)には大(おほ)きな男(をとこ)が、457宣伝(せんでん)をしに歩(ある)いて居(を)つても、458死人(しにん)の側(そば)には怖(こは)がつて、459三(さん)人(にん)も五(ご)人(にん)も居(を)らねば、460夜伽(よとぎ)をようせぬものだが、461子供(こども)はヤツパリ罪(つみ)が無(な)いワイ』
462 玉治別(たまはるわけ)は頭(あたま)を掻(か)き、
463玉治別『ヤア恐(おそ)れ入(い)りました。464私(わたくし)もチツとも怖(こわ)くはありませぬ』
465杢助『女房(にようばう)の霊前(れいぜん)にお経(きやう)を唱(とな)へて下(くだ)さいましたか』
466玉治別『ハイ、467お茶湯(ちやたう)を献(あ)げませうと思(おも)つて、468つい考(かんが)へて居(を)りました。469併(しか)し遠距離(ゑんきより)読経(どきやう)をやつて置(お)きました。470それも無形(むけい)無声(むせい)の、471暗祈(あんき)黙祷(もくたう)、472愈(いよいよ)これから始(はじ)める所(ところ)で御座(ござ)います』
473と何(なに)が何(なに)やら間誤(まご)ついて、474支離(しり)滅裂(めつれつ)の挨拶(あいさつ)をやつて居(ゐ)る。475ここに三(さん)人(にん)は霊前(れいぜん)に向(むか)ひ、476神言(かみごと)を奏上(そうじやう)し、477お杉(すぎ)の冥福(めいふく)を祈(いの)り、478遠州(ゑんしう)外(ほか)五(ご)人(にん)の手伝(てつだひ)の下(もと)に、479野辺(のべ)の送(おく)りを無事(ぶじ)に済(す)ました。
480玉治別(たまはるわけ)『ヤアこれで無事(ぶじ)終了(しうれう)、481先(ま)づ先(ま)づお芽出(めで)……たくもありませぬ。482惟神(かむながら)霊(たま)幸(ち)はへ坐(ま)せ惟神(かむながら)霊(たま)幸(ち)はへ坐(ま)せ惟神(かむながら)霊(たま)幸(ち)はへ坐(ま)せ』
483杢助(もくすけ)『有難(ありがた)う御座(ござ)いました』
484 一同(いちどう)は、
485一同『左様(さやう)ならば……随分(ずゐぶん)御(ご)壮健(さうけん)でお暮(くら)しなさいませ』
486と立(た)つて行(ゆ)かむとする。487杢助(もくすけ)は、
488杢助(もくすけ)『モシモシ、489此処(ここ)にこんな風呂敷(ふろしき)包(づつみ)が残(のこ)つて居(ゐ)ます。490コレはお前(まへ)さまのぢやあるまいかな』
491玉治別(たまはるわけ)『ヤア到頭(たうとう)忘(わす)れて居(ゐ)た。492これは私(わたくし)ので御座(ござ)います』
493杢助(もくすけ)『お前(まへ)さまのに間違(まちが)ひはないか』
494玉治別(たまはるわけ)『実(じつ)の所(ところ)は峠(たうげ)の岩(いは)に休息(きうそく)して居(を)つた時(とき)に、495乾児(こぶん)がやつて来(き)て、496お頭様(かしらさま)此(この)通(とほ)りと言(い)つて渡(わた)して行(ゆ)きやがつたのだ。497金(かね)も随分(ずゐぶん)沢山(たくさん)あるだらう』
498杢助(もくすけ)『其(その)方(はう)は巡礼(じゆんれい)に見(み)せかけ、499大泥棒(おほどろばう)を働(はたら)く奴(やつ)だ。500コレヤ此(こ)の風呂敷(ふろしき)は現在(げんざい)杢助(もくすけ)の所持品(しよぢひん)だ。501これを見(み)よ。502杢(もく)の印(しるし)が付(つ)いて居(ゐ)る。503此間(こなひだ)の晩(ばん)に、504五六(ごろく)人(にん)抜刀(ぬきみ)で躍(をど)り込(こ)んで、505俺(おれ)の留守(るす)を幸(さいはひ)に、506包(つつ)みを持(も)つて帰(かへ)つた小盗人(こぬすと)がある。507女房(にようばう)は何時(いつ)もならば木端(こつぱ)盗人(ぬすと)の三十(さんじふ)や五十(ごじふ)、508束(たば)になつて来(き)た所(ところ)が感応(こた)へぬのだが、509何分(なにぶん)労咳(らうがい)で骨(ほね)と皮(かは)とになつて居(ゐ)た所(ところ)だから、510ミスミス盗(と)られて了(しま)つたのだ。511さうすると貴様(きさま)はヤツパリ泥棒(どろばう)の親分(おやぶん)だな。512サア斯(か)く現(あら)はれし上(うへ)は百年目(ひやくねんめ)、513此(この)杢助(もくすけ)が片(かた)つ端(ぱし)から素首(そつくび)を引抜(ひきぬ)いてやらう。514……何(いづ)れも皆(みな)覚悟(かくご)せい』
515と鉞(まさかり)を揮(ふる)つて勢(いきほひ)鋭(するど)く進(すす)んで来(く)る。
516玉治別(たまはるわけ)『待(ま)つた待(ま)つた。517嘘(うそ)だ嘘(うそ)だ。518夜前(やぜん)泥棒(どろばう)が俺(おれ)に渡(わた)したのだよ。519俺(おれ)や決(けつ)して泥棒(どろばう)でも何(なん)でもない。520マア待(ま)て待(ま)て……』
521杢助(もくすけ)『泥棒(どろばう)が泥棒(どろばう)でない者(もの)に金(かね)を渡(わた)すと云(い)ふ事(こと)があるかい。522貴様(きさま)もヤツパリ泥棒(どろばう)の張本人(ちやうほんにん)だ。523サア量見(りやうけん)致(いた)さぬ』
524と今(いま)や頭上(づじやう)より玉治別(たまはるわけ)を梨割(なしわり)にせむとする此(この)刹那(せつな)『一(ひと)二(ふた)三(み)四(よ)……』の天(あま)の数歌(かずうた)を一生(いつしやう)懸命(けんめい)に称(とな)へ始(はじ)めた。525玉治別(たまはるわけ)の手(て)を組(く)んだ食指(ひとさしゆび)の尖端(せんたん)より五色(ごしき)の霊光(れいくわう)放射(はうしや)し、526杢助(もくすけ)は身体(しんたい)強直(きやうちよく)して其(その)場(ば)に忽(たちま)ち銅像(どうざう)の様(やう)になつて了(しま)つた。
527玉治別(たまはるわけ)『ハヽヽヽヽ』
528竜国別(たつくにわけ)『オイ玉公(たまこう)、529我々(われわれ)に離(はな)れて何処(どこ)へ行(い)つたかと思(おも)へば、530泥棒(どろばう)をやつて居(ゐ)たのだな。531モウ今日(けふ)限(かぎ)り貴様(きさま)と縁(えん)を絶(き)るから、532さう思(おも)へ』
533国依別(くによりわけ)『オイお前(まへ)は何(なん)とした卑(さも)しい根性(こんじやう)になつたのだ。534俺(おれ)はモウ合(あ)はす顔(かほ)が無(な)いワイ』
535と涙声(なみだごゑ)になる。536玉治別(たまはるわけ)は一伍(いちぶ)一什(しじふ)を詳細(しやうさい)に物語(ものがた)り、537漸(やうや)く二人(ふたり)の疑(うたが)ひは氷解(ひようかい)した。538杢助(もくすけ)は固(かた)まつた儘(まま)、539此(この)実地(じつち)を目撃(もくげき)して、540玉治別(たまはるわけ)の無実(むじつ)を悟(さと)つた。541玉治別(たまはるわけ)は「ウン」と一声(いつせい)指頭(しとう)を以(もつ)て霊縛(れいばく)を解(と)いた。542杢助(もくすけ)は旧(もと)の身体(からだ)に復(ふく)し、
543杢助(もくすけ)『お客(きやく)さま、544失礼(しつれい)な事(こと)を申上(まをしあ)げました。545どうぞ御(ご)勘弁(かんべん)下(くだ)さいませ』
546玉治別(たまはるわけ)『分(わか)つたらそれで結構(けつこう)です……何(なに)も言(い)ふ事(こと)はありませぬ。547併(しか)し此(この)包(つつ)みはあなた調(しら)べて下(くだ)さい』
548杢助(もくすけ)『そんなら皆様(みなさま)の前(まへ)で検(しら)べて見(み)ませう』
549とガンヂガラミに括(くく)つた風呂敷(ふろしき)包(づつみ)を解(と)き開(ひら)いて見(み)れば、550金色(きんしよく)燦然(さんぜん)たる金銀(きんぎん)の小玉(こだま)ザラザラと現(あら)はれて来(き)た。551さうして一冊(いつさつ)の手帳(てちやう)が出(で)て来(き)た。552開(ひら)いて見(み)れば、553アルプス教(けう)の秘密(ひみつ)書類(しよるゐ)である。554三(さん)人(にん)はこれ幸(さいは)ひと懐中(くわいちゆう)に収(をさ)め、555後(あと)は杢助(もくすけ)に返(かへ)し、556九人(くにん)連(づ)れ此(この)家(や)を発(た)つて津田(つだ)の湖辺(こへん)に向(むか)つて宣伝歌(せんでんか)を歌(うた)ひ乍(なが)ら勢(いきほひ)よく進(すす)み行(ゆ)く。
557(大正一一・五・一七 旧四・二一 松村真澄録)
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